第53代淳和天皇大原野西嶺陵
第53代淳和天皇陵は小塩山の山頂にあります。 (京都・洛西に位置する大原野を眼下にそびえる標高642mの山) 淳和天皇陵はこの山頂にしばしばこ訪れ狩りを楽しんだといわれています。 小塩山の麓には花の寺といわれる勝持寺があり、ここから頂上へ険しい参道が続きます。 また東側には頂上まで続くと思われる県道があるのですが、300mほど行ったところで通行止めとなっていました。 なにやら不法投棄を防止するための通行止めのようで、陵へは山頂まで約5kmの参道でいくしかありません。 (撮影:クロウ)
大伴親王は桓武天皇 第三子で母は藤原旅子(藤原百川の娘)。 皇后には正子内親王(嵯峨-嘉智子 皇女)、高志内親王(桓武-乙牟漏 皇女)がいる。 また妃には緒継女王、永原氏、橘氏子、大中臣安子、大野鷹子、橘船子、丹波池子、清原春子がおり、皇子女には恒世親王、恒貞親王、基貞親王、恒統親王、良貞親王、氏子内親王、有子内親王、貞子内親王、寛子内親王、崇子内親王、同子内親王、明子内親王、忠子 など多数もうけている。 皇后の正子内親王にとって淳和帝は叔父にあたり(父嵯峨帝の弟)が、贈皇后の高志内親王と淳和帝は、父(桓武天皇)を同じくする異母兄妹であり、平城天皇、嵯峨天皇の実の妹である。 皇太子には嵯峨上皇の第二皇子、正良親王(後の仁明天皇)を立て、833年に正良親王に譲位した。 840年に55歳で死去し、物集女村で淳和天皇の火葬が行われたと『日本紀略』にはある。
大原野の西山山麓、向日市物集女町にある「淳和天皇火葬塚」と伝えられる空堀をめぐらせた方墳
高志内親王は809年に21歳で恒世親王と二人の皇女を残してなくなったが、この年に正子内親王が生まれた。 淳和天皇のもとに入ったのは即位直後で、正子内親王が皇后となったのは827年、28歳のときである。 淳和天皇の皇太子は正子内親王の弟・正良親王(後の仁明天皇)であり、嵯峨と嘉智子の思惑とおり姉弟の皇后と皇太子ができあがった。 淳和天皇の譲位により仁明天皇が即位したが、このとき皇子の道康親王ではなく、高志内親王の皇子・恒貞親王を皇太子とした。 自分が皇太子になったときの経緯に習ってお返ししたのである。 こうした皇位継承の美談も束の間、840年淳和天皇が崩御、正子内親王は落髪する。 そして嵯峨太上天皇が崩御すると承和の変 (淳和上皇の子・恒貞親王を廃して仁明天皇と良房の妹・順子の皇子・道康親王を立太子させようとした良房の陰謀)が勃発した。 これにより 東宮恒貞親王は廃された。 正子内親王は母・嘉智子がこの変に大きく関わっていたことを知り、号泣したという。
道康親王が即位して文徳天皇になった4年後に嘉智子が崩じ、正子内親王が太皇太后となり母にかわって後宮の頂点にたつ。 正子太皇太后は容姿端麗で心優しく、京中の弧児を集めて乳母を用意し、嵯峨の大覚寺に済寺院という僧尼のための医療施設を置いたという。