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ルーマニア滞在記(第3章)

2006年01月09日 | ルーマニア滞在記

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ルーマニア滞在記 (第3章) By Harry H.

ブラショフでの住まい

UncleSamからの要望もあったので今回は「住まい」についてレポートすることにしよう。ブラショフ市内は高い建物でも10階建てくらいで日本のように30階を超えるような高層マンションはない。ルーマニアも土地の価格は年々高くなったことから、若者が自分の家を持つことは段々と難しくなって、そして結婚する時期が遅れるようになり、それで両親の家に同居し続ける傾向が増えている。賃貸物件だと市内で3K(60-70㎡)で、100ユーロくらいが相場。14000円くらいなら安いと思われるが彼らの収入からだと大きな負担額だ。

私がブラショフ市側から与えられたのは5階建ての古いアパートメントの一室だ。ワンルームで8畳くらいの居間(兼寝室)と台所で、私は自炊をしないので台所ではお湯を沸かすくらいだった。建物は革命前のもので築数十年は経っていると思われる古いもので、アチコチ欠陥だらけ。トイレの排水、シャワーの蛇口や洗面台は水漏れ、トイレのドアは閉まらないし、玄関のドアはガタガタ、こんな状態であった。

シャツなど白い下着を洗濯していると、突然に茶褐色のお湯が出てきて本来白の下着が茶色に染まったり、寒い冬の朝、お湯が出ないときなどは最悪だった。さすがに冬の生命線である暖房は故障することはなかった。地域暖房が主で部屋の中に温水のパイプが設置されて、常に25度を暖かく快適である。

そして、この古いアパートで大事件が11月に起きたのだ。(続・第4章に)

写真上:ブカレスト通り(首都ブカレストと結ぶ幹線道路) 写真下・左:Harryが住んだアパート 写真下・右:部屋からの眺め

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(UncleSam) ブカレスト通りの写真を良く見ると道路の上に架線が走っている。アンクルサムはそれなりの歳だから日本の昔が多少分かるので、たぶんトロリーバスの架線だと思う。懐かしいなー。学生時代そして社会人になってもトロバスを良く利用した。戦前の宝塚(新花屋敷)は知らないが、戦後に開業した川崎市・東京都・大阪・横浜のトロバスは利用した。いずれも地下鉄化や道路渋滞解消のため1971年横浜を最後に廃止となった。(アンクルサムは交通関係にもうるさいのだ) 現在は黒部ダムに「関電トロリーバス」が走っている。でもこれはトンネルの中を走るだけ、これでは昔は偲べない。

ところで 「大事件とは」 ハリー早く第4章を急いでくれ!

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ルーマニア滞在記(第2章)

2006年01月08日 | ルーマニア滞在記

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ルーマニア滞在記 (第2章)  By Harry H.

友好都市 ブラショフ市

 このブラショフ市は東京都武蔵野市の友好都市のひとつ。ことの始まりは1989年「血の革命」から2年ほど経った1991年の遡る。ブラショフ市のジョルジュディマ交響楽団の指揮者であった曽我大介氏(元武蔵野市民)が、同楽団を日本で公演させるべく来日してスポンサー探しをした。多くの企業を訪問したが良い返事をしてくれる企業はなく、最後に武蔵野市を訪れ彼の意向を伝えたのだ。曽我氏の熱い情熱に当時の土屋正忠市長(現衆議院議員)は「やりましょう」と返事した。

 交響楽団といえば総勢60名という大人数だ。その当時の航空券は今のような格安チケットなどない時代で、成田ーブカレスト往復となるとエコノミーでも5000ドルもしたそうだ。60名で航空券だけでも30万ドル(約3000万円)にもなる。土屋市長は武蔵野市周辺3市にも声をかけ、4市で曽我氏率いるジョルジュディマ交響楽団を招聘する計画を立て1992年10月に実現した。今の言葉でいうと、“音楽つながり” だ。

 これを契機に両市は交流を深めることになり、1998年にはブラショフ市に “日本武蔵野文化センター”を開設するまでに至った。2000年から武蔵野市はそのセンターへ邦人の所長を派遣し、私こと Harry が4代目の所長として2004年1月に赴任することになった。このセンターでは日本文化の紹介・友好交流の促進のためいろいろな活動をしている。その中味については追ってお話しすることにしよう。

