上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

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沖縄をダメにした百人 34

2013-03-17 09:16:03 | 沖縄をダメにした百人

~1フィート運動騒動記~ 19

 恥知らずの団体が潰れた。 1フィート運動は無惨な最期を迎えた。 彼らは「赤っ恥みんなで掻けば怖くない」と嘘っぱちを並べて、大きな顔をしている。

 先ず、1フィート運動を創ったのは上原正稔だ、と述べる報道は1行もない。 ましてや、それを略奪されたという報道も1行もない。 そして、乗っ取りの醜い内幕についての報道も1行もない。

 ぼくは1フィート運動が集めた沖縄戦フィルムはわずか240~250本に過ぎないことを知っている。 11万フィートのフィルムという無意味だが大きな数字で誤魔化しているが、誰もその全てを見た者はおらず、その一部を見た人も皆無なのだ。 全てを映画製作業者に任してきたのが実情だ。 8900万円を集めた、というが、1年平均するとわずか300万円弱だ。 ぼくが事務局長でいる時、わずか4か月で1000万円を集めたことを皆忘れている。 

 ぼくは1984年4月にアメリカに行き、フィルム調査員のリチャード・プレリンジャーから精選した12本のフィルムを入手し、5月中旬に那覇市民会館で上映会を催した。 その上映には那覇市役所の職員らが大いに協力してくれたものだ。 宮里千里らは市民会館が超満員になることを予期して、第二会場まで用意してくれた。 立ち見席まで出た市民会館の2000人に第二会場の500人を合わせて2500人の大観衆だった。

 12本のフィルムは今でも印象深いものばかりだ。 特に日本兵の先頭に立って白旗を揚げて投稿する少女はその後も話題になった。 数年後、彼女が名乗り出て、比嘉富子さんと判明した。 彼女は手記を著わし、その中で重要な証言をしている。 彼女の後ろからついてくる日本兵の名誉のために言うが、その直前に偶然に一緒になっただけであり、決して日本兵から依頼されたものではない、ということが真相だったのだ。 新川明大田昌秀らはその誤りを今も認めていない

 沖縄戦のフィルムはほとんどがサイレントであり、そこに登場する人物の話を聞かない限り、見る者は勝手な思い込みに陥るものだ。

 ぼくは2003~5年にかけて、自分で沖縄戦フィルムを集め、上映会を開いた。 そして2004年に沖縄県平和祈念資料館の島袋記美子館長に依頼され、映画を作った。 それに協力してくれたのが、沖縄テレビの山里孫存ディレクターだった。 ぼくは前年からアメリカからフィルムが届く度に記者会見し、ある時、NHKの記者が「フィルムを集めるのは反戦平和のためですか」という質問が出て、ぼくは1フィート運動のあの「反戦平和を叫ぶ偽善者」を思い出し、「反戦平和などぼくとは関係ない」と強い口調で言った。 その時、本当に言いたかったのは「反戦平和などクソ食らえ」ということだったが、それはさすがに控えた。 こういうぼくに興味を示してくれたのが映像の魔術師の山里孫存だった。 二人で公文書館の沖縄戦ビデオを全て見て、1時間余の映画を作った。 それが「そしてぼくらは生き残った」だった。 それは人間賛美の映画で、その年2004年の慰霊の日に平和祈念資料館で上映され、映画が終わった時、満員の観客は拍手喝采を送ってくれた。 みんな笑顔だった。

 戦争という人間が試される究極の舞台で人間が人間として生き残ったことを知ることは本当に感動的なことなのだ。 特にフィルムの中に自分の姿や家族の姿を発見すると、人間(ひと)は自分の全人生をそこに見て、心が解放されるものだ。 その中に井戸から次々救出される住民の姿を映したフィルムがあった。 「そしてぼくらは生き残った」を上映した時点では場所は不明だが、とても印象的な場面で、島袋館長も山里ディレクターもぼくもその場所を突き止めようと決意した。

 山里が別のフィルムからそこに登場するアメリカ兵が第77歩兵師団の兵員であることを突き止めた。 そのフィルムの日付が5月12日だったことから、第77歩兵師団の後方部隊のカメラマンが撮影しているのは宜野湾近辺だと推測できた。 しかし、具体的にはどこかわからない。 確かな情報に近づいたのは島袋記美子館長だった。 島袋館長は先日の映画の客の友人から白いハットをかぶり、井戸に降りている青年が宜野湾市我如古の宮城清英さんだと告げられたのだ。 そこで彼女は宮城さんを訪ねて、ビデオを見せたが、彼は私はあんな帽子をかぶったことはない、だから自分ではないと否定したというのだ。 その話を聞き、ぼくは確信した。 フィルムの青年は間違いなく、宮城清英さんだ。 本当の英雄とは自分が英雄だとは知らないものだ。 詳しいことはここでは省くが、沖縄テレビのクルーはこのフィルムに登場する人物を次々捜し当て、その感動的な場面は全国に紹介され、山里孫存とその仲間はその年2005年にFNSドキュメンタリー大賞特別賞を授与されたのだ。

 反戦平和に凝り固まった1フィート運動が破滅し、一方でこのような感動的な物語が次々生まれている。 それを生かすのが若い世代の仕事だ。 ぼくらに残された仕事は数多くある。 特に田井等(たいら)の住民収容所の場面に登場する数多くの子供たちの屈託のない笑顔、笑顔。 それがアメリカ兵がオキナワを「笑顔の島」と呼んだ原点だった。 恐ろしいはずの戦争のすぐ横で「すばらしい笑顔」に出会った時、ぼくらはそこに「大きな救い」を見るのだ。 被害者意識で物を見ると永久に救いはやってこない。

 若者たちよ、新聞報道は全て腐っていると思え。 そして反戦平和なんて信ずるな。 

 さあ、明日から1フィート運動騒動記の怪談の続きに入ろう。

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