上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その2

2013-10-12 09:35:13 | 日記

「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その2

前回の続き

那覇四町(ユマチ)ウーンナと庶民が呼び、記録では1812年の「那覇綱引規模帳」では「綱引」と記され、「西東綱挽之時日記」では「綱挽」と記され、その文書の中では「綱挽」、「綱曳」が入り乱れている。前日、指摘したが首里の綾門ウナーも四町ウーンナも語源は梵語の「yūna」(ユーナ)で「綱」だ。だが、今、ここで問題になっているのは「挽」という字がどんな意味をもっているか、ということだ。「挽歌」という言葉があるが、「挽」は棺(ひつぎ)を挽くという意味で、「挽歌」とはその棺の傍らで歌う悲歌(エレジー)のことだ。

こういう縁起でもない字を那覇祭りの中心に置いて「大綱挽」と全国どこの市町村も使っていない字を平気で使っている那覇市役所そして「大綱挽保存会」の良識が疑われる。

保存会委員長であった東江芳隆は2001年発行の「那覇大綱挽」という大型本の中で次のように述べている。

─那覇大綱挽の名称について─

那覇大綱挽の挽は誤字ではないかとよく新聞に書き寄せられたことがあった。

─中略─

綱挽の「挽」という字が歴史の中でいつ頃表われたかというと、1839年頃の古文書「那覇大綱挽之時日記」に表されていることからして、誤字、あて字ではない。れっきとした固有名称である。「綱ひき」という字は次のとおりたくさんある。「牽き、挽き、引き、曳き」どちらでもよいと思う。何故なら自らの生活文化に合致することであるからだ。

─中略─

決して誤字、あて字ではなく、固有の伝統文化であると確信をもって使用しておます。「挽」は当保存会の固有名称でありますので決して間違っておりません。─

 

その昔は大綱引とか大綱挽などと綱引に「大」を付けることはなかったことは「那覇綱引規模帳」や「西東綱挽之時日記」の表記でも明らかだが、「那覇大綱挽之時日記」などと文書のタイトルまで変えて自己正当化している始末だ。「固有名称」だから決して間違っておりません、などと、悪ふざけもいい加減にしてくれ、と言われても仕方がない。

そもそも、1971年那覇大綱引として出発したのが「大綱挽」と変わったのには次のような裏話があった。1975年頃のこと、大綱引委員会の集まりがあり、その中で仲井眞元楷(現仲井眞知事の父君)が「昔の文献では綱挽と使われており、大綱挽と改めるべきだ」と言ったのだ。委員会の面々は面食らったが、「綱挽」という字が間違っていると指摘できる者は一人もいなかった。「おかしいな」「変だな」と感じた者はいたが、歴史の権威と知られている仲井眞元楷先生に文句を言う勇気のある委員は一人もいなかったのだ。仲井眞は言い出したら聞かない、という頑固者だったから「大綱挽」はそのまま採用されることになったのだ。ぼくは委員の一人からその話を聞き、笑ってしまったが、これは「笑ってはならない話」だった。おかげで、40年近くも那覇市民は「大綱挽」を「挽」かされながらも誰も気づかず歴史的大恥を掻いていることにも気づかない。

(つづく)


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