中近東最高峰 イラン・イスラム共和国
ダマバンド山(5671m)
登頂記
2007年8月23日~30日
山口 一史
ダマバンド山はイランの最高峰であり、また中近東地域での最高峰でもある。カスピ海の南、カスピ海岸とイランの首都テヘランとの間にあり、テヘランの東北方向に位置する独立峰である。
その形は富士山に似ているといわれる。今回登山ルートにとった真南から見ると右側(東側)に尾根が張り出し、富士山似というにはちょっと苦しいが、 南西方向のエマームザデハシェム峠下のビューポイントから見ると、 きれいな裾野を引いた円錐形の高い山 ダマバンドを仰ぐことが出来る。イラン富士とでも称しておこう。
8 月24 日(金)
テヘランのホテルからマイクロバスで登山口の村レイネに向かう。 一行はリーダ
九里(クノリ)氏、イラン人ガイド2名(男;HOSSEIN(ホセイン)30 歳、女;NAHAL
(ナハ)28 歳)、メンバ8名(男女各4名)の総勢11 人である。
テヘランのホテルの窓から見る街は乾燥のせいか全体が白っぽく埃っぽく見える。緑
は少ない。街路樹も“緑色濃き”というには程遠く、埃をかぶったように白っぽい。
その街のビルの向こうにすぐ高い山が迫っている、緑のない薄茶色の険しい山だ。
ダマバンドへの道はテヘランから東北へ向かう。最初のうちは二車線の舗装道路、
カスピ海地方へ抜けるメイン道路で、車は多く時々自然渋滞する。途中標高2600
mのエマームザデハッセム峠を越える。両側に見える山は全て裸の薄茶色の山、岩や
砂礫の上に茶色の草が一面生えているようだ。 日本のテレビのアフガニスタン等の
ニュースで裸の山が背景によく映っているが、延々と続く茶色の山並みをこの目で見
るのははじめてである。その深い谷間には水が流れ、両岸にポプラのような背の高い
樹が繁る、そのようなところに人家が固まっている。山腹から谷に切れ落ちるところ
がトルコのカッパドキアのような景を呈しているところもある。
国道からレイネの村への分岐点のところにあるレストランで昼食、甘みの濃いソー
スのかかった鶏の料理がうまかった。
レイネの村はダマバンドの緩い山腹の台地のようなところに人家が固まっている。
10軒ほどの店があるが日本人の目には道路などあまりきれいだとは映らない。その
村の中のきれいな一軒家(登山客専用民宿?)の2階を借りきり大部屋で泊まる。
8 月25日(土)
レイネ(7:40)――(8:30)ゴスファンドサーラ(8:45)――(13:55)ベースキャンプ(16:00)――標高約400m 高地――(18:40)ベースキャンプ
今日はレイネの村からゴスファンドサーラの林道終点までトラックで上がり、そこ
からベースキャンプまで標高差約1100mをただひたすら登る。道は富士山のよう
に砂礫の登山道で人も荷揚げのロバもその道を登っていく。木は一本もない。薄茶色
の斜面に砂漠に生えるようなきつい棘のある植物が何種類か生えている。アザミの大
きいようなもの、ツメ草のような小さな花がびっしりつき丸く刈り込まれたような株、
大きな母子草のようなもの、いずれも半分干からびたように見えるが結構花がついて
いる。
ベースキャンプは標高 4020m 下手すると高山病の初期症状、頭痛が出そうになる、
そうならぬよう歩調にあわせて深呼吸をしながら登っていく。
ベースキャンプは岩ガラガラの斜面、その中に避難小屋、トイレ、新築中のホテル
と、岩をどけ整地されたいくつものテントサイトがある。そして下からも見える小さ
な岩の高みにはイランの国旗がはためいている。
僕を含む元気の残ったメンバーも手伝ってテント設営。その終了後高度順応のため
さらに400mほど高度を上げて往復する。ベースキャンプに戻った頃には、ダマバ
