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第39代弘文天皇陵

2007年05月06日 | 天皇・皇后陵

第39代弘文天皇長等前山陵

 第39代弘文天皇長等前山陵は琵琶湖の湖西・大津市にあります。 このあたりは皇子山駅、皇子山公園などから大友皇子に縁のある土地柄であることがよくわかります。 京阪石山坂本線の別所駅の西隣に市役所があり、その裏に御陵はひっそりと佇んでいます。(撮影:クロウ)  

 中大兄皇子に仕える采女(うねめ:地方豪族の娘で側近の雑用係)である伊賀宅子娘が皇子・大友皇子を出産します。 身分の低い采女が出産した皇子では,継嗣が許されないが、後にこの皇子が,古代最大の内乱である壬申の乱で,大海人皇子を迎え撃つ総大将になるのである。

 658年中大兄皇子の皇子である健皇子が他界します。皇子は生まれながらに言葉を発することが無く,斉名天皇がそれをいたく歎き、同母姉の大田皇女,讃良皇女が健皇子の面倒をみていました。 大王は健皇子の亡骸を抱き締めて泣き叫び、その隣で泣き伏す姉達・・・。 十歳の大友皇子には特別な光景でした。 健皇子を失ってからめっきり衰弱した斉明天皇に中大兄皇子が紀国の牟婁の湯に行くことを勧め、10月15日,大王家をあげて紀国牟婁の湯への行幸がおこなわれます。

 壬申の乱の前夜、静かにたたずむ十市皇女の後姿に,大友皇子は疑念を拭いきれずにいた。 十市皇女の母・額田王は大海人皇子をこよなく愛しました。 十市皇女には、大友皇子に対して愛などはありません。十市皇女の瞳には高市皇子しか映っていなかった。 十市が大海人様に内通したならば,この大津宮の情勢がすべて大海人様に聞こえ漏れてしまう・・・。  大友皇子は十市皇女を愛していました。そして大友皇子は,大王になったばかりの父の権力を利用し,強引に十市皇女を妃としたのです。  

 大友皇子は背を向けた十市皇女にいいます。「十市・・俺はお前を愛している。大海人様に内通することだけはしないでくれ。」 皇子の言葉に皇女は、「そんなに信用がないのでしたら,離縁するなり,殺すなり,してください。」、と言った。 十市皇女の目に大粒の涙があふれていた。「父上様・・・,早く私をここから連れ出してください・・・」

 翌日、壬申の乱で大海人皇子は勝利し、大友皇子は自殺します。

 

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