昭和36年の「江利チエミ/デルタ・リズム・ボーイズ」ジョイント・コンサートのパンフには以下のようなコメントが、志摩夕起夫氏より寄せられています。
>◆江利チエミの歩んだ道
思い出 なつかし
あのテネシー・ワルツ
今宵も ながれくる
チイちゃんの「テネシー・ワルツ」が巷に流れ出してからもう丸7年の歳月が経ってしまいました。日本の生んだ類い稀な天才歌手、江利チエミのプロフィルを総めて書いてみる時機でもあるようです。折も折、彼女にとっては忘れられないデルタ・リズム・ボーイズの来日。
江利チエミは、東京下谷でピアニストの父、久保益雄と女優の母、谷崎歳子の間に生まれました。両親の血を受けて音楽的な素質に恵まれ、特に人まねが上手で、よくまわりの人たちを笑わせたそうです。面白いことには幼い時に唱歌が嫌いで、音楽の時間になるといつもユウウツな顔をしていました。それには理由があったのです。彼女は他の友だちよりもずっと声が低いので、歌う時まわりの子と合わないので、一人で歌うのは好きでも、大勢いっしょの教室では小さくなっていなければならなかったわけでした。後にこのハスキー・ヴォイス(かすれ声)が日本中のファンを沸かせることなど誰も想像しなかったでしょうから。それにハスキーが受けるご時世でもなかったのです。
母親を失って傷心の彼女を慰めた唯一のものは歌でした。また歌の才能を信じた、たった一人の人は、彼女の父益雄氏でした。それ以来現在まで、父と兄とは彼女の仕事と私生活の両面にわたるよき理解者であり協力者です。
歌手の誰もがそうであるように、チエミもまたそのスタートは先輩歌手のイミテーションからでした。米軍キャンプでステージに立っていた12・3才の頃の彼女は笠置シヅ子そっくりだったのです。ジェスチャをまじえて「東京ブギウギ」を歌う江利チエミは「笠置そっくりの妙な少女歌手が現われた」というので日本人の間でもちょっと評判になりました。昔気質の笠置シヅ子は自分の真似をする少女歌手を痛々しいと思ったのでしょう。作曲者・服部良一と相談して「東京ブギウギ」をこんな少女に歌わせないでほしいと申し入れ、そのためにチエミにとっては最初のチャンスであった日劇出演がお流れになるという結果まで生まれました。この笠置シズ子の親心が、チエミを発奮させたかどうか、彼女は、ますます歌に精進を重ね、昭和26年暮れにはキングレコード会社に入社。デビュー盤を吹き込むはこびになりました。それが「テネシー・ワルツ」と「家へおいでよ!」の両面です。前者はアメリカでも再流行していた古いヒルビリー・ワルツ。後者はヒット・パレードのトップを占めていた最新の歌で、この二つの重要な歌を無名の新人少女歌手に一枚両面のレコードに吹き込ませるとは、キングとしても並々ならぬ気の入れようであり自信満々だったのだと思われます。
バラードとスイングとこのレコードはチエミの持つ二つの面を発揮させたものであり、少女らしい優しさと笠置ばりのパンチの強さとを兼ね備えてキングにとっても驚異的な40万枚という大々的なヒットを記録してしまいました。かくて江利チエミはレコード界での幸運なスタートを切ったのです。
以後は多少の曲折はあってもまずトントン拍子に人気が上がり、昭和28年第1回の渡米後は完全に第一線のスター歌手になってしまいました。そのときのおみやげ的な発表となった「思い出のワルツ」「サイド・バイ・サイド」も大当たりをとり、一作ごとに確実な進歩を見せて、2度目にアメリカから帰って来たときの「ラヴアー・カンバック・トゥ・ミー」「ダンス・ウイズ・ミー・ヘンリー」にいたってはある種の貫禄さえ感じられました。第一回におけるデルタ・リズム・ボーイズ、第二回におけるレス・ブラウン楽団などアメリカ一流のジャズ・グループと一緒に直接に歌うチャンスを得たこともよい勉強になったでしょう。チィチャンは今でも「私の今日あるのは、デルタ・リズム・ボーイズのおかげです。先輩であり良い先生でした」と言っています。こうした恵まれた条件によった真の意味がジャズを歌える数少ない歌手として江利チエミは貴重な存在となったのです。
