土の上にも三年

農への道

分かってしまうと分からないことが分からない(某さんの苦悩)

2013-08-07 02:42:03 | どうでも日記(雑記系)
こんな表題が以前にもあったような(笑)


俺の危惧するものは来なかった。8月2日は特に荒れることもなく通過した。

ただ、所長の先手が効いたからのような気もする。8月2日に荒れるはずだった予定は、前倒しに別の問題として調和された。これは別の機会に書けたら書こう。うっかりすると表題とは別の内容になっていくのは俺の悪い癖だ。


ただ今回の場合、関連性の強いうっかりだ。つまりうっかりして表題とは別の内容を目指す宣言をするわけです。表題を変えろよ、ってね(苦笑)

前記事にある想定してなかった荒れ方とは、某さんが荒れた(というよりも駄々をこねた)ことを指す。想定していた荒れ方とは、サスペンダーさんが荒れることを指していた。俺は遠目に聞いていただけなのだけど、いやはや某さんの俺様主義はついに所長やTさんにまで某さんの本質として認識されてきつつある。

俺にとっての某さんとは以下のような感じだ。某さんの学生時代の学びの場、野球で喩えてみる。


某さん本人の守備範囲内では、某さんはとても美しい姿で成立している(と某さんは認識してる)。なので1ミリでも守備範囲から外にボールが落下してくると、とにかく相手が捕るべきボールであることを主張しまくる。逆に言えば自分は取らないと宣言する。

某さん自身が、某さんの守備範囲内ではとても美しく成立してしまっているのがポイント。守備範囲を小さくして、自分の出来ることがイコール守備範囲であるとして、その範囲内のボールを全部取れる状態にしておけば、全部取れるのは当然だ。俺すげーしているように見えてしまう。

精神論にしたくはないが、時として守備範囲外にも走っていく姿勢があってこそ、相手だって守備範囲外に走り、こちらの取れないボールを取りに行く可能性が出てくる。正のフィードバック効果的なね

(精神論だけで語れば「頑張れば何とかなる」、みたいになってしまうけど、精神論だけをはとてもじゃないが好きにはなれない。力の出し惜しみをするパターンである、どうせ頑張ったって無意味だ、となってしまうことを避けたいために、精神論をスローガンにせず、たんたんと実行する姿勢を正のフィードバック効果として持ち合いたいところ)。

で、長く見ていると、それをパフォーマンスでやっているのかどうかなんて、段々と見え透いてきてしまう(自分の守備範囲内のボールを、あたかも守備範囲外のボールかのように見せて、俺は人一倍頑張っている、と見せる態度)。

さらにフォローし難いことに某さんは、長く見てなくても、場合によっては同じ会話の中で「さっきのは建前でした。本音はこうだ。」「え、この本音も建前ですけど何か?」みたいなことを言い出すからもはやコントレベル。

守備範囲内か守備範囲外か、本人が意識化できていない。守備範囲外のものは誰かに頼まないとならないけど、守備範囲内のものを守備範囲外だとかパフォーマンスするから、本来自分で取れるボールを、他の人が「取りましょうか?」って聞くわけだ。本人は取れるので丁重に断る。ところが、パフォーマンスの中に本当の守備範囲外も含まれている。だから二重三重に他の人が気を遣ってしまう。で最終的に、自分の脳内にしかない、取れるボール取れないボールの範囲を他人も理解してくれている、と勘違いをする。

その勘違いは時として相手との信頼関係をも覆す。もし信頼関係を覆す必要が出てしまったのなら、きちんと説明する必要がある。けれど守備範囲内と守備範囲外の意識化が出来ていないために、俺このボール取れないって言ってただろう?と、意味不明な切れ方をする。そんなこと言ってないのに。

こんな人、信頼出来ませんわ。取れるボールを取れないと言ったのに取って俺頑張ってるってアピールしたり、取れないボールを取れないと言わなかったくせにこう言うときは察して取りにくるのはお前だと言ったり。

