坂本龍馬をテーマとして、彼と関わった幕末の人物について紹介してきたが、ここからは、時代の流れを辿ってみる。 まずは幕末の動乱のきっかけとなった日米修好通商条約から桜田門外の変までを簡単に振り返る。
1857年日本側代表・岩瀬忠震らとアメリカ総領事ハリスとの間で条約協議が始められ、翌年には日米修好通商条約全十四ヶ条についての協議が終了した。 条約内容がほぼきまった段階で将軍家定臨席のもと、老中首座堀田正睦が「やむなし」と演説したとき、攘夷策を上申した大名はごくわずかであり通商決断を大名たちは了承した。 そして幕府は京都の天皇の勅許を求めたが、天皇・朝廷は条約の承認を拒否したことから幕末の政争が始まることとなる。 維新史では、朝廷の天皇と貴族たちが修好通商条約案承認を拒否したのは、条約に反対する大名と志士たちの入説によるものとしている。幕末の世論は条約拒否で沸騰しており、軟弱な幕府に対して日本の世論を受けた天皇朝廷が条約拒否を貫いたという構図がある。 当時26歳の孝明天皇は修好通商条約を一大事と考え関白・九条尚忠に相談し、条約の不承認を示すと安政の大獄1858-1859の弾圧を受けるまで変えなかった。 孝明天皇は関白・九条尚忠や左大臣近衛忠煕、内大臣三条実万に対して条約不承認の立場を貫き妥協する考えのないことを言明した。
幕府との強調路線にいた薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らはペリー来航時は徳川斉昭と同様の攘夷論であったが、その後は開国派に転じ堀田老中の開国策を支持した。 薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信らは将軍後継者をめぐって三卿の一橋慶喜を擁立する運動を始めていた。 将軍家慶の急死によって13代将軍に就いた家定は病弱で嗣子がなかったため、後継者は血統から紀州藩主・徳川慶福が有力であったが、松平慶永ら改革派藩主は徳川斉昭の子で一橋家に入れていた慶喜を擁立する。これに対して井伊直弼らは南紀派と呼ばれる運動をする。
有力大名の中で最も早く積極通商論に変わったのは島津斉彬である。縁家の近衛・三条家に、また徳川斉昭も鷹司政通に「いわれなく、打ち払いと申す事にもあいなりかね」 という書簡を送り橋本左内を入京させた松平慶永の後押しをした。 老太閤鷹司政通は孝明天皇が16歳で天皇を継いだとき准摂政に就いていた。 政通は光格、仁孝、孝明の閑院宮系三代の天皇に仕え34年間に渡って関白を務めた開国派で、斉昭からの書簡を孝明天皇に見せていることから条約承認を楽観視した。 条約不承認を貫こうとした孝明天皇にとっては鷹司政通は鬼門である。 政通の祖父・輔平は閑院宮を創設した直仁親王の実子で東山天皇と血統的にはつながっている。 確かに光格、孝明、明治の閑院宮系天皇の血統は弱く、光格天皇は天皇権の強化に努めるべく、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府と強調した前関白の鷹司輔平に望みを絶たれている。 孝明天皇は鷹司政通のいいなりになるのを恐れて、九条尚忠、近衛忠煕、三条実万に対しては条約不承認の立場を貫き妥協する考えのないことを言明したのである。 特に九条尚忠には猛烈に働きかけている。 しかし九条尚忠は幕府から課された天皇を規制する役目を理由に幕府側に転じた。そして近衛忠煕、三条実万や青蓮院宮に不穏な動きがあるとして天皇への面会を禁止している。 これを機に、伏見宮家の青蓮院宮・朝彦親王は条約承認問題の表舞台に登場し、後に公武合体運動で活躍する。
