江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 美空ひばりさんのジャズアルバム なぜシャープが美空ひばりの専属バンドになったのか

2021年06月06日 | 江利チエミ(続編)

友人からひばりさんのジャズアルバムがモノラル盤としてリリースとの情報がはいりましたので、ひばりさんとシャープ、そしてチエミさんのお話を掲載します。

>美空ひばりの1960年代の貴重なジャズアルバム2作品が、ひばりの命日であり、今年で33回忌となる 6 月24日にアナログ盤として復刻発売されることが決定した 。 両作品共に2008年と2006年にそれぞれ LP 作品として復刻されているが、リリース後に即完売し今では入手困難となっているため、再復刻を望むファンからの強い要望に応えリリースが決定した。
美空ひばりは日本の流行歌手として1954年に最初にLPアルバムを制作した歌手であるが、今回復刻されるのは1961年に発売の全曲外国曲の日本語カバーアルバム「ひばりとシャープ」と1965年に発売のナット・キング・コールを偲んだアルバム「ひばりジャズを歌う」の2作品だ。
「ひばりジャズを歌う」は英語と日本語の歌詞がほぼ半分ずつという構成で、「ラヴ」や「魅惑のワルツ 」など CM ソングとして使用された楽曲も多く収録され、ジャズ好きにも歌謡曲好きにも両方に楽しめる作品となっている。一方、「ひばりとシャープ」は全曲外国曲の日本語によるカバーで「虹の彼方」や「ダニー・ボーイ」などのスタンダード作品を楽しむことができる。 2作品ともに美空ひばりのステージを支えてきたビッグバンド、原信夫とシャープス・アンド・フラッツによる演奏だ 。
また、「ひばりとシャープ」は当時モノラル盤とステレオ盤の2種類が発売されたが、今回はモノラル盤として復刻、 56年前の録音が瑞々しく蘇り、ステレオ盤では味わえない芯の太さを感じ取ることができる。
美空ひばりの息吹を身近に感得することができるファン必聴の作品だ。
HIBARI MISORA / 美空ひばり / ひばりジャズを歌う(LP) HIBARI MISORA / 美空ひばり / ひばりとシャープ(LP)


シャープス&フラッツはジャズブームの去った昭和36年ころからの苦境を43年ころまで「美空ひばりさんの専属」となることで切り抜けました。
そのころチエミさんは歌手以外の活躍も多くなっていた時期でした。
もちろんチエミさんは例外でシャープは折々でチエミさんの伴奏をつとめました。

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原信夫さんのインタビューなどより

>昭和36年(1961年)江利チエミ長期休養より本格復帰 美空ひばり 江利チエミの舞台でジャズを歌う 

江利チエミは休暇をとっていたアメリカから帰国した。少女ジャズ歌手として衆目を浴びた彼女だったが、高倉健との結婚を機に引退をほのめかし旅立った、久々の長期休暇だった。ただ8年前と同じくその時もデルタ・リズム・ボーイズを伴っての凱旋で、いくつかのコンサート会場で共演することも決まっていた。こうしてごく短かかった「引退」の喪は明け、再び舞台への情熱をたぎらせていった。開催されたチエミとデルタの共演コンサートには専属バンドの原信夫とシャープス&フラッツ(以後「シャープ」)が伴奏につき、すぐに『江利チエミ&ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』とタイトルされたLP盤に成型された。昭和36年(1961年)初頭の素描である。

同じ年の4月。デルタのカール・ジョーンズが今度は単独でやってきて、チエミとスタジオに入りシックスレモンズやキング・オールスターズと『チエミとカール・ジョーンズ』を収録。オールスターズとは原信夫、伏見哲夫、大西修、竹内弘、武藤敏文らシャープからの選抜隊で、全編で趣向を凝らしたじつに粋なジャズ・アルバムに仕上げられた。師匠のジョーンズは一連の舞台と録音につき合い、秋にもチエミの公演について廻り、京都花月劇場では飛び入りした美空ひばりのピアノ伴奏までやってみせた。チエミのことを本当の姉妹のように思っていた美空ひばりは、ちょうど京都で映画撮影に入っていて、時間を調整しこの公演を覗きに来たのだった。そして《さのさ》に続きジャズもひと節、チエミとの共演でやってみたりした。