ンドの山頂を覆っていた雲は切れ、白い月が皓々とさえ、星も瞬いていた。
8 月26 日(日)
ベースキャンプ(7:15)――(14:10)ダマバンド山頂(14:35)――(18:35)ベースキャンプ
7 時15 分雲ひとつないアタック日和の下を、イラン人ガイド2 人、ツアーリーダ1
人に挟まれて7 人が隊伍を組んで出発(メンバ中1人は体調不良でテントキーパに)。
(5 時には明るくなるのに7 時過ぎの出発というのは遅すぎると思うのだが)
岩稜を縫う道を登っていく。昨日の高度順応のおかげであろう、出発からしばらくは
楽であった。リーダの九里さんに教えてもらった深呼吸法プレッシャーブリージング
を忠実にやっていたので高度の影響も殆ど感じない。それにしても我々は物も言わず
にフィーフィーと深呼吸しながら登っているのにイラン人ガイド2人は時々声を合わ
せ大声で歌いながら歩いている。その歌はイラン調というのかコーランを読経すると
きのような哀調を帯びた歌だ。いかに慣れた道、慣れた高度とはいえ何でそんなこと
が出来るのか?
右側の岩壁にベースキャンプからも遠望できるアイスフォールを見たところで岩稜
の道を登り終わると砂礫帯となり、左側から強い硫黄臭が吹き上げてくる。(下山時に
見たところ、雪の斜面に縦一直線上に10個程もの噴気孔が並んでいて黄色の噴気を
勢いよく噴出していた)対策用のマスクをつけたが眼鏡が曇って難渋する。砂礫帯は
これもリーダの九里さんに教わったレストアンドステップ法を練習しながら登る。砂
礫帯の上部では5~10cm の一面の雪となり、その雪面の左上に山頂の岩場が仰げるよ
うになる。
一気に山頂へ。しかしやはり疲れた。多少高度の影響を受けたのか頭痛は無いが胃がヒクヒクする。上り7時間の行程であった。山頂は公式には5671m。もっと低いのではないかという話もある。大きな岩に囲まれた小さな広場の山頂には真鍮製(?)の等身大のモニュメントひとつ(下山後ガイドのホセインに聞いたところ、イランイラク戦争の犠牲兵士の追悼像だとのこと)と岩に打ち付けられた5~6枚のプレートがあるがペルシャ語なので残念ながらなんと書いてあるのやら・・・。
7人全員登頂はしたが、中年独身と思しき女性 2 人はユウユウ登頂、僕を含む男性
2人はギリギリの登頂、男2 人、女1 人は完全バテバテの登頂であった。何時もの事
ながら女は強い。
登頂した山頂はガスが巻き、吹き上げてくる風が冷たい。記念撮影のために手袋を
はずした手はすぐかじかんでしまう。山頂の北側の斜面にテントが一張り、その住人
が登ってきて「もう44 日間もここでテント生活をしている。余った食料があったら分
けてくれ・・・」といっている。何のために居るのだろうか。(後から聞いたところで
は記録つくりのための我慢比べだとか、ギネスでも意識しているのだろうか、イラン
人にもアホはいる)。
ひととおり記念撮影が終わったらそそくさと下山にかかる。下山路は富士山の須走
りのように砂礫のザクザク道をザァーザァーと一歩1mくらいで快調に下っていける。
しかしバテバテの人をほったらかして下るわけにも行かないので結局下りもベースキ
ャンプまで4時間を要した。
<ガイドの横顔>
男女 2 人のイラン人ガイドは日焼け止めクリームを塗りあったりとまるで恋人同士
のように仲が良い。特にナハは下界では殊勝にスカーフをしているがベースキャンプ
では豊満な胸にぴったりのノースリーブシャツで鼻歌を歌いながらうろうろしている。
車高の高い四駆を運転するのが大好きだという快活なイラン美人だ。
<完>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます