「読むJ-POP/田家秀樹著」... 1945-1999私的全史 の江利チエミさん評を引用しようと思います。
この本の中で、イエローモンキーのボーカリスト「吉井和哉さん」が、「どんなにブリティッシュ・ロックでもどこかに美空ひばりや江利チエミが入っている」といった文面は過去にも ここ で紹介しました。
田家秀樹さん(音楽評論家)
1946年生まれ。
放送作家、雑誌編集長を経て、音楽評論家となる。
ノンフィクション作家としても定評がある。
著者の視点=団塊の世代の目に江利チエミがどう写っていたのか・・・
>三人娘にはそれぞれの個性があった。
黒人ジャズボーカルを得意とした江利チエミ、
白人女性ボーカルに洗練された雪村いづみ、
そして、そんな二人の分野も飲み込んでいるような美空ひばり・・・
やはり・・・どうしても江利チエミのスタートはJAZZで・・・というところからはじまってしまうのですね。これは私の見方と似て非なるものです。
私のチエミさんの音楽性の根源の話は ここ に掲示しています。
歌謡曲好き?であった幼少の筆者にとってのアイドルについてはこう書かれています。当時の小学校低学年の教室でも・・・優等生のなかには「歌謡曲はくだらない」という見方をする子供が居て、また音楽教師は「歌謡曲を目の敵」にしていた・・・学校で歌謡曲を歌ってはならない!・・・そんな時代です。
>・・・アイドルは美空ひばりと、恥ずかしながら島倉千代子だった。江利チエミはデビューしたときからオトナっぽかった。雪村いづみには歌謡曲の匂いがなかった。
これは当時を知らない私ですが、画像などで見る限り、確かにそういった印象があります。
これは堅気の家の娘であった二人に対して、芸人・玄人の娘であったこと、メジャーデビューまで3年ほどのキャンプ時代に下積みを経験していた・・・といったことに要因があると思います。
昭和27年という戦後が成熟し、回復から成長に向かっていく・・・そのとき、「洋楽と歌謡曲、その最後の橋渡しとつなぎをした」のが江利チエミであったといえると思います。
歌謡曲の匂い・・・これは、初期のペギー葉山さん、そして先輩格の池真理子さんにも香ることがない江利チエミさんの体臭・・・ともいえるものだと思います。
当時、作曲家の吉田正さんは・・・
>縄のれんの店で飲んでいると歌謡曲が聴こえてくる。しかし新しくできたバーでは洋楽しかかからない・・・ 実際当時の歌謡曲は、そういうところにそぐわなかった。こういうところでかかっておかしくない日本の歌はないのか・・・
こういった思いは昭和30年、赤と黒のブルース/鶴田浩二。31年、好きだった/鶴田浩二、32年、夜霧の第二国道/フランク永井・・・ そして『有楽町で逢いましょう』の大ヒットという形で成就します。
こういった昭和30年代のムード歌謡を作っていったヴォーカリストは、進駐軍出身のフランク永井、松尾和子といった面々でありました。
このころ、チエミさんは洋楽に固執しますが、33年一挙にレコード会社の願いを聞きいれ「さのさ」を発表します。
※さのさレコーディングへの経緯は ここ に掲載しています。
ジャズ--->ムード歌謡・・・へと方向を変えていったら...
江利チエミが歌謡曲とジャズを本当の意味でつないだ歌手!・・・と誰からも評価されたでしょう。しかし、いきなり「さのさ」にいってしまって・・・
そこで本来もっと「流行歌手」として評価されるべきなのに、ジャンルという「枠組み」に収まりきれないレパートリーに挑戦したこと、そして30年代後半「歌謡曲が成熟した時代」に「オリジナルでカラーを出せなかったこと」が、江利チエミの存在意義に対して「おいおい!みんな!見落としてるぞ!!」といった事態に残念ながらつながってしまったような気がします。
昭和42年
喉のコンディションに陰りが見え出した時期ですが...
名唱「ゆきやまつむぎ」
http://www.youtube.com/watch?v=JevwqTVfxvY
楽曲「ゆきやまつむぎ」のことは... http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/65ac6c8a2d9996c5f3264298b5c7efb5
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こちらを!!
セッシボン ブルームーン チェンキングパートナー ジャンバラヤ アンナ ジングルベルツーヤング 他を聞いています。最高ですね。