まぁ思い込みでそうなってしまうのは人間誰しもあるだろう。だから思い込みに陥ってしまった場合は説明が必要。けど思い込み地獄から抜け出すのは容易ではなく説明も省かれる。自分はそんなつもりで言ったわけではない、とか、なんでそうやって変な受け止め方するのか、とか含め、もう支離滅裂に近い。

あなたが好きです。
→いや僕は申し訳ないけど君の気持ちを受け止められない。
→は?建前だけど?
→え!?そうなのね。ごめん、本音かと思った。
→は?本音は本音だけど、こっちの本音は別の場所にあるのになんで分からないの?
→言わなきゃ分からないじゃない。
→言ったらまた、こっちがあなたを好きだとかみたいに、いいように解釈するんでしょ?だから言わない。
→じゃぁ何が言いたいの?
→分からないの?バカなの?
→・・・

まじでこんなレベル。


原因の別の1つは、守備範囲外のボールに対しての自身の醜態が見えなくなっているからだろう。醜態なんて誰だって持っているのに、自分の醜態には気付かないまま相手の醜態を責める。(まぁ醜態がどうとかちっさい問題なんだけどね)

本人は、守備範囲外では自分なんてダメダメなんだ、と言う。しかしこれは、醜態っぽいものを晒すことで醜態を指摘されないようにする手段だ。結局はパフォーマンス。自分は気付いているよ、と言いたいのだろう。

ところが相手が守備範囲外でダメダメなんです、って言ったところで、そこが某さんの守備範囲内であれば、俺なら出来る、とか言い出す。つまり某さんの立ち位置からの某さん自身の守備範囲を、相手の立ち位置からの守備範囲とそっくり入れ替えて、俺がそこにいたら云々と妄想しだすわけですよ。

逆に言えば、相手の立ち位置からボールまでの距離が、某さんの守備範囲と入れ替えた結果守備範囲外であるなら、そうだよね、あれは取れないよね、と寛容でもある。この寛容さのおかげで多くの人は某さんの本質を見誤る。

この人は全て自分の守備範囲中心にしか思考していない。相手が自分だったら、でしか物事を見ていない。逆のケースである、自分が相手だったら、という部分は、謙虚な振りをして保身する。相手だって身を守りたい時があるにも関わらず、相手が身を守るのはダメだという。なぜなら俺がそこにいたら身を守らないから、という理由で。

相手の立場になって考えることが出来る部分もありながら、実はその部分とは相手の立場になった自分の守備範囲を重視しているだけ。相手の立場になった振りをした、自分の立場の押し売りだ。


物理的な、例えば野球のような守備範囲であれば、もしかしたら相手が捕るべきボールというものは存在するかもしれない。でも人間関係における守備範囲というのは物理的な尺度で測れない。自分の見えるボール以外にも、相手は相手で別のボールもフォローしたりフォロー出来る位置にいながら、某さんとの間に落下してくるボールを睨むわけだ。

相手が取れないのなら自分が取りに行くことも重要になってくるわけで、もし相手も自分も取れないなら、別の誰かに取りに行ってもらえばいいわけだ。自分と相手という狭い守備範囲にだけ、たった1つのイシュー(某さんにとっての問題点)が落ちてくるわけではない。某さんの気付かない2つ以上のボール(相手にとっての問題とか)が、某さんと別の誰かの間に今まさに落ちてきているのが普通で、別の誰かにしてみたら「おい、某さん、なんでそのボール取れないわけ?」って思われているかもしれないわけだ。

そのボールは別の誰かが取っている(取ろうとしている)わけだ。そうした相互の関係が、巡り巡ってみると、自分の取れるボールを取れない人が、自分の取れないボールを取れる人の取れないボールを取れたりしているわけだ。ややこしい言い回しだけど、ようはジャンケンみたいなもの。対立構造の中での勝敗や強弱しか見えなくなると、視野が点に近付いていくのだろう。

誤解の無いように補足するけど、ジャンケン構造を理解した上で、相手と対立的になることは何も問題ない。問題点を絞って、その問題に対する見解が対立的であることは当たり前のことだろう。

