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京都八坂二寧坂

2010年01月10日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

八坂二寧坂で撮影をお願いした舞妓さん姿のお嬢さんは緊張しきりです

二寧坂の入り口のお店でも龍馬うどんのメニューがありました

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長州藩間者で桝屋の主人・古高俊太郎

2010年01月10日 | 幕末

 古高俊太郎1829-1864は攘夷派の志士で、父・周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住し尊皇攘夷を唱える梅田雲浜の門を叩いている。 彼は楠正成を賛美した勤皇の思想家・浅見絅斎の流れを汲む上原立斉が開いた私塾「湖南塾」 通い、勤皇思想を学び政治活動家への道を進むようになる。このとき、 師である梅田雲濱は「安政の大獄」により捕縛され、江戸の小笠原藩邸で獄死します。 師の遺志を継いで勤皇活動を続けているうちに幕吏に目を付けられます。 梅田雲濱と活動していた湯浅五郎兵衛という郷士から 「木屋町四条の桝屋喜右衛門が跡取も無く、店を建て直すために養子に入ってほしい」 という依頼を受けて、世を晦ます意味もあって古高家は弟為次郎正裕に譲り、1861年、湯浅家の桝屋喜右衛門の養子となり桝喜を名乗り潜行して倒幕運動の活動を展開することになります。 桝屋は薪炭商として諸藩と広く商いを行い、特に筑前藩の御用達を務め、多くの志士の拠点となった。 宮部鼎蔵、大高又次郎と交流し、久坂玄瑞や桂小五郎らを有栖川宮家との間をつなぐなど長州間者として情報活動と武器調達にあたった。 有栖川宮家に近づく方法として、漢学者・大沢晩翠に師事し、晩翠が烏丸光徳卿の儒臣であることから烏丸卿に歌学を学び多くの公家との交友を深め、有栖川宮との縁を深めた。

 一方、新撰組を含め幕府探索方が勤皇方を探るなかで、新撰組は8・18クーデター以後に長州系の浪人が多く入り込んでいるのをキャッチ、捕縛した者からも情報を得て、古高捕縛の4日前に宮部鼎蔵の下僕忠蔵も捕縛する。 さらに、桝屋の番頭の裏切りもあったようで、新撰組は、6月5日の早朝に武田観柳斉以下数名の隊士が桝屋喜右衛門方を急襲して古高俊太郎を捕縛し、証拠となる書類を押収、具類や会津の印が入った提灯類もあったという。 新撰組が踏み込んだ時に女中の「とめ」が当時八歳の樟之助(湯浅五郎兵衛の次男)を連れ「書簡や書類」を懐中に納め脱出したという。 古高俊太郎は、今も現存する壬生屯所前川邸で局長・近藤勇、副長・土方歳三から厳しい取調べを受け、ついに自白したという。 その内容は八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが御所に火を放ち佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものであった。

古高俊太郎寓居跡                   桝屋土蔵跡(九の舟入跡)

 

 高瀬川沿いの木屋町通には多くの舟入(荷の揚げ降ろし場)があり、四条から北には各藩邸や様々な商いの店が軒を並べていたことが、高瀬川沿いに残る樵木町、材木町、紙屋町、米屋町などの町名から想像される。 商家の隠居所や保養所なども多く見られ、幕末においては各藩の志士達が密会の場所や隠れ家として利用するのに好都合な街であった。 古高俊太郎の桝屋商店も木屋町四条上るにあった。 四条通から高瀬川沿いに北へ30メートルの角地に店を構え、店の北側は「九の舟入」という荷揚場があって、「桝喜」は高瀬川から西へ本宅一棟、土蔵二棟、借家十八棟、納屋一棟と建物が並んでいた。(石碑の場所は蔵の址という)

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