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土佐勤王党で天誅組・吉村虎太郎

2010年01月06日 | 幕末

 吉村虎太郎1837-1863は、幕末土佐藩出身の志士で、間崎哲馬に学問を、武市半平太に剣術を学び尊攘思想に傾倒して、武市が結成した土佐勤王党に加盟する。1862年には武市の命により長州・久坂玄瑞との面会後は、薩摩藩国父島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画に賛同するも、武市瑞山の挙藩勤王方針に反対された。 やむなく、吉村は少数の同志を説いて脱藩を決行するが、 同時期に坂本龍馬・宮地宜蔵も脱藩している。 脱藩後は福岡藩士・平野国臣(早くから勤王の志を抱くが、生野挙兵で破れ処刑された) に会い、長州・久坂玄瑞を頼った。 長州藩邸では越後志士・本間精一郎をはじめ平野国臣、真木和泉らが島津久光の上洛を待ちわびていた。 しかし、島津久光の上洛目的は倒幕挙兵ではなく公武合体であり、過激派藩士・浪士の動きを知った久光は粛清のために新撰組に寺田屋を襲撃させたのである。 寺田屋事件の翌日に吉村虎太郎及び宮地宜蔵は捕えられ薩摩藩邸に誘致され土佐藩に引渡され禁獄されるが、政情が尊攘派に有利になり、安政の大獄、寺田屋事件の関係者が赦免されるにともない、吉村虎太郎も釈放された。 釈放後は再び京都へ上り孝明天皇大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光(中山忠能の七男で明治天皇の叔父にあたる。明治天皇の母・中山慶子は異母姉にあたる)を擁立して天誅組を組織する。 天誅組の過激な行動を危惧した三条実美は自重を促そうと平野国臣を遣わすが、天誅組挙兵直後に八月十八日の政変が起こり、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされると、天誅組は孤立してしまった。  

 幕府の討伐軍に対抗するために吉村ら天誅組は十津川郷士を募兵するが、 諸藩の大軍の攻撃を受けて敗退し、 中山忠光を逆賊とする詔が下るに及んで十津川郷士も離反する。 天誅組は諸藩からの攻撃から脱出すべく紀州・彦根藩兵と吉野山にて戦闘となり、主将の中山忠光は辛うじて脱出するが、ほとんどが戦死するか捕縛され天誅組は壊滅した。 この時、吉村虎太郎も津藩兵に発見され射殺されている。

辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

木屋町通三条にある吉村虎太郎寓居跡

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