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秀吉の城郭風屋敷・聚楽第跡地

2010年01月05日 | 戦国時代

  秀吉が得意の調略により公家・摂家を味方にして天皇より豊臣の姓を賜り、最高権威を獲得した晩年に、その象徴そして聚楽第を築いた。 場所は京都御所の西隣りで平安宮のあったところで規模は御所よりも広大であったという。 寺町・木屋町通で、幕末巡りをしながらちょっと寄ってみました。いつも思うのですが、奈良と違って京都には石碑ばかりで現存する建屋などはないので残念な限りです。

 関白で太政大臣となった秀吉が1586年に築き始め翌年に完成させた関白の政庁で、城郭風の屋敷が聚楽第で、二条城のすぐ北に位置していた。 完成した直後に秀吉は大阪から母・妻らを伴って聚楽第に移り、北野天満宮で完成を記念した大茶会を催している。 これは九州から凱旋した秀吉が計画したもので、茶の湯の好きなものは町人・百姓でも参加できるものであった。  1588年には後陽成天皇が多数の公卿を従えて聚楽第に行幸したのは有名である。 聚楽第は秀吉の権勢の頂点と示されたが、完成から8年後に豊臣秀次を失脚させた後に自らの手により取り壊してしまった。  聚楽第の本丸は大内裏の主殿寮などの跡地にでき、諸大名の屋敷も建てられ、如水町、福島町の名でその名残が残っている。 屋敷の塀には金箔の瓦で葺かれるほどに豪華絢爛で聚楽第の東、御所より西の中立売通に集中している。 大名屋敷跡からはさまざまな家紋のはいった瓦が出土され、織田家の家紋である五葉木瓜文も見つかり、内大臣・織田信雄の屋敷があったあったことが伺える。

平安時代には大内裏があり、後に秀吉により聚楽第が建てられた。律令制下の政庁・天皇居所跡に自己の政庁兼屋敷を造ることを意図した聚楽第は聚楽亭ともいわれ、堀をめぐらした平城ではあるが、戦闘を目的とした城郭ではなかった。大きさは現在の京都御所 と同じくらいの規模で、御所の西一帯に広がっていた。後陽成天皇の行幸が2度も行われるほど秀吉、秀次の権勢を誇るものであったが、秀吉が1595年に秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させた後は、徹底的に取り壊された。

 

この地は大内裏及び聚楽第東濠があったとされる場所で、1992年工事現場の地中から金箔の付着した瓦約600点が出土し、豊臣秀吉ゆかりのデザイン瓦であったという。

 1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 秀次は左大臣も兼ねたがそれにふさわしい力量はなかった。それまで左大臣であった教養人で三筆の近衛信尹は職を追われ、秀次は聚楽第を継ぎ、秀吉は隠居屋敷をつくる。 これが伏見城である。 秀次は秀吉の姉と三好吉房の子で、秀吉の養子にもなり、抜擢し続けた。 近江八幡で43万石の大名に取り立て、尾張清洲の大名とし、関白にしたあと聚楽第まで譲ったのである。 

 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。 前々から秀次の学問指南役であった東福寺の隆西堂は僧でありながら殉死し、若い近習も数名後を追った。 山内一豊など重臣は殉死せず、秀次の妻子ら三十数名が三条河原で惨殺され、聚楽第も徹底的に破壊されたのである。

 後に高瀬川を開削した角倉了以が、三条小橋の東詰に瑞泉寺を建立した。角倉了以の弟がかつて秀次に仕えており、秀次の法名をとって寺を造ったのである。 現在瑞泉寺には秀次の墓碑と多くの妻子の墓が並んでいる。殺された妻子・妾には大名・公卿出身の者もいたが遺族が遺骸をひきとることすら許されなかったという。 破壊された聚楽第は完全に消滅し現在は唐門が大徳寺へ移されたのみである。

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