ジャンケン構造を理解していないのに対立構造しか見えていない某さんの視野は、点になっているように俺には思える。

対立構造だけで組織全体を捉えようとするから、あの人なら取れるのにおまえは取れないの?俺がそこにいたら取れるよ?みたいなことも言い出すんだよね。実は某さんの守備範囲はとても狭く歪で、ボロボロと大量のボールを守備範囲外では落としているにも関わらず、自分の守備範囲にしか視野がないものだから、守備範囲以外に大量のボールが落ちて行っていることに気付けていない。気付かないものだから、自分は自分の守備範囲をしっかり守っている、お前は本当に自分の守備範囲を守っているの?って本気で思っている。


「自分の分かっていること」が分かっていても、「自分の分かっていることを分からないこと」が分からない、のは往々にしてある。俺にだって当てはまり、実は某さんへの指摘は、俺自身への戒めでもある。つらつらと書いているけど、書いたことがある程度某さんを表現していたとしても、それは俺だから書けていることで、某さんは書けない。とても苦悩しているのだ。

なぜ自分には理解できるのに相手は理解できないのだろう?なぜ相手の言っていることは間違っているように聞こえるのだろう?なぜこんなに苦しいのだろう?これらが、実は所長に向かっている。某は所長に対して、置いていかないで、と懇願しているのだろう。(ここは深い部分なのでそのうち書けたら)

苦しみの答えのいくつかに、俺は触れられるようになった気がする。気がするだけかもしれないけどね。仮に気のせいじゃなくても、まだいくつかに触れられるようになっただけに過ぎないけども。

分かってしまうと分からないことが分からなくなる。分からない、ということがどれだけ大事なことか。分からないことによって、分からない人の気持ちが分かる。にもかかわらず、分からない某さんは、相手の分からないという気持ちを否定してしまう。

時の解決してくれる出会い(感情とかとの出会いも含めて)は、出会ったことを過去へと押し流す。出会った頃の感動は、出会ったときにしか感じられない。同様に今の苦しみは今しか感じることが出来ない。どれだけ記憶が鮮明であってもリアルを越えることはない。思い出すと苦しいこと、悲しいことがあるとして、それらがどれだけ鮮明であったとしても、今の自分が感じることだ。そのくらい時の流れは偉大だ。過去には絶対に戻れない。苦しみも悲しみも、喜びも楽しさも。

それなのに、なぜ苦しいことを拒否する必要があるだろうか。なぜ相手の苦しんでいる様を嘲笑うことが出来るだろうか。相手の苦しみは、過去の自分の苦しみかもしれないし、未来の自分の苦しみかもしれない。そんなときに手を差し伸べてくれる人・物・風景・音・・・いや、手は差し伸べてくれない。自分から触れなければ。


俺としては、某さんに声を掛けたい衝動もある。けれども俺はそうしない。俺の中でもっと経験しなければならないものがあって、もしここで某さんに中途半端な声を掛けたとしても、某さんの支離滅裂な思考をしっかりと受け止めることが出来ないだろう。

ボールは1つだけが落ちてくるわけじゃない。組織に俺と某さんだけがいるわけでもない。声を掛け合える同士が声を掛け合い、全員が何らかの形でボールを追いかければいいだろう。

昔は某さんに対して批判しか出てこなかった。今も批判は溢れんばかりに出てくる。昔は批判を正面からぶつけて、解決するか消滅するかで考えていた。今もそう考えてしまうときはある。だって、手を差し伸べようとしてくれる人がいるのに、某さんはまずそこを否定するから。致命的なんですよ・・・

きっとこんな俺も、もっと経験を積めば何か別の視点が生まれるのかもしれない。今分からないことを大事にしながら、分かってしまった事も出来てきた今、某さんを否定することなく批判をどう前向きなものへと結びつけるのかは、とても大事なことのように思える。


何とか表題を変えずに、うっかりしたままテーマを絞れたかしら?文章を書くって難しいな・・・

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