そんなチエミの舞台へひばりの陣中見舞いがあったある夜、ひばりの母・加藤喜美枝と連れだち祗園で名物の懐石料理屋で腹ごしらえすることになった。もちろん原信夫も誘われたが、この同行がのちに原にとって人生の転機となる大事件へと発展する。食事をしていると、やおらお嬢(=ひばり)のママ(=喜美枝)が「ねえ原さん、たまにはお嬢の伴奏もしてやってよ」と切りだした。少し酔ったチエミも調子良く「そうよツカさん、やってあげなさいよ(本名を塚原といって、親しい者からは〈ツカさん〉の愛称で呼ばれた)」と重ねた。場の空気を乱さぬよう「はいはい、分かりました」と言い流しそれで終わった、つもりでいた。・・・

江利チエミ&カール・ジョーンズ「クレイジーリズム」

昭和36年(1961年)5月
ナット・キング・コール初来日

昭和36年5月、ナット・キング・コールの初来日が実現する。東京を皮切りに名古屋、大阪、福岡での公演も決定し、赤坂ニュー・ラテンクォーターでのショー以外、その全行程にシャープはついて廻った(2年後の再来日時はニュー・ラテンで伴奏し、同音源が先頃、奇跡的CD化を果たした!『ライブ・アット・ニュー・ラテン・クォーター』[マースミュージック MMV-1002])。自身のピアノ・カルテットにトランペットのルノー・ジョーンズを加えただけの軽装で、日本でビッグバンドとストリングスを調達したのである。ピアノ奏者リー・ヤングの采配は歌と演奏を聴かせるだけでなく、エンタテインメントを演出するための無駄なく的確な指示であり、《トゥー・ヤング》での心憎い進行には会場が割れんばかりの拍手に包まれて、原はその効果にぞっこん驚いてしまった。キング・コールは若く逞しい日本の楽団のことを賞賛してくれたが、この興行のどこかでやはり日本を代表するエンタテイナーである美空ひばりが客席側でひっそりと感慨に耽り、その歌唱に浸っていたことになる。

 同じ年の9月、ひばりはシャープを伴奏に、はじめてジャズだけで1枚のアルバムを吹き込んでいる。少し前に江利チエミのショーに飛び入りし一緒にジャズを歌ったことが、ある強い衝動をもたらしていた。もともと心に温めていたことだったが、「いつかジャズに挑戦したい」という思いがその衝動とともに弾けたのだ。親友のチエミと高島忠夫が案を持ち寄り、ジャズの有名曲をすべて日本語で歌うという趣向に意見はまとまった。《セ・マニフィーク》など大好きだった曲から10曲を選び、そこに水島哲による日本語詞を付して山屋清、前田憲男、狛林正一に編曲を任せた。そして日本都市センターホールを2日間借り切り、30人を擁する高珠恵ステレオ・ストリングスも加えて録音は敢行された。

本人もうっとりメロディに乗り、ジャズでありながらその枠にとらわれず、ひばり独特の歌世界が開扉されていた。10曲を最後は8曲にしぼり、収録された『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』は意欲と努力はもちろん勘のよさが全面に匂い立ち、それまでの歌謡スターと比較にならぬグルーヴを盤に刻み込んだ。「聴けば聴くほど手離しがたい」という作品評は、ひばりファンというよりむしろジャズ評論家のほうから出てきた言葉であった。

 後日、ひばりの母・喜美枝から「来年の日程を押さえたいんだけど」と原のもとに連絡が入った。ずっと先のことだから空き日はいくらでもあったし、祗園の夜に交わした軽い約束もあった。しかしそれが尋常な日数ではなく、スケジュールを書き込みながら不安になっていった。そして案の定、その事件は勃発する。少しして江利チエミも原にスケジュール調整の連絡を入れ、その大部分がひばりの公演のために押さえられていることを知らされるのだ。一瞬無言で落胆の意を示し、やがて本気に近い怒りへ態度を硬化させていった……ほんの電話の上での口論であったが。

