なんの心構えかしら(笑)
いやー、不摂生がたたって寝れない。正月がおめでたいって、「人間っておめでたいね」っていう皮肉なんじゃないかと思うくらいだらしない生活。
しかし!例年になく準備万端で、休んだ気分に底抜けの脱力をしてるわけでもなく、仕事の始まるのがかったるいとも思わない。
なんだか淡々と日々を迎えられている“気のせい”を満喫中。
突然、おしまいです、って言われて、やり残したことってあるかな?と考えてる。
その時にならなきゃ実際の感覚なんてわからないけど、心構えとしてはやり残したことなど無いと考えてる。
長らえるならやることはある。いや、やれることはやる、が正しい感覚かな。
でも、未来に予定されていることは、その未来を当然かの如く考えることとは別物だ。やり残しの感覚は「本来だったら予定に対して、予定通りにいくかは別としても、その予定というステージに挑む権利がある」という感覚じゃなかろうか。
たぶん人は未来も過去も生きる権利を持たない。未来を迎えるとは、“今”という瞬間になった時には「生きられるなら生きる」という義務に変わるということだ。
未来とは当然受け取る権利があるもの、だと考えるから、人は傲慢になる。未来は受け取る直前瞬間、義務になっている。権利を受け取るのではなく、義務を過去に対して積み重ね果たす行為が“生きる”だ。
では義務とは何か。
人はみな一様に不幸である。人は人として生まれたことが最大唯一無二の不幸だ。
しかしそれは人として認められるものではない。生きているだけで不幸であることに気付くと、生きていることがイヤになり義務を果たせなくなるからだ。
本当は不幸なのに、認めたくないから欲望を満たそうとする。欲望を満たし義務とのバランスを取ろうとする。
そこで満たされて、不幸ではないと自らを錯覚させている。そうすることで義務を果たす推進力を得て、不幸から遠ざかろうとお茶を濁している。
これは不幸だ。不幸に気付かないことは幸せであるが、気付きたくないから欲望に従うのは不幸以外の何物でもない。本当は誰もが不幸であることに感付いている。
うん、かなりバイアスかかってる自覚の上書いてる(笑)眠くならんのですよ。
人としての幸せって何だろうか。人という存在そのものが不幸であるなら、「人に非ざること」が幸せと言えるだろうか。
人でありながら人に非ざるとは。むしろ人とは?
人とは自らの存在価値が無で、存在自体が人と人以外全てにとっての不幸であるにも関わらず、そこに気付く気付かない問わず人という幸せを追う生き物。
人とは欲望を振りかざし「それが人間である」と陶酔する生き物。
人とは人以外にとっての悪魔的存在。
いやー、なんだか怖いですな。
それが人間だってことすら認めちゃいけないのかもしれんね。
幸せを追うのが不幸であるなら、幸せを捨てるのが本当の幸せとも言えるのかも。いらないから捨てる、って意味じゃなくて、いると感じなくなることに幸せを感じられたら一番幸せなのかも。
つまり俺はどっちでもいいや、って結論になるんですわ。相対的な価値観であることだけわかれば、自分が幸せか不幸かなんてどうでもいいや。もちろん他人が幸せか不幸かも。誰かが幸せであれば誰かが不幸で逆も然り。幸せは有限で絶対量は決まっている。でも人口は爆発的に増える。奪いたいなら奪えばいい。そこに魅力は感じないし、他人がそれを魅力的だと思おうが感じようが実行しようが、俺は他人の幸せを妨害する権利を持っていなければ、誰かの幸せの片棒を担いで誰かの不幸に加担する権利も持たない。
だから別段、いま事切れてもなるべく「やり残した」なんて感じたくない。与えられた瞬間義務に変わる「生きる」に対して、淡々と果たす。
未来なんてどうでも良くて、いやどうでも良くない人にとってはどうでも良くないのはそうなんだけど、どれだけ未来のために生きようとも、未来が俺たちに渡すものは「生きられる権利」ではなく「生きる義務」であるわけだから、義務ってのは大変苦しいものなんだと思う。
それは未来のために生きる義務ではない。過去に対して生きた結果を積み重ねる義務だ。それさえ怠らなければいい。
種を蒔いたらその先どうなるかなんてどうでもいい。生えたきゃ生えるし、生えたくなきゃ生えない。人がいくら足掻いても無駄である。
だいぶ眠くなってきたので寝よう。起きてから読み返して「なんじゃこりゃー!」ってなるのは毎度(笑)