江利チエミのヒット・レコードとしてはこの他に「ガイ・イズ・ア・ガイ」「ウェディング・ベルが盗まれた」「裏町のお転婆娘」「ロックン・ロール・ワルツ」「ウシュクダラ」「お転婆キキ」「キャリオカ」「ババルー」等々数え切れないほどですが、そのどれを聴いても江利チエミでなければ歌えない独自の境地が感じられます。笠置シズ子の物真似から出発した彼女が今や江利チエミ自身のスタイルを確立したのです。いや「テネシー・ワルツ」のデビュー盤さえすでにその感じはあったのです。誰の真似でもない自分だけのスタイルで歌うという、この簡単なことが如何に至難であるかは、一時名をあげても、やがていつとはなく消えてしまう多くの歌手の例を見ればすぐ判ることです。
チエミはまだジャズのフィーリングを肉体的に備えている日本人には珍しい歌です。身体全体から湧き出す強烈なパンチ、アドリブの良さ、こればかりは何年勉強したからとて体得出来るものではありません。天才とはそこのことを言うのです。これあればこそジャズ・ソングの中でバップイキャット(言葉でない音を繰り合わせる即興的な歌い方)をやっても、少しも借り物に聞こえないのです。
彼女は最近さらにレパートリーの巾を広げて「チエミの民謡集」というLPを出し、早くも2万枚売れました。これもLPとしては空前のことでしょう。
チエミより一足先に名をなした美空ひばりと今は映画で活躍中の雪村いづみと少女歌手が三人組んで「うたう三人娘」などと騒がれた時代もありましたが、この三人の中ではもとより、日本ジャズ界の女性陣を見渡しても本格的にジャズを歌わせたらテクニックでも、うま味でも江利チエミの右に出る人はまずあるまいと思います。しかしチエミが本当のジャズを歌う機会は意外に少ないのです。そういう意味でデルタ・リズム・ボーイズの来日は彼女の今後について画期的な出来事であります。しかも彼女の構成・演出という別の面の才能も試す絶好のチャンスともいえるのです。
映画界では「サザエさん」シリーズを始め朗らかな少女役で成功したチエミはその映画界での交際から31年のクリスマス以来のロマンスが実を結んで高倉健との結婚へゴールイン。私生活でも幸福そのもの。チイちゃんは、軽音楽界にとってますます得がたい存在となってゆくようです。
※志摩さんの記述には「丸7年」以外にも、笠置シヅ子--->シズ子といったミスがあり、ここではその表記ミスを判る範囲で訂正しています。もっとも歌手時代の笠置さんは シズ子 という表記ですからこれに関しては「間違い」ではないのですが。
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高倉さんとの初デート...
これはこの「31年のクリスマス」と記載されている部分、東映のパーティに江利チエミさんが招かれて「歌を披露した」時と言われています。これは同年12月26日~公開された江利チエミさんが客演で出演した東映の正月映画/恐怖の空中殺人・・・が縁でのことだと...
そのとき、チエミさんはもうひとり「彼女の人生にとってかけがえのない男性」と実は出逢っていたのです。
その青年は慶応ボーイで「学生バンドの一員」でした。
江利チエミというスターと、そのとき急場ごしらえで彼女の伴奏をすることになった大学生との一瞬の出会い...
この青年こそ、昭和30年代後半から彼女の生涯の音楽的なパートナーとなる、アレンジャー/筒井弘志さんだったのです。
このあと、筒井先生は「アニーよ銃をとれ」の音楽担当に抜擢されます。
古いこの作品のスコア(総譜)は当時日本では入手できず、なんとか入手できたピアノのスコアとテープから筒井先生はオーケストラ総譜を書き起こしました。地道なこの譜面お越し...チエミさんとはまだ本格的な顔合わせというわけにはいかなかったそうです。
江利チエミ・筒井弘志...本格的なコンビとなるのは以前にに記事にしていますが、これからちょっと後、TBS「チエミ大いに歌う」で、筒井先生が師匠「広瀬健次郎先生」の代役を務め、江利チエミさんの楽曲(ブルー・スカイ/ラバー・カンバック・トゥー・ミー等)の編曲をしたときからです。