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土の上にも三年

農への道

俺さえ良ければいい

2012-02-16 23:59:01 | どうでも日記(雑記系)
Tさんがインフルエンザになってしまった。社内で初の発症で、急遽みんなマスク着用になった。こればっかりは回避しようにもしようがないもんねぇ。

すごく余談なんだけど、一時期飛行機雲がわんさか飛んでいて、その時期の数日後になってインフルエンザの拡大予報(「拡大している」じゃなくて「拡大予報」)が出た。陰謀説を個人で楽しむ分には大好きな方なので(笑)多分ウィルスをばらまいたんだろうなーとか思っていた。リレンザやタミフルが売れて万歳!

もう少し余談。

14日に本社で勉強会があった。そこで講師の方が農薬や殺虫剤の話をしていた。

農薬や殺虫剤は開発にすごく費用がかかる。でも昨今のアンチ薬剤の傾向から、パイの大きい分野(農業など)では忌避される傾向にある。採算をとるためには一般人に買わせないといけない。

だから本来ならプロが使うような殺虫剤や農薬が、普通にホームセンターとかで売られるようになってきているのだという。

プロがきちんとした知識の元、そうした薬剤を使用するのとは違って、素人が「効果抜群」の危険物を撒き散らすのかと思うとゾっとする。

プロでさえ普通に下水道へと有機リン剤を流している世の中ですから、なんとも言えませんがね。

まぁとりあえず、コマーシャルに騙されて「安心安全、しかも虫が一発で死にます!」とかに違和感なく飛び付くことのないようご注意ください。虫がさっと一吹き、一発で死ぬって異常ですから。タミフルで熱もウィルスも一瞬で治るとか、リレンザで本来増えるはずのウィルスが増えなくなるとか。自然本来では、原発規模の大きさの施設では到底取り出せないはずの、物凄い量の電力を賄えてしまったことがどういう結果を導いたか。


前置きも長けりゃ余談も長い(笑)


インフルエンザにかかる気がしない。なぜか、かかる気がしない。でも今回はかかってほしい。だって明日所長と一緒に鎌倉なんだもの。今の俺の気持ちは所長には向かっていない。もう少し時間をあけてから接するべきかと思い、今日はあえて一人で行動したのでありました。

んなもんだから、営業のT課長(Tさんとは別の人)にお願いをしてみた。「すみません、明日、予定がないようでしたら鎌倉行ってもらえませんか?」と。

Tさんのインフルエンザで代打となった所長。Tさんと一緒の鎌倉調査だったから楽しみだったのだけど、Tさん不在の今、本音を言うと一転してめんどくさくなったのだ(笑)時間をあけてから接するとかどうとかじゃなくて、今現在の俺の気持ちは、所長と会話するのが将来に渡って面倒だと感じているのです。ちなみに今日は二言三言しか会話していない。


T課長は「え、どうしたの。」と、改まってそんなお願いをするものだから聞いてきた。

「実は、最近の所長と気を合わせられる気がしなくて、少し間をあけたいんですよ」

T課長「あぁそうそう、聞こうかと思ってたんだよ。所長が留任するかどうか決まってなかった頃は、みんなの話を聞くスタンスというか、無駄にうるさいことはあまり言わなくなってきてよかったなーって思ってたんだけど。なんか留任決まったらちょっとおかしいよね。」

この人はいつも鋭い。たまに無駄に鋭い(笑)


残念ながらT課長には用事があった。いやはや。面倒コテッ!凹○

何が面倒って、この4ヶ月言い続けてきたことを、再度一から順を追って丁寧に説明していき、どこでねじれているのか観察し、相手がそこに気付けるよう相手の気が潰れないよう、お伺い立てていくことが激しく苦痛。万が一そこで修正されないようだと、あと一年もそれを続けるのかって。本当に勘弁して欲しい。俺のモチベーションがもたないわ。そういうことをするのは好きな人に対してだけにしてほしいわ。

所長は嫌いじゃない。でもそこまで好きでもない。ガチャガチャガチャポン!ってスイッチ切り替えないと、双方傷を負ってしまうだけの無意味な口論に発展しかねないから、スイッチを切り替えているだけ。

先鋭的な理論は好きだ。でも理論で繋がった仲は理論で破綻する。カネの切れ目が縁の切れ目、的な、理論や理屈や知識や、そういった普遍性の比較的高いものというのは、繋がるための踏み絵にはちょうど良くとも、永久的に繋がるための接合剤にはなりにくい。