いやー、不摂生がたたって寝れない。正月がおめでたいって、「人間っておめでたいね」っていう皮肉なんじゃないかと思うくらいだらしない生活。
しかし!例年になく準備万端で、休んだ気分に底抜けの脱力をしてるわけでもなく、仕事の始まるのがかったるいとも思わない。
なんだか淡々と日々を迎えられている“気のせい”を満喫中。
突然、おしまいです、って言われて、やり残したことってあるかな?と考えてる。
その時にならなきゃ実際の感覚なんてわからないけど、心構えとしてはやり残したことなど無いと考えてる。
長らえるならやることはある。いや、やれることはやる、が正しい感覚かな。
でも、未来に予定されていることは、その未来を当然かの如く考えることとは別物だ。やり残しの感覚は「本来だったら予定に対して、予定通りにいくかは別としても、その予定というステージに挑む権利がある」という感覚じゃなかろうか。
たぶん人は未来も過去も生きる権利を持たない。未来を迎えるとは、“今”という瞬間になった時には「生きられるなら生きる」という義務に変わるということだ。
未来とは当然受け取る権利があるもの、だと考えるから、人は傲慢になる。未来は受け取る直前瞬間、義務になっている。権利を受け取るのではなく、義務を過去に対して積み重ね果たす行為が“生きる”だ。
では義務とは何か。
人はみな一様に不幸である。人は人として生まれたことが最大唯一無二の不幸だ。
しかしそれは人として認められるものではない。生きているだけで不幸であることに気付くと、生きていることがイヤになり義務を果たせなくなるからだ。
本当は不幸なのに、認めたくないから欲望を満たそうとする。欲望を満たし義務とのバランスを取ろうとする。
そこで満たされて、不幸ではないと自らを錯覚させている。そうすることで義務を果たす推進力を得て、不幸から遠ざかろうとお茶を濁している。
これは不幸だ。不幸に気付かないことは幸せであるが、気付きたくないから欲望に従うのは不幸以外の何物でもない。本当は誰もが不幸であることに感付いている。
うん、かなりバイアスかかってる自覚の上書いてる(笑)眠くならんのですよ。
人としての幸せって何だろうか。人という存在そのものが不幸であるなら、「人に非ざること」が幸せと言えるだろうか。
人でありながら人に非ざるとは。むしろ人とは?
人とは自らの存在価値が無で、存在自体が人と人以外全てにとっての不幸であるにも関わらず、そこに気付く気付かない問わず人という幸せを追う生き物。
人とは欲望を振りかざし「それが人間である」と陶酔する生き物。
人とは人以外にとっての悪魔的存在。
いやー、なんだか怖いですな。
それが人間だってことすら認めちゃいけないのかもしれんね。
幸せを追うのが不幸であるなら、幸せを捨てるのが本当の幸せとも言えるのかも。いらないから捨てる、って意味じゃなくて、いると感じなくなることに幸せを感じられたら一番幸せなのかも。
つまり俺はどっちでもいいや、って結論になるんですわ。相対的な価値観であることだけわかれば、自分が幸せか不幸かなんてどうでもいいや。もちろん他人が幸せか不幸かも。誰かが幸せであれば誰かが不幸で逆も然り。幸せは有限で絶対量は決まっている。でも人口は爆発的に増える。奪いたいなら奪えばいい。そこに魅力は感じないし、他人がそれを魅力的だと思おうが感じようが実行しようが、俺は他人の幸せを妨害する権利を持っていなければ、誰かの幸せの片棒を担いで誰かの不幸に加担する権利も持たない。
だから別段、いま事切れてもなるべく「やり残した」なんて感じたくない。与えられた瞬間義務に変わる「生きる」に対して、淡々と果たす。
未来なんてどうでも良くて、いやどうでも良くない人にとってはどうでも良くないのはそうなんだけど、どれだけ未来のために生きようとも、未来が俺たちに渡すものは「生きられる権利」ではなく「生きる義務」であるわけだから、義務ってのは大変苦しいものなんだと思う。
それは未来のために生きる義務ではない。過去に対して生きた結果を積み重ねる義務だ。それさえ怠らなければいい。
種を蒔いたらその先どうなるかなんてどうでもいい。生えたきゃ生えるし、生えたくなきゃ生えない。人がいくら足掻いても無駄である。
だいぶ眠くなってきたので寝よう。起きてから読み返して「なんじゃこりゃー!」ってなるのは毎度(笑)
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