土の上にも三年

農への道

自由の本質と多様性の本質

2013-10-31 00:27:39 | どうでも日記(雑記系)
前記事では前記事なりの結論を出した。では、多様性というものは果たして相手の自由を侵害しないことで成立するのだろうか。こういう文章では、成立しないという結論ありきの話を書くことになる。


多様性の本質と自由の本質は対称的だろうか。おそらく非対称的なのだと思う。ん、ちょっと表現が微妙な予感が(苦笑)

多様性の本質と自由の本質は等価交換出来ないはず。多様性の本質とは?


思うに、自然界が教えてくれているのだろう。ミミズの生きる自由が、モグラの生きる自由と等価交換出来るか?出来ないよね。モグラは生きるためにミミズを食べる。ミミズの生きる自由(=権利でもいいね)を侵害しているとも言える。

では自由と多様性は、比較するとするならばどちらが上位だろうか。ここが全体主義における多様性と個人主義における多様性が、非対称的だと思える理由なんだよね。上位とか下位とかは、視点をどこに持って行くかによって大きく変わってしまう。


全体が生きていくためには多様性が上位だろう。個人が生きていくためには自由が上位だろう。この鬩ぎ合いこそが多様性と自由の存在意義と言えないだろうか。

オンリーワンとやらは全体が生き延びるためにはもしかしたら不必要かもしれない。倫理道徳とやらは個人が生き延びるためにはもしかしたら不必要かもしれない。個人だけが生き延びれば全体も生き延びていくのか。全体が生き延びれば個人も生き延びていくのか。一般的には全体が滅びるとしたら個人は滅びている。だがしかし・・・

人はなぜ生きていくのだろう。全体を生き伸ばすためだけに生きていくのだろうか。知能というのは厄介だよねぇ。どちらもバランスよく考えていくって、とてもしんどい。結論を出してしまって、全体が生き延びていくためには個人なんて不必要、とか、個人が生きていくためには全体に背いて良い、とか、そういう生き方が出来たらどんなに楽だろう。


まぁ、全体と個人が、フィフティーフィフティーを境い目にして反復している状態が正常なんだと思う。つまり、世界は正常に動いている。その結果として人間が滅んだとしても、きっと生命は新たなステージをその上に積み重ねていく。

滅びることを恐れない。滅びることを軽視しない。とても難しい概念だと個人的には思う。

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