何度もそういう経験をした。掲げた理想に人は寄ってくる。しかしそこに寄ってきた人は俺に寄ってきたのではなかった。俺の掲げた理想に寄ってきただけだった。

もちろん俺がそういう方向に持って行ってしまったのだけどね。結局そこで残った人でさえも、理論が繋がらなくなると途端に「あなたみたいな知り合いがいることを恥じる」とか言われる始末。

つまり人は感情で人を好きにも嫌いにもなる。しかし理論は人を裏切らない。理論に目覚しい変革が起きる場合もあるが、それだって修正可能な範囲だ。A理論はB理論ということに、研究の結果なりました。とかであれば、何の臆面も無く「B理論が正義なんだって!その理論はこれこれこうで、なるほど納得だわ!キャハハ!」とか言える。

本当にそうなのか?と疑問を持つ人も存在してくる。その人はC理論を正義だと唱える。自分もAやBじゃない気がしたけどCならスッキリするわ、って言えば、それで済む。理論が普遍であるという誤謬に酔いしれるのは構わないが、逆説的に原発の普遍性を立証しているようで笑える(苦笑)

理論は人を裏切らない。しかし人は人を裏切る。だから理論武装する。それでいいのかどうか、という悩みの結果、理論武装の在り方を問うたのが昨年初頭。いやもっと前からか。

そして震災で噴火・自爆!(笑)


話を戻して。

苦痛だけどタイミングは重要なので、明日は俺と所長にとって大切な日なのだろう。

その縁に逆らうことは様子見ではなく先送り。様子見と先送りは違う。先送りしてしまうと完全にタイミングを逸する。

俺の中でおまじないがあって、嫌だと思うことは「嫌」の度合いに応じて、しかし極力自然に(矛盾した表現だけど)回避しようとする。それで回避できない時は、前向きに縁があるのだと思って対応する。逆に言えば、縁がなければ回避できてしまうのだ。不思議と。

これは色々な面で使える。考え方や人間関係などに執着しないで済む。実際はそう上手くいかない場合があるのだけど、案外上手くいく時が多い。


例えば、恋人と別れることになる。俺は物凄く大好きで、どうしても別れることができないとする。そうしたときに、縁を試すのだ。

「俺は相手を大好きだ。だから縁がある。縁があるのだからここで手を離しても問題ない。必ず再度出会う。だから気兼ねなく別れることが出来る。」

まぁある種の思い込みなんだけどね。結果、再度出会うことが無いとしても、「あー出会えなかったな」って思える頃には別れをしっかりと受け止められている。受け止める時間を必要とする場合がほとんどだからだ。


もちろん手を離す時は苦しい。けど何度もやっているうちに、段々と苦しさが軽減される。なぜなら、縁がある人とは必ず出会うからだ。不思議でしょ?

逆に、縁が無い人とも必ず出会う。あれ?って思うよね(笑)

要するに、心の持ちようで再会は「ただの再会」にも「意味のある再会」にもなるということだ。

そうなると逆に心の持ちようで、別れも「ただの別れ」にも「意味のある別れ」にもなるのだ。「意味のある別れ」とは二人に必要な別れで、それを克服した先に再会があるのであれば、きっと今よりも二人は強く結ばれる。相手が別れを望むということがどういうことなのかわかってくる。

もし縁があり再会するならば、俺が前以上に成長していればいいだけだ。

ポジティブシンキング(笑)


この思考が発達していくと自分の限界に素直になれる。相手に良く思われたいために自分を演じる必要が無いのだ。厳密には相手に良く思われたいと多少は思っているのだけど、天秤にかけて「良く思われたい気持ち」と、「そのために飲まなければならない条件」の、どちらを選択することが俺にとって「ラク」かどうか、センスに磨きがかかってくる。限界がわかってくる。限界に素直になれる。

限界以上の事をしたって無意味。どうせすぐ失速する。限界に素直になると意気込まなくなり、結果として限界値の上限が上がってくる。無理に上限を上げても無駄。人は日々堕落していく。堕落していくことを許すことによって、逆に気負わなくなりのびのびと活動出来る。俺はそれが「ラク」だと気付いた。限界を上げるという表現には感銘を受けたけど、無理に上げるより先に堕落幅を大きく作っておくことで、逆方向に向く力が強くなるタイプもいるってことだ。

