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土の上にも三年

農への道

あらゆるシーンにおいて準備不足

2011-06-28 07:48:22 | 考えるフリ日記(哲学系)
最近それを痛感します。

たぶん震災後から自分の中にソレはあったんだろうとは思いますが、それを痛感しだしたのはほんと最近のことです。

そこには選択肢があって、いくつかあるんだと思いますが、ざっくり考えれば“逃げる”か“立ち向かう”か。

人間の心理は複雑で、感情が先走ることもあれば理性がのしかかることもあると思います。

毎日の問題は山積で、考えたり行動したりしている中で“あらゆるシーンにおいて準備不足”なわけです。

平時だったら良かったんです。

まだ“事が起きる前”であるなら。

しかしいざ起きてしまった後になると“準備不足でした”という事実が物凄い足枷となります。なりました。

自分なりに起きてない時点から警鐘を鳴らし、まだ地道な活動で許される良き時節だったが故にちんたらやってました。

それがある日突然覆された。


なるほど。

誰も準備万端な人なんていないんだな。

誰もが準備不足の中で起きてしまった事実の中で出来る精一杯をやる、それだけなんだな。

さらっと書いたけど、思うところがあってまだこのままでいるつもり。

今回が人生で最終最後の“出来事”かもしれないけれど、本当はそうであって欲しいけど、同じようにボクが現時点でやっていることも今しか出来ない最終最後の事であるのです。

ボクがボクで背を向けて生きたとしても、背を向けた反対側とは戦います。

正直、どっちも放棄したいんですけどね。

だから最小構成で生きたい、なんて願望が出るんです。


お金がネックになっている問題が多くなってきました。

うちじゃないですよ。

お金がネックでがんじがらめになる問題はたくさんあって、これからもたくさんあるはずで、そこから隔絶されても生きていくためには全員がそっちに行ってはならなくて、大多数がお金の社会で生きて行く中で自分がそこから離れ生きることは。

果たして“逃げ”なのか“挑戦”なのか。

答えは出ないけど答えは出てる。

答えを出さないと走れない。

盲信しないと走れないんです。

それはボクの中では挑戦なのです。


ただ黙って走っていれば誰を傷つけることも無かったでしょうが、ボクの中でのブログの位置づけって、現実(って表現もおかしいけど)では誰にも言わないようなことを書いたりする場所なので致し方ないのです。

まぁそもそも傷ついた傷つかないってのもボクの勝手な思い込みで、世の中そんなにボクに対して興味を持っている人なんて多く無い(笑)

むしろ興味を持ってくれている(た)人たちをバッサバッサと切り捨てて生きているボクはどうなんだ?って自問自答もあります。

何度やっても同じことを繰り返すのは原因がある。

そこが理解出来なきゃ同じことを繰り返す。

だから行き着くところまで進んでみる。

繰り返す相手すらいなくなったら繰り返しようがないだろう。


とは言っても、仲良くしてくれる人たちはボクを慕ってくれる。

ボクも慕う。

そうじゃないパターンでいつもこける。

自分の“核”となる部分を超前向きに捉えて他の部分を超大目に見てくれる人なんて、実はそんなにたくさんいない。

実は、っていう程のものでもないね、でも、それが逆の「世の中間違っている」に繋がるとは限らない。

あれなんだかよく分からなくなってきた(笑)


人間痛い目見ないと分からない。

ボクも痛い目見ないと分からない。

それからじゃ遅いんだよ、っていう主張と。

それからがスタートだよ、っていう主張。

ボクは一足も二足も飛び抜けて、脳みそがワープして、どうやら後者のスタート待ちをしているようです。

だから最初から「野菜食べても大丈夫だよ」なんだと思います。

食べた人が大丈夫なんじゃない。

食べた人が犠牲になって後世に伝わるから大丈夫だよ、っていう意味なんだと思う。

それをそのまま言うのではなく、死期近い末期患者に「いや大丈夫、絶対助かるから」というような根拠のない話。

本当にそれが正しいの?諦めるんじゃなくて出来ることを最後までやるのが人間なんじゃないの?というのが意識の高い人達で。

いや、もう十分便利な世の中を堪能させてもらったよ、だからこれは便利さのツケなんだ、その分人間は数多くを破壊してきたんだから甘んじて受けないとダメじゃないのか?というのが変態な人たち。

ボクは“この問題”に関しては後者。


なんだよね、最初から諦めてるんじゃんね。

そりゃぁ世の中と噛み合わないわ。

いやむしろ世の中の諦めに似た“ガンバロウニッポン”と方向性は一緒か?

日本人の無常観、ねぇ。

「まぁなるようになってから残った人だけでやり直そうよ」

これは一筋縄ではいかないですね。


朝からそんなことをボヤきつつ。

どうすればこの緊縛した世の中が変わるかという部分を、究極的な偏りでなければ無理、と切り捨て、

そこに辿り着けるように日々過ごし、辿り着けなければ未来はないと吐き捨て、

うん

やめよう。

どこで折り合いがつくのか、つかないのか、偏ったまま究極的な場所まで走り切れるのか、たった一度の人生だ。

間違ったな、と思い省みるのも大切だけど、間違ってない部分と間違っている部分が表裏一体なのが世の中の殆どで、「あちらを立てればこちらが立たず」誰だって利害を持っていて、自分の利が誰かの害なんだ。

自分が利益を得たら、それは誰かの損失で、だから利益を分配したい。

何も利益を得ていないからと言って、誰かの損失を願わないように生きていきたい。

ようするに自分の利益や本望に叶うように人は生きていく。

けれど、他人を踏み潰す生き方ではダメ。

うーん・・・そうするとどうやっても「個・人間として生きて行くのが最良」ってなっちゃうんだけどなぁ・・・


このブログはボクの脳内のことで、さらけ出せば「お前そんなこと考えてるの?ひどいヤツだな」となることもあるだろう。

でも関係ない。

それをどうやって実社会で展開するかが大事で、ブログはブログ。

まぁそう切り分けられるものでもないけどね、同じ人が演じているんだからねブログも実社会も。


いろいろ悶着起こすこともありますわな。

記事書きながら脳内でも文章が点々と転々としているので、文章としては相変わらず補間しないと読みにくくなってそうだけど。

みんながみんな何か行動した集合体が日本であり地球であり。

そのベクトルが未来へ向かう。

そのベクトルの一部をボクらは選択出来る。

選択しても未来は変わらないかもしれないけど、選択することは出来るんだと思う。

選択に正しいも間違いもないと思います。

だからボクはボクの選択をするしかない。

誰かは誰かの選択をするしかない。

選択をしないで行動もしないで文句を言うのだけはやめようかな?とは思うものの。

でも!

ブログはブログ。

そこは譲れない。

選択せず行動せず文句だけ言ってるような格好になったっていいと思う。

別に誰かの評価が欲しくて書いてるわけでも、自分の行動全てを報告するために書いてるわけでもないですから。

そんなこんなで、またそのうち方向性も変わるかもしれないです。

そう大きくは変わらないと思うけど、微調整している間にあらぬ方向に進むことってよくある話。それが柔軟なのか、自分が固まってないからなのかは分かりません。

いつまでブログやるのか分からないものの、あーバカな人間がまたバカな事言ってるやってる、みたいな感じで行きます。


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