第31代用明天皇河内磯長陵
第31代用明天皇陵は推古天皇・竹田皇子陵(磯長山田陵)のすぐ東にあります。 用明天皇は父・欽明天皇、母・蘇我堅塩媛(稲目娘)の第四皇子で、豊御食炊屋姫、桜井皇子、磐隈皇女(伊勢斎宮)、臘嘴鳥皇子(足取王)、椀子皇子(麻呂古王)、大宅皇女、石上部皇子(伊美賀古王)、山背皇子(山代王)、大伴皇女、肩野皇女(麻奴王)、橘本稚皇子、舎人皇女(当麻皇子の妃)とは同母兄弟になります。 異母兄妹の穴穂部間人皇女、蘇我稲目の娘・石寸名、葛城直磐村の娘・広子を妃とし、穴穂部間人皇女との間には厩戸皇子、来目皇子をもうけ、石寸名との間には田目皇子を、また広子との間には麻呂子皇子(当麻皇子: 当麻公・当麻真人の祖)、酢香手姫皇女(伊勢斎宮)をもうけた。
用明天皇は即位の2年後で蘇我氏と物部氏の対立が激化した頃になくなり、存在感はあまりないが仏教を初めて受け入れた天皇として特筆され、厩戸皇子に受け継がれていくのである。
用明元年に密かに皇位を狙っていた異母弟の穴穂部皇子(穴穂部間人皇女とは同母兄弟)が豊御食炊屋姫に言い寄ったが敏達天皇の寵臣・三輪君逆(豊御食炊屋姫と通じていた)に妨げられた。 穴穂部皇子は物部守屋を遣わして三輪君逆を殺害すると、物部氏と対立する蘇我馬子は、穴穂部皇子を討ち、同じく物部と通じていた宅部皇子も殺害した。 尚、用明は仏教に帰依していたために廃仏派の物部氏に暗殺されたという説もある。
(撮影:クロウ)