1858年4月、井伊直弼は大老に任命され将軍継承問題は慶福で決着し、一橋派の幕臣・川路は左遷となり1868年ピストル自殺した。井伊直弼の安政の大獄では一橋派の橋本左内ら藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭ら大名はことごとく処分され、橋本左内、吉田松陰は死罪となった。 薩摩藩では安政の大獄と前々藩主斉興の抑圧のもと中下級武士大久保利通などが結束し、斉彬の遺志を継いで水戸、長州、越前諸藩と連携して井伊直弼大老、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃する計画を立てていた。 島津久光の進言により脱藩を中止した大久保らは藩とともに出兵する道を選び、誠忠組と称して薩摩藩の尊皇攘夷派をつくる。 そして島津久光は小松帯刀、大久保利通らと兵1千余を率いて鹿児島から出発、 水戸との連携を深めていた有村次左衛門は薩摩を脱藩し、1860年水戸藩と薩摩藩の尊皇攘夷派は伏見の寺田屋で発起を計画し挙兵の盟約が成立し、水戸藩士17名と薩摩藩士1名は登城する井伊直弼を襲い、有村次左衛門が井伊直弼を暗殺した。 桜田門外の変である。
107後陽成天皇 櫛笥隆子(逢春門院)
┣聖興女王 ┣光子内親王
┣清子内親王 ┣良仁親王(111後西天皇)
┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680
┣尊英女王 ┃┃┣興子内親王(109明正天皇)
┣近衛信尋 ┃┃┣昭子内親王
┃ ┃┃┃ ┣近衛基熙(左大臣) ━┓
┃ ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┃
┃ ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃
┃ ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王 ┏━━━┛
┣一条昭良 ┃┃徳川和子(東福門院) ┃
┣貞子内親王 ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
┣庶愛親王 ┃┣守澄法親王 ┃
┣尊蓮女王 ┃園光子(壬生院) ┃幸子女王(承秋門院)
近衛前子(中和門院)┣常子内親王 ━┛┣秋子内親王 成子内親王1729-1771
┣識仁親王(112霊元天皇) ┃ 讃岐(伊藤一中娘) ┣-
園国子(新広義門院) ┣栄子┣朝仁親王(113東山天皇)┣典仁親王1733-1794
┃ ┃ ┃ ┃┗光格天皇1771-1840
┃ ┃ ┃ ┃ ┗仁孝天皇1800-1846
┃ ┃ ┃ ┃ ┗孝明天皇1831-1867
┃ ┃ ┃ ┃ ┣明治天皇1852-1912
┃ ┃ ┃ ┃ 九条夙子1834-1897(英照皇太后)
┃ ┃ ┃ ┣尊信女王1735-1801
┃松木宗子(敬法門院) ┣直仁親王閑院初代1704-1753
鷹司房子(新上西門院) ┃┃ ┣治子女王1720-1747
┃┃ 近衛脩子
┏━┛┣鷹司輔平1739-1813
┃ 長祥院 ┣鷹司政煕1761-1841
┃ ┃┗鷹司政通1789-1868
┃ ┃ ┣鷹司輔煕1807-1878
┃ ┃ ┃┗鷹司輔政1849-1867
┃ ┃ 清子(徳川治紀娘)
┃ ┣達子伏見宮邦頼親王妃
┃ ┣富子有栖川宮織仁親王妃
┃ ┣致子今出川尚季室
┃ ┣隆範興福寺別当
┃ ┣覚尊東大寺別当
┃ ┗徳大寺実堅内大臣
┃
┣慶仁親王(114中御門天皇)
櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃
┣昭仁親王
近衛尚子
鷹司輔平、鷹司輔煕の墓は二尊院にあります。
徳川家重1712-1761(9代将軍)
┣徳川家治1737-1786(10代将軍)
至心院┣千代姫 ┣-
┣万寿姫 倫子女王(1738-1771)閑院宮直仁親王の第6皇女
┣家基1762-1779
┃徳川家康
┃┗宗尹(一橋徳川家初代当主)
┃ ┃┏斉隆1777-1795福岡黒田氏藩主
┃ ┃┣斉敦1780-1816一橋徳川家3代当主
┃ ┃┃ ┣-
┃ ┃┃ ┏保子
┃ ┃┃二条治孝1754-1826(左大臣)
┃ ┃┃ ┃
┃ ┃┃ ┣二条斉通1781-1798(母:嘉姫)
┃ ┃┃ ┃
┃ ┃┃ ┣九条輔嗣1784-1807(養子 父:九条輔家)