>昭和12年(1937年)5月29日
美空ひばり誕生

美空ひばりは、はじめから天才であった。

昭和12年(1937年)5月29日。横浜市磯子の新開地で屋根なし市場の魚屋「魚増」を営む父・増吉と母・喜美枝の間に、加藤和枝は誕生する。蘆溝橋事件が発生し、日中戦争へ突入するひと月半前のこと。これが第二次世界大戦につながる長い戦いとなり、日本中を疲弊させていった。そんな戦争が終わってすぐ、まだ8歳だった和枝は父親が作るミソラ楽団を伴奏に、美空和枝の名前で磯子区滝頭の町内演芸会に出演し歌いだした。客席は近所づきあいの顔なじみであるから、《小雨の丘》や《チンライ節》などを歌って大喝采を浴びたのはいうまでもない。やがて芝居小屋のアテネ劇場や杉田劇場への出演機会を得て《旅姿三人男》をやってみれば、小学生の女の子がはやり唄をしっかり暗記し声を張りあげて歌うのがいじらしいと、大人たちをのきなみ興奮させていた。近隣ではすでに人気者だったがNHKのラジオ番組「のど自慢素人音楽会」の横浜大会で《長崎物語》と《悲しき竹笛》を歌った時は、「幼子が大人の節回しで歌うなど、じつにゲテモノである」との批判も受ける。ただそこで耳のある興行主や浪曲師に見出され、横浜国際劇場での前座出演を足がかりに、やがて大劇場へと進出していった。荒んだ世をかたくなに生きる少女……もはや国民にとって彼女は「廃墟の中の希望」であった。

敗戦から10年。すでに美空ひばりは、押しも押されぬ歌謡界のトップスターだった。昭和30年(1955年)には年間39曲の録音と12本の映画出演があり、江利チエミや雪村いづみとの「三人娘」も大当たりした。有名になり過ぎたことの代償として、31年の大阪劇場では多くのファンを動員し過ぎて死者を出してしまったし、32年の浅草国際劇場ではそんなファンのひとりから塩酸を浴びせられる事件にも遭った。爛れた肌とともに、心理的に受けたダメージはあまりに大きかった。が、そんな痛ましい諸事をすべて心の裡に納めてしまえば、歌手としての度量はひとまわりもふたまわりも逞しいものとなっていた。

そんなことを経た35年末、第2回日本レコード大賞で《哀愁波止場》を歌唱賞に輝かせる栄誉を得る。36年には通算して発売されたレコードが500万枚を突破し、記念リサイタルを開催。秋には初のジャズ・アルバム『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』にも挑戦し、表現の幅をより意欲的に開削してみせた。そして37年は浅草国際劇場と大阪劇場において、人気楽団シャープス&フラッツをバックに控えた1週間ずつの正月公演からはじまっていた。

チエミは努力の人、対するひばりは圧倒的な芸力を持つカリスマ的存在。洋楽に基本を置くチエミと異なり、演歌や歌謡曲を主体に才を披瀝するひばりは、まさに国宝的存在であった。原信夫はそんなふたつの個性の間に立ち、当面は相互をうまく両立させながら差配した。ただどこで嗅ぎつけたか、週刊誌が「チエミと原が大ゲンカ!」と書きたてたのである。チエミとは受話器をはさんで多少の遺恨は残したものの、けっして喧嘩などしていなかった。しかしマスコミの無慈悲な操作で世間の目が変われば、当人の気持ちとは裏腹にその関係は徐々にねじ曲げられるもの。

原は4年前(昭和33年)、ラジオ番組「チエミと歌えば」の収録につき合っていた。その番町スタジオにゲストでやってきた少女が、初めて顔を合わせる美空ひばりであった。そこで思わず感心させられたのを覚えている。曲の途中で演奏を止め歌だけ残すやり方をブレイクといって、ジャズでよく試みられる手法がある。永井荷風の著作をもとに作られた《日和下駄》の伴奏をしていた時、ひばりがブレイクで「おっとどっこいそこはみずたまりー」とやってみせた。もちろん編曲の時点で効果は狙われていたが、聴かせたみごとなタメと節まわしは並の流行歌手にできる種類のものではなかった。そこにジャズの雰囲気を見出し、その印象が原の中に長くとどまっていた。

