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薩長同盟の年と二条斉敬墓

2010年01月27日 | 幕末

 朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名で始まった政治参与が終焉を迎えた後、薩摩藩では西郷隆盛が沖永良部島から戻され禁門の変を指揮していた。 1865年将軍徳川家茂の江戸からの征長を契機に薩摩藩は幕府から離れて長州藩に近づくのである。 大久保利通ら薩摩藩は朝廷に対して暴威をもって言を貫く一橋慶喜の恐るべき政治力を認め幕府への危機感を深めて長州藩に近づいたのである。 長州藩は坂本龍馬の仲介もあって薩摩藩を通じて長崎のグラバー商会などから1万挺以上のゲベール銃を購入し幕長戦争に備えている。 通商条約では諸藩は外国商人から兵器を買えないことになっていたが、雄藩の威力がものを言った。こうして薩長交易が深まり、1866年、木戸孝允は密かに京都伏見の薩摩藩邸に入り西郷隆盛らと会見する。 こうして坂本龍馬が仲をとりもち薩長同盟が合意に至ったのである。 合意内容は藩内でも秘密にされ、幕府との戦争の際には薩摩藩が京都と大阪に兵を出すこと、長州藩が敗戦しても薩摩藩が援助を続けること、幕府が朝廷を掌握してしまったときは薩摩藩が兵力で戦うことなどが合意事項であった。 

 1866年6月、幕府は長州藩に対して石高36万石から10万石を削減する要求を出したが、これに対して長州藩は拒否し、瀬戸内海の大島で幕長戦争は始まった。 長州藩の主力は奇兵隊らの諸隊で、参謀は高杉晋作、大村益次郎、山県狂介である。 将軍がいる大阪・兵庫では打ちこわし一揆がおこり、大阪城において徳川家茂が21歳で病没し、徳川宗家を受け継いだ慶喜が撤兵を命じた。 長州・高杉晋作が指揮した騎兵隊は農耕をしながらの民兵との混成部隊ではあったが、狙撃距離、命中確立が高いライフル銃(銃身の螺旋で弾丸に回転が与えられ、ジャイロ効果により弾道が格段に安定する)を藩から支給され、厳格に統制された部隊であった。 軍事訓練を行ったのが大村益次郎で、その日課は極めて厳しいものであった。 そして脱隊事件は起きた。 浪士出身の立石孫一郎ら第二奇兵隊の隊士約130人が隊の幹部を殺害して陣営を脱走したのである。 この動きは諸隊全域に広がったために、木戸孝允は脱走して帰藩した隊士を全員斬罪に処したから、長州藩の地域社会を戦慄させることとなる。 

 幕長戦争中に一橋慶喜が徳川宗家を相続し征長軍を引き上げて休戦した。 朝廷では孝明天皇をはじめ関白二条斉敬や朝彦親王らが慶喜を支持する一方、慶喜に反対する公家勢力があった。 岩倉村に隠棲を強いられていた岩倉具視と裏で連絡をとっていた中御門経之たちである。 これら22人の公家が列参して孝明天皇に対して関白二条斉敬や朝彦親王らの罷免を求めたが、天皇は激怒しこれに応じず、逆に慶喜は地位を強めた。 結果、岩倉具視が敗北し、薩摩藩の大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬が岩倉具視に近づくきっかけとなる。 年末慶喜は天皇の信任を得て将軍職につき、幕政改革を行う。 