(写真左) 市役所(左)と郵便局(右)(写真右) 武蔵野文化センター(撮影 : Harry

(UncleSam)遥か離れたルーマニアのブラショフ市と武蔵野市とは元武蔵野市民・曽我大介氏のジュルジュディマ交響楽団の日本公演がきっかけとのこと、でも革命からいくらも経っていない時期にこのような音楽活動を続けていくのは大変だったと思う。Harryのレポートを読んで、歴史のつながりに芸術や文化が大きな役割を担っていると感じた。さて、ルーマニアではどんな暮らしをしているのか住環境や食生活を是非レポートして欲しい。

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ルーマニア滞在記 (寄稿)

2006年01月07日 | ルーマニア滞在記

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アンクルサムの友人 Harry H.氏が超一流商社退職後ルーマニアで1年間貴重な体験をします。Harryから第1報として「ルーマニア滞在記(序章)」が寄せられました。彼のレポートを読めば日本では知られていないルーマニアのことが少し分かるようになることでしょう。

レポートと写真は  「ルーマニア滞在記(目次)」

 


ルーマニア滞在記(第1章)

2006年01月07日 | ルーマニア滞在記

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ルーマニア滞在記 (第1章)  By Harry H.

ルーマニア・ブラショフ市

 ルーマニアは英語で書くとROMANIAだから、容易に推測できると思うが“ROMA”プラス“NIA”なのだ。そうなのだ!ローマと深い関係があるのだ。大昔ローマ帝国の一部だったことから、東欧では唯一ラテン系民族の国だ。

 1989年12月に革命が起こり共産国家(チャウセスク政権)から民主国家になった。革命から15年くらいしか経っていない国。国民の平均月収は200ドル前後、2003年のGDPはEU(25ヵ国)の平均を100とするとルーマニアは30というレベル。共産国家時代の大きな工場も縮小・閉鎖で農業国の域を脱していない。それでも2007年のEU加盟を目標に懸命に努力している。これから5年~10年という長いスパンでこの国を見る必要があると思う。

 ブラショフ市は12世紀にドイツ人によって作られた街で、古い町並みはなんともいえない雰囲気気がある。ツンバ山から町全体を眺めることが出来てとても綺麗。2004年1月に赴任したので、それはそれは寒いというのが第一印象だった。北緯45度くらい(日本の稚内)に位置するから、寒いのは当たり前だが東京人の私には堪える。マイナス10度なんてあたりまえで雪も結構降る。町中に走っているバスには真冬でも暖房は入っていない。それにバスの車体もボロボロで錆だらけ、日本ではとっくに廃車になっている車なのだ。

写真(左):ツンバ山からのブラショフの街 (右):雪降るブラショフの街

(UncleSam) ブラショフってドイツ人によって作られた街なんですね。アンクルサムはドイツには行ったことがありますが街並みはそういわれるとドイツの田舎町と言う感じですね。Harryのブラショフでの目的は何なのでしょう。続編が楽しみですね。

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ルーマニア滞在記(序章)

2006年01月06日 | ルーマニア滞在記

 

ルーマニア滞在記 (序章)       By  Harry  H.

  ルーマニア??  どこにある国?東欧?首都は、ブタペスト? ブカレスト?  昔、五輪体操でコマネチとかいう選手は、確かルーマニア出身ではなかったかな? 地図を開いてみないと、どこにあるか、突然言われても分からない国だと思う。というか日本からは遥か遠く、そして疎遠な国。地図を見ていただくのが、一番早いのだが、南にブルガリア、西にハンガリー、東が黒海、北にチェコやウクライナがある。

 そんな国に2004年1月から1年間、仕事で赴くことになった。行き先は首都ブカレストから北に150Kmほどに位置するルーマニア第二の都市Brasov(ブラショフ)市だ。日本からはあまりにも遠い異文化の国での一年間の体験を何回に亘ってお伝えすることにする。乞うご期待!

*アンクルサムの友人であるHarry H.氏が超一流商社を退職後体験する貴重な話。きっと次々に面白く楽しい話をレポートしてくれることだろう。写真はブラショフ市で一番賑やかなパブリック通り。(Harry撮影)

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