かつて塩酸事件の時も、もともと小野満とシックスブラザーズが伴奏をつとめていた。小野とは秘かに婚約まで交わした仲で、ひばりの伴奏といえばシックスブラザーズと決まっていた。にも拘わらずそれを引き継ぐように、37年の浅草国際劇場における新春公演「姉弟ショーべらんめえ初姿」以来、シャープが専属バンドとなっていた。京都祗園で切り出されたママの言葉がその端緒で、原にすればあの《日和下駄》の才能により近くで触れてみたくもあった。『ひばりとシャープ ─虹の彼方─』の成功があり、週刊誌に書きたてられたいわれのないケンカ記事も拍車をかけ、活動の場はひばりの側へ急接近していった。

ひばりはチエミと違い、ジャズでなく歌謡曲に力点を置いてきたが、流行の兆す新しい音楽=ジャズを模索したこともなくはなかった。8年前(昭和29年)、まだ16歳だったひばりが新宿第一劇場のアトラクションでジャズを歌ったのがその最初の機会だった。次の年、エリントン楽団の専属歌手ベティ・ローシェの歌唱を真似て《A列車で行こう》を歌いこなし、ただ感性の良い少女歌手ぐらいに見ていた周囲を唖然とさせたこともあった。その扱いは群を抜き、そのことを本人も気づいていた。収集するレコードといえば洋楽のジャズやポピュラーばかりで、一昨年のハリー・ベラフォンテの公演も昨年のナット・キング・コールの公演にも駈けつけ、歌といわず舞台運びといわず研究し尽くして帰った。ただ母・喜美枝はそれを理解しながら、あえて娘にはジャズをやらせなかった。お嬢には巷に欲する者の多い演歌を歌わせ、その世界で日本の頂点に立たせたかったのである。ただシャープとの出会いがあり、この数年間だけは母娘ともにジャズも表現のひとつに加え大切にした、希少な時期を過ごすことになる。

>昭和38年(1963年)
日本ポップス・シリーズ第一弾『ひばり世界をうたう』発表

五輪の開催をひかえ、日本中が沸きかえる昭和38年。この年の春、ひばりは再びシャープの伴奏で1枚のアルバムを制作する。この計画は原と、日本コロムビアの雨森康次ディレクターとの間で秘かに練られたものだった。雨森はコロムビアから社員が大量流出するというレコード界でも稀な事件が起こった時、姿を消した前任者を引き継ぎ社長に直訴してひばりの担当をかち取っていた。二人で話すうちイタリア、韓国、フィリピン、ロシア、メキシコ、スペイン、スコットランドなど、世界各地の民謡を歌わせてみようとなり、連絡するとひばりも乗り気になってくれた。そして日本語詞を付し、ひばり仕様の和風ジャズ・スタイルでいくことに意見は一致した。

4月の2日間が録音日に当てられ、今回も1日に6曲ずつを録音する強行軍となった。そこで原は、ひばりの驚くような才能に触れることになる。世界の民謡12曲を取り上げ、佐伯亮、山屋清、前田憲男、服部克久たちの手でストリングスも加えた綿密な編曲がなされた。ひばりはその譜面を眺めたかと思うと「さあ、やりましょうか」と立ち上がった。が、誰もがそれをリハーサルの合図だと思った。

 1曲歌うごと、細を穿ったひばりの歌唱にスタッフ全員が心を奪われていく。ただ歌うとすぐ次へ移り、通常歌手がやるようにミキサー室へ向かい録音状態を確認するような素振りはない。初見ながら一度も間違えることなく、歌い終えるとその曲はもうそれでお仕舞い。「さあ次へいきましょう」と言って6曲歌い終えると、その日はそれで引き上げてしまった。次の日もまた同じ要領で他6曲を歌うと、それで録音はすべて終了していたのである。みな呆気にとられたがそれがいつもの彼女のやり方であり、楽団に何度も同じ箇所をくり返させたチエミとは正反対だった。一度録り直しの機会があったが、それはシャープ側のミスで「あら、シャープさんが間違えるなんて不思議ねえ」と可笑しそうに言うと嫌な顔もせずまた録音に戻り、同じように完璧に歌ってみせるのだ。

どの曲も情趣にうったえかける上質な仕様で、コロムビアの日本ポップス・シリーズ第1弾『ひばり世界をうたう』として、雨森の手でみごとなレコードに仕上げられた。・・・

チエミのジャズ:カウント・ベイシーの伴奏


ひばりとシャープ

日和下駄



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