江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

【247】 投稿記事掲載 おしゃれ...について

2006年03月31日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)

読者のかたから送っていただきました...  
    筋金入り「江利チエミファン」からの投稿です!

<おしゃれ>
昔むかし、中林洋子(なかばやしなみこ、故人)が歌手や映画スター(タレントと言う言葉は未だ一般的に使われてなかった)の服装を批評するコラムがあった。
中林洋子さんはクチュールデザイナーのはしりで、早くに引退した方だ。
彼女の引退がなければ今日の森英惠などは違ったものになっていただろう。

彼女が「理解に苦しむ」と評したのは松山恵子さんで、当時(昭和30年前半)でも彼女の服装は目立っていた。大きなイヤリングと沢山のネックレス、長い手袋の上から指輪をし、ブレスレットをし、頭にはティアラをし、パニエ(スカートが膨らんで見えるように加工したペチコート)の入ったプリントのロングドレス。
ファッションデザイナーの視点から見れば「理解に苦しむ」姿だろうが、マーキュリーレコードなる関西は西宮に本社のあるマイナーな匂いのするレコード会社の所属歌手だった松山さんには、しかし皮肉でもなくそんなファッションが良く似合った。
現在でも同じ様なキンキラキンのファッションで歌う彼女には、強靭な「意志」を持っていると感じさせる。

ひばりさんにも同じ様な「趣味の悪い」「野暮ったい」「垢抜けない」と言った批評の出るファッションで歌っていた。しかしそれは決して彼女の好み、と言う訳でもないらしかった。
ある時ママにもう少し趣味の良い服で歌いたいと、訴えたと言う。しかしママは「お嬢、あなたのファンは都会だけではない。むしろ地方の方が絶対数では多い。地方の人にも判って貰え、憧れを持って見て貰える格好で歌うべきだ。」と言う様な言い方で諭したと言う。
ママが病気で彼女を余り管理出来なくなってからは、君島一郎など有名デザイナーの服で歌っていた。君島さんはシフォンの水玉に白衿と言ったパターンが多く、テクニックが多彩な、と言うデザイナーではなかったからか、ひばりさんのステージ衣裳でのコンビは、長く続かなかった。
彼女と同じ町内(目黒区青葉台)の巨匠に衣裳の依頼をしたが、先方は断って来た、とか…噂である。
が、衣裳は森さんにその後は定着し、森女史は精一杯の「ギンギラギン」のテクニックで応えたと思う。しかし、色の出し方等に品の良さが出ていて、ママが生きていたらもっと違った指示があったのでは?と言う気がしてならない。

現在の歌手で若き日の松山、ひばりのてんこ盛りファッションの志を継いでいるのは、天童よしみさんだろう。
彼女が敢えて趣味が悪いと言われるのも厭わず、私はあぁ言う姿で歌っていると思う。もし、本当にそうなら偉いものだ。

三人娘の中ではいづみさんが若い頃から一番ファッショナブルで、フォトジニックである。
中原淳一氏(咲子さんの姑役の葦原邦子さんは彼の奥さん)のアップリケの服や森英惠のドレスが良く似合った。
チーちゃんも「少女ジャズ歌手」時代から決して趣味は悪くなかった。着物の感性などむしろセンスは人より良い。その証拠?に伊志井寛夫人で石井ふく子さんの母の三升延さんが、チーちゃんには着物を上げたと言う。
彼女の着物のセンスは只者ではなく、高峰秀子さんの随筆に彼女から着物を貰ったうれしさを書いている。延さんがおしゃれを認めたから呉れたと言うことである。
ただ、火事に遭った時、知人やファンから貰った服は必ず袖を通したと言う。中にはどうしてこんな服をと思うものも着ていた。
そして悪魔の義姉事件で経済的に苦境に立たされてから、彼女はあきらかに高価と思えないものを着ていることがあった。
センスがある人だけに本人は辛かっただろう、と思う。

しかし、亡くなる前の「ミュージックフェアー」で着ていたドレス等は、往年のセンスが甦っていた。
もっともっと彼女らしいドレスで、ジャズを歌っていて欲しかった、と残念に思っている。

        (記事投稿...ありがとうございました。)


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