徳川家重1712-1761(9代将軍)     
 ┣徳川家治1737-1786(10代将軍)       
至心院┣千代姫    ┣-
   ┣万寿姫   倫子女王(1738-1771)閑院宮直仁親王の第6皇女 
   ┣家基1762-1779 
   ┃徳川家康    
   ┃┗宗尹(一橋徳川家初代当主)           
   ┃  ┃┏斉隆1777-1795福岡黒田氏藩主   
   ┃  ┃┣斉敦1780-1816一橋徳川家3代当主   
   ┃  ┃┃   ┣-
   ┃  ┃┃ ┏保子 
   ┃  ┃┃二条治孝1754-1826(左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉通1781-1798(母:嘉姫)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣九条輔嗣1784-1807(養子 父:九条輔家)   
   ┃  ┃┃ ┃ ┣九条尚忠1798-1871(養子:関白左大臣)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条道孝1839-1906(左大臣 最後の藤氏長者) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗節子(大正天皇皇后 貞明皇后)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条幸経1823-1859(養子:鷹司政通の子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条夙子1833-1897(孝明天皇女御 英照皇太后) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928  
   ┃  ┃┃ ┃樋口基康娘   
   ┃  ┃┃ ┣西園寺寛季1787-1856(母:徳川宗翰娘)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉信1788-1847(母:徳川宗翰娘)    
   ┃  ┃┃ ┃ ┣二条斉敬1816-1878  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃   ┗二条厚基1883-1927 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃    ┗二条弼基1911-1965(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┗広子(有栖川宮幟仁親王妃)  
   ┃  ┃┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┗隆子(常蓮院)   
   ┃  ┃┃   ┃ 
   ┃  ┃┃   ┣斉朝1793-1850(正室:家斉娘 淑姫)    
   ┃  ┃┣治国1776-1793(母:お富)   
   ┃  ┃┣斉匡1779-1848(徳川田安家2代当主   
   ┃  ┃┃ ┣松平慶永1828-1890(春嶽)田安家3代当主→越前松平氏15代藩主  
   ┃  ┃┃ ┣徳川慶臧1836-1849徳川尾張家13代当主  
   ┃  ┃┃お連以   
   ┃  ┃┃   
   ┃  ┗治済┓1751-1827(一橋徳川家2代当主)   
   ┣徳川家斉1773-1841(養子 第11代将軍)
 蓮光院(お知保)  ┃
        ┏━━━━┛
       ┣敦之助1796-1799(清水徳川家養子)正室近衛寔子 (広大院島津重豪娘)  
        ┣淑姫1789-1817(尾張徳川斉朝妻) 側室お万(勢真院)
    ┣家慶1793-1853(12代将軍)    側室お楽(香琳院)
     ┃ ┣家定1824-1858(13代将軍)   母:本寿院1807-1885       
     ┃ ┃┣-       
     ┃ ┃篤姫1836-1883       
     ┃  ┗慶昌1825-1838(一橋徳川家6代当主)母:清涼院         
     ┣敬之助1795-1797(尾張徳川家養子)側室お歌(宝池院) 
    ┣峰姫1800-1853(水戸徳川当主斉脩妻)側室お登勢(妙操院)         
     ┃治紀 ┣-       
     ┃ ┣徳川斉脩1797-1829(水戸8代藩主)       
     ┃ ┗徳川斉昭1800-1860(水戸9代藩主)       
     ┃   ┣徳川慶篤1832-1868(水戸10代藩主)      
     ┃   ┣徳川慶喜1837-1913(15代将軍)      
     ┃ ┏吉子女王1804-1893(父:織仁親王)      
     ┃ ┣有栖川宮韶仁親王1785-1845      
     ┃ ┗喬子女王1795-1840       
    ┃   ┣竹千代、儔姫
    ┃  家慶1793-1853(12代将軍)
    ┣斉順1801-1846(清水家3代当主)  側室お登勢(妙操院)          
    ┃ ┗家茂1846-1866(14代将軍)   母:実成院1821-1904          
     ┣斉明1810-1827(清水徳川家当主) 側室お八重(皆春院) 
     ┣斉民1814-1891(津山藩8代藩主)  側室お八重(皆春院)         
     ┣斉衆1812-1826(鳥取藩主)     側室お八重(皆春院)         
     ┣斉良1819-1839(浜田藩主)     側室お八重(皆春院)         
    ┣斉裕1821-1868(徳島藩13代藩主) 側室お八重(皆春院)     
    ┣斉荘1810-1845(田安家4代当主)  側室お蝶(速成院) 
    ┃ ┗昌丸1846-1847(一橋徳川家6代当主)          
    ┣和姫1813-1830(長州藩主毛利斉広妻)側室お蝶(速成院)  
    ┣浅姫1803-1843(福井藩主松平斉承妻)側室お美尾(芳心院)    
     ┣斉温1819-1839(尾張藩11代藩主) 側室お瑠璃(青蓮院) 
     ┣斉彊1820-1849(紀州藩12代藩主) 側室お袖(本性院)     
     ┣斉善1820-1838(福井藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┣斉省1823-1841(川越藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┗斉宣1825-1844(明石藩主)    側室お似登(本輪院)

徳川慶喜を支持した関白・二条斉敬公墓(二尊院にて)

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