男女で違う言葉を使う慣習が日本にはあります。いわゆる男ことば、女ことばです。そして、その使い分け、とくに一人称、すなわち男の子の「ぼく」、女の子の「わたし」は、小さい子どもほど、きびしい使い分けを強いられている気がします。
一方、現代は、性別 (sexual orientation) についての新しい概念や定義が真剣に議論されていて、アメリカでは法制度までがかわってきています。この時代に、日本語のきびしい性差を身につけさせて子どもを育てることは、バイカルチュラルに育つ子どもたちにどういう影響を与えるのだろうか?と考えさせられます。
英語の絵本には、テキストからも挿絵からも男女が特定できない主人公を扱っている絵本がたくさんあります。英語は、一人称、二人称には性差が示されませんので、テキストもイラストも齟齬なく、ニュートラル、あるいはユニセックスで完成できてしまいます。
たとえば,日本でも人気のレオ・レオーニの絵本 "Little Blue and Little Yellow" は、英語版では女の子、男の子の区別がありません。絵にも、もちろん性別がありません。
Little Blue and Little Yellow | |
HarperCollins |
また、大人になっても楽しめる詩の絵本 "The Missing Piece" も、英語版では主人公の、端の欠けた"まる" にも、”かけら” にも性別を特定する手がかりはありません。
The Missing Piece | |
HarperCollins |
ところが、"Little Blue and Little Yellow" は日本語訳では「あおくんときいろちゃん」で明らかに男の子と女の子。
あおくんときいろちゃん | |
至光社 |
"The Missing Piece" は、日本語版では「ぼくを探しに」と男の子になってしまいました。
ぼくを探しに | |
講談社 |
もちろん、いずれも素晴らしい日本語訳です。娘にも何度も読み聞かせましたし、私も楽しんで読みました。でも、やっぱり、ちょっと納得がいかない。なにか妙案はないものでしょうか?
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