┃ ┃┃ ┃ ┣九条尚忠1798-1871(養子:関白左大臣)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┣九条道孝1839-1906(左大臣 最後の藤氏長者)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗節子(大正天皇皇后 貞明皇后)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┣九条幸経1823-1859(養子:鷹司政通の子)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┣九条夙子1833-1897(孝明天皇女御 英照皇太后)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928
┃ ┃┃ ┃樋口基康娘
┃ ┃┃ ┣西園寺寛季1787-1856(母:徳川宗翰娘)
┃ ┃┃ ┃
┃ ┃┃ ┣二条斉信1788-1847(母:徳川宗翰娘)
┃ ┃┃ ┃ ┣二条斉敬1816-1878
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928(養子)
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗二条厚基1883-1927
┃ ┃┃ ┃ ┃ ┗二条弼基1911-1965(養子)
┃ ┃┃ ┃ ┗広子(有栖川宮幟仁親王妃)
┃ ┃┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)
┃ ┃┃ ┃
┃ ┃┃ ┗隆子(常蓮院)
┃ ┃┃ ┃
┃ ┃┃ ┣斉朝1793-1850(正室:家斉娘 淑姫)
┃ ┃┣治国1776-1793(母:お富)
┃ ┃┣斉匡1779-1848(徳川田安家2代当主
┃ ┃┃ ┣松平慶永1828-1890(春嶽)田安家3代当主→越前松平氏15代藩主
┃ ┃┃ ┣徳川慶臧1836-1849徳川尾張家13代当主
┃ ┃┃お連以
┃ ┃┃
┃ ┗治済┓1751-1827(一橋徳川家2代当主)
┣徳川家斉1773-1841(養子 第11代将軍)
蓮光院(お知保) ┃
┏━━━━┛
┣敦之助1796-1799(清水徳川家養子)正室近衛寔子 (広大院島津重豪娘)
┣淑姫1789-1817(尾張徳川斉朝妻) 側室お万(勢真院)
┣家慶1793-1853(12代将軍) 側室お楽(香琳院)
┃ ┣家定1824-1858(13代将軍) 母:本寿院1807-1885
┃ ┃┣-
┃ ┃篤姫1836-1883
┃ ┗慶昌1825-1838(一橋徳川家6代当主)母:清涼院
┣敬之助1795-1797(尾張徳川家養子)側室お歌(宝池院)
┣峰姫1800-1853(水戸徳川当主斉脩妻)側室お登勢(妙操院)
┃治紀 ┣-
┃ ┣徳川斉脩1797-1829(水戸8代藩主)
┃ ┗徳川斉昭1800-1860(水戸9代藩主)
┃ ┣徳川慶篤1832-1868(水戸10代藩主)
┃ ┣徳川慶喜1837-1913(15代将軍)
┃ ┏吉子女王1804-1893(父:織仁親王)
┃ ┣有栖川宮韶仁親王1785-1845
┃ ┗喬子女王1795-1840
┃ ┣竹千代、儔姫
┃ 家慶1793-1853(12代将軍)
┣斉順1801-1846(清水家3代当主) 側室お登勢(妙操院)
┃ ┗家茂1846-1866(14代将軍) 母:実成院1821-1904
┣斉明1810-1827(清水徳川家当主) 側室お八重(皆春院)
┣斉民1814-1891(津山藩8代藩主) 側室お八重(皆春院)
┣斉衆1812-1826(鳥取藩主) 側室お八重(皆春院)
┣斉良1819-1839(浜田藩主) 側室お八重(皆春院)
┣斉裕1821-1868(徳島藩13代藩主) 側室お八重(皆春院)
┣斉荘1810-1845(田安家4代当主) 側室お蝶(速成院)
┃ ┗昌丸1846-1847(一橋徳川家6代当主)
┣和姫1813-1830(長州藩主毛利斉広妻)側室お蝶(速成院)
┣浅姫1803-1843(福井藩主松平斉承妻)側室お美尾(芳心院)
┣斉温1819-1839(尾張藩11代藩主) 側室お瑠璃(青蓮院)
┣斉彊1820-1849(紀州藩12代藩主) 側室お袖(本性院)
┣斉善1820-1838(福井藩主) 側室お似登(本輪院)
┣斉省1823-1841(川越藩主) 側室お似登(本輪院)
┗斉宣1825-1844(明石藩主) 側室お似登(本輪院)