たまたま知人に、これこれこういう理由でとあるブログを探しているのだけど、あ、違う。理由は言ってないや。理由はそもそも分からん(笑)
ブログを探しているのだけど、ブックマークで残ってない?と訊ねていた。たまたま訊ねた時は残ってなくて、たまたま今日メールがきてふとした拍子に見つけたよ、と。
大昔、確か俺が28歳くらいのころだから7年くらい前だったように思う。オンラインゲームでコミュニティを作った。その時のコンセプトは、人は善(天使、という表現だったけど)ではないからこそ善を目指す努力が大切ではないか?というものだったと記憶している。
物は言い様で、当時の俺は善悪の絶対性に絆されていた。今振り返る切っ掛けなのかと感慨深くブックマークを開いてみた。
人は善というものをどのように捉えるのだろう。究極的には自分の思考が善ではないかと思える。それを間違いだとは思わない。ただし、間違いではないものが正しいわけではないことに気付き始めたのがこれまた数年前。
自分の世界観を持ち、他人と自分とを明確に線引きし、自分の思っている世界観だってこの世に存在している掛け替えのないものだと思い、この小さな世界観を大切にしたいと思った。でも実は、他人の世界観を容認しようとするからこそ自分の世界観の善性とでも言うのかしら、自分が善であるというおごりから遠ざかろうとして、どこかにある概念にその善性を擦り付けて、その概念の概念性に従っているだけで、決して自分を絶対視しているわけではない、と言い訳していたのかも。
善悪というものに触れようとすると、綱引きと大差ない感覚に見舞われる。自分が多数派であろうと少数派であろうと、綱引きに勝利してこその善悪だ。勝利がどうのとか関係ない、っていう思考は、もしかしたら善悪という概念から逃げようとしている思考なのかもしれない。
善とか悪とか考えてないよ、という思考停止。善とか悪とか考えてないのに、善とか悪とか考えてないよ、という思考は生まれないだろう。はっきりと自分は善だと言えばいい。それは悪と変わらない、と認識すればいい。
そう、薄々感じていたのだろうと思う。善であることを強く認識すると否定されることに。本当は否定されたくないのに、嘯(うそぶ)いていたことに。自分は善という概念に向かっているだけで、善そのものではないのだと逃げていたことに。
そうして、どんどん自分は自分の理想とする善とやらに向かっているつもりになって、にもかかわらず周囲からはどんどん人がいなくなった。ある意味、自己満足できればそれでもいいと思えば、自己完結力を手にすれば満足。不都合で邪魔な概念なんて排除されてしまえば、自分はそれでいいだろう。でも逃げていても満足感は生まれなかった。今でも逃げる癖は抜けていない。
もうね、苦しい状態を楽しめ、とかどういう精神論だと(笑)
苦しいのは苦しい。代替される何かが目的の中にあるから苦しくないわけで、それは苦しんでいないのではないかと。苦しいと感じているのは、前述したように自分の善性を肯定することによる疎外感を否定するための、言うなれば保身ではないかと。
善、とか、正しい、とかって、思いっきり発言してもいいのかもしれない。自分は正しい、と。もし仮に何か善なる概念に寄りかかるくらいなら、って前提だけどね。それは概念に自己を投影させた、自己肯定のための手段なのかもしれない。本当の自己肯定って何だろうねぇ。
自分はこれでいい、と最後には思っていい。最後をどこに作るかも自分で決めていい。おのずと自分は自分になるしかなくなる。逃げられなくなった時に、たぶんとても素晴らしい世界が待っているのだろう。それまでは全力で逃げているのだということを強く自分に言い聞かせたい。
言い聞かせて言うことを聞くなら楽なのにねぇー。
ブログを探しているのだけど、ブックマークで残ってない?と訊ねていた。たまたま訊ねた時は残ってなくて、たまたま今日メールがきてふとした拍子に見つけたよ、と。
大昔、確か俺が28歳くらいのころだから7年くらい前だったように思う。オンラインゲームでコミュニティを作った。その時のコンセプトは、人は善(天使、という表現だったけど)ではないからこそ善を目指す努力が大切ではないか?というものだったと記憶している。
物は言い様で、当時の俺は善悪の絶対性に絆されていた。今振り返る切っ掛けなのかと感慨深くブックマークを開いてみた。
人は善というものをどのように捉えるのだろう。究極的には自分の思考が善ではないかと思える。それを間違いだとは思わない。ただし、間違いではないものが正しいわけではないことに気付き始めたのがこれまた数年前。
自分の世界観を持ち、他人と自分とを明確に線引きし、自分の思っている世界観だってこの世に存在している掛け替えのないものだと思い、この小さな世界観を大切にしたいと思った。でも実は、他人の世界観を容認しようとするからこそ自分の世界観の善性とでも言うのかしら、自分が善であるというおごりから遠ざかろうとして、どこかにある概念にその善性を擦り付けて、その概念の概念性に従っているだけで、決して自分を絶対視しているわけではない、と言い訳していたのかも。
善悪というものに触れようとすると、綱引きと大差ない感覚に見舞われる。自分が多数派であろうと少数派であろうと、綱引きに勝利してこその善悪だ。勝利がどうのとか関係ない、っていう思考は、もしかしたら善悪という概念から逃げようとしている思考なのかもしれない。
善とか悪とか考えてないよ、という思考停止。善とか悪とか考えてないのに、善とか悪とか考えてないよ、という思考は生まれないだろう。はっきりと自分は善だと言えばいい。それは悪と変わらない、と認識すればいい。
そう、薄々感じていたのだろうと思う。善であることを強く認識すると否定されることに。本当は否定されたくないのに、嘯(うそぶ)いていたことに。自分は善という概念に向かっているだけで、善そのものではないのだと逃げていたことに。
そうして、どんどん自分は自分の理想とする善とやらに向かっているつもりになって、にもかかわらず周囲からはどんどん人がいなくなった。ある意味、自己満足できればそれでもいいと思えば、自己完結力を手にすれば満足。不都合で邪魔な概念なんて排除されてしまえば、自分はそれでいいだろう。でも逃げていても満足感は生まれなかった。今でも逃げる癖は抜けていない。
もうね、苦しい状態を楽しめ、とかどういう精神論だと(笑)
苦しいのは苦しい。代替される何かが目的の中にあるから苦しくないわけで、それは苦しんでいないのではないかと。苦しいと感じているのは、前述したように自分の善性を肯定することによる疎外感を否定するための、言うなれば保身ではないかと。
善、とか、正しい、とかって、思いっきり発言してもいいのかもしれない。自分は正しい、と。もし仮に何か善なる概念に寄りかかるくらいなら、って前提だけどね。それは概念に自己を投影させた、自己肯定のための手段なのかもしれない。本当の自己肯定って何だろうねぇ。
自分はこれでいい、と最後には思っていい。最後をどこに作るかも自分で決めていい。おのずと自分は自分になるしかなくなる。逃げられなくなった時に、たぶんとても素晴らしい世界が待っているのだろう。それまでは全力で逃げているのだということを強く自分に言い聞かせたい。
言い聞かせて言うことを聞くなら楽なのにねぇー。
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