限界を無理に上げると、反動で大きな闇へと堕ちていく人もいるってことだ。


人によって自分にとっての「ラク」がどういう意味なのか異なるけど、俺の場合はまぁ俺さえ良ければいいのだ。うん鬼畜。俺が良いと思える会社にするべく今帆走している。俺が良いと思える会社を、みんなも良いと思ってくれるように、時に苦渋も飲むしコンパニオンにパンツを脱がされたりもする(笑)

全ては自分のために。

極論、自分以外どうだっていい。俺はそう思って生きている。しかし行動がどうなのかは知る人ぞ知る。思いと行動が同じじゃなきゃいけないなんて法律はない。ブログと行動、ブログと思い、思いと行動、思考と感情、俺とあなた。全部が違うのは当たり前の話だ。


話を大きく戻すと、嫌いなものは瞬間的に手を離すの。ダメだこれ、って。でも縁があるとどうにも離れないの。なんだこれ、って。

おそらく今日の朝礼での所長の言葉に違和感を感じた人は他にもいる。まだ小さい波紋を、小さいからと放置しておくと、そのうち大きな波紋となって全てを歪めてしまう。それはみんなにとっても、俺にとっても、所長にとっても、大きなマイナスだ。

将来成長するための大きなマイナスであるならいいのだけど、所長は1年で辞めていく。本当に辞めるのかどうか知らんけど。

時限があるのだから、可能な限り早い段階で所長職を引き継がせて、残った時間は「お疲れ様、所長。もう所長いなくてもいいけど、残り何ヶ月かあるから、給料泥棒なんて言わないしゆっくりしていってね。」ってやりたいわけなんですよ。

しかしこのままもし俺の読みが当たって大きなマイナスを被れば、俺たちにとってはその先に大きなプラスが存在しうるけど、所長にとっては大きなマイナスを覆せないまま終わってしまう可能性が高い。そこが明らかに、ナニガシさんや他の人とは違うところだ。

仮に、まだ俺マイナスだから辞めないよ、って次に発言したら、それは前所長と同じ穴の狢ということだ。あれほど嫌っていた前所長の末路に、同様自ら進んでいることに気付けるかどうか、俺たち以上に所長は真剣に考えるべきだろうと思う。

もし俺がサインを出してそこに自ら気付けるのであれば、きっとそれは所長のため、そしてみんなのためで、さらには俺のためなのだ。もし俺のサインに所長自らが気付かないのであれば、所長は会社と縁がなかったのだ。

所長と会社に縁がなかっただけで、俺たちはそのマイナスを糧に成長していく。そのマイナスは縁で、俺たちにとって必要だから存在しているのだ。


こうやって考えることが出来た。そんな俺と明日一緒に行動する所長は、きっと俺との間に何か縁があるのだ。

縁を試すために営業課長に嘘休み(インフルエンザを理由にしようと思った)を打診して、残念ながら逃れられなかった。寄る縁は素直に引くことだ。そうすれば絶対に間違いが起きない。

そして、もし俺と所長の話し合いが時期尚早だというのなら、縁は必ずインフルエンザを引き寄せる。そう考えるとインフルエンザもかわいいもんだ。

ま、単なる思い込み。思い込みはプラスに活かす、そうしてこそ生きる原動力になる。生きる原動力があるうちに、悲観的に準備をする。準備が足りなかったら縁は来ない。縁が来ないのは、次に大きく飛躍するため。だから常に今を生きる。それだけでもう俺にはお腹いっぱいなことに気付いた。

今まで偉そうに散々未来のためだどうだと言ってきたけど、ようやく言葉に出来そうだ。

俺は未来とかどうでも良かったんだ。未来のため、と言うことで救われていたのは俺で、俺は誰も救っていなかった。これからも誰も救わない。俺は俺さえ良ければそれで満足。俺さえ良いと思えるなら、世界が悪いと言っても満足でござる。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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縁のくだり (農民っぽいような)
2012-02-17 22:12:57
私もそういう思考ですね
縁があればまたどこかで繋がると思っています
もちろん逆も然りです

高校生のときにそれを感じて
生きているだけですばらしいと思ったのは
青春時代のいいおもひでぽろぽry
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Unknown (tutsi-note)
2012-02-19 16:09:07
縁と想いはすれ違うから面白い。
想いが全て叶ったらつまらない。
縁は非情だから素晴らしい。

それを理解出来ないから、人間は豊かな感情を持っている。
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