上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

その時、慶良間で何が起きたのか 8

2013-04-01 09:22:56 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

ニューヨーク・タイムズ 1945年4月2日付 (訳:上原正稔)

渡嘉敷の集団自殺

 3月29日、昨夜、われわれ第77師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。 その時、1マイルほど離れた山地から恐ろしいどよめきの声、呻き声が聞こえてきた。 手榴弾が7,8発爆発した。「一体なんだろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。 仲間の兵士が1人射殺され、1人は傷を負った。 われわれは朝まで待つことにした。 その間人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。 ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何と言うことだろう。 そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。 この世で目にした最も痛ましい光景だった。 ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけだった。

 そこには200人ほど(注・77師団G2リポートには250人とある)の人がいた。 そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵※(実は防衛隊員である 以下※印の日本兵はみな防衛隊員のことであることに注意)がいた。 死体は3つの小山の上に束になって転がっていた。 われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。

 およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。 周囲には不発弾が散乱し、胸に手榴弾をかかえ死んでいる者もいた。 木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。 母親だと思われる35歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握り締め、前かがみになって死んでいた。 自分で自分の首を絞め殺すなどとは全く信じられない。 死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。

 ─つづく


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