相手を思いやる、という行為はどこから生まれてくるのだろう。何となくだけど、自分が相手だったら、を想像することで生まれそうな気がする。
カウンセリングサービス心理学講座「信頼関係の築き方~信頼の橋を架けよう~
こちらでは、
1,自己開示
2,自分自身を信頼する
3,相手に関心を持つ・相手の大切なものを大切にする
ことが著者の考えるトップ3だと書かれてある。読んでみて全体的に違和感はない。
某さんのよく言う言葉に、仲良しクラブじゃダメだ、という発言がある。いやそんなことをいつも発言しているのではなくて、俺の重要だと思うポイントである、相手と議論するタイミングで出てくる発言だ。自分の考えを述べる時に、自分の考えの弱点が顕在化することはままあることで、その後に自分の考えを検証する行為が出来るかどうかが、自身の考え方を広げられるかどうかに掛かっている。
(考え方を広げるには想像力が必要だと言う事。想像力は全てにおいて、人間の持ち得る至高の芸術性を表現しうる。)
一生懸命に生きている人ほど考え方も一生懸命だ。でも自分の考え方に一生懸命な人が全て一生懸命に生きているわけではない。一生懸命に生きる、という言葉が何を意味するのかが大事で、生きることの意味を想像力はそのまま教えてくれる。
某さんは一生懸命に生きている。考え方も一生懸命だ。ところが一生懸命とは何か?というクダラナイ想像をしなかったために、自身の一生懸命に満足してしまった。出発点はこんなところだろう。一生懸命に生きていることを否定してくれる人なんてそう居ない。自分の一生懸命さを否定してくれる人がどれだけ大切な人かは、否定されてのちに否定してきた相手を呪うくらい失望して感じることもある。
自分のことを上手く導いてくれる人というのは、上手く否定してくれる人ということだろう。この前向きな否定という出会いに恵まれなかった。(自身の想像力があれば否定は全て前向きに感じられ、想像力がないのなら、導いてくれる否定以外は後ろ向きに感じることだろう。導いてくれる否定をも後ろ向きに感じてしまうのが某さんで、とても繊細で幼稚な精神性を保有するに至った)
大抵の場合、誰しも一度は出会っていると思うんだよね、こういう人に。嫌いな相手だったり憎い相手だったり。自分のことを上手く導いてくれる人ともすでに出会っている。ただ残念なことに、導いてくれる人(前段落の括弧内のように肯定的な否定に出会うのは自分の想像力次第)に出会った瞬間には気付けないことが多いのだろう。
嫌い・憎い相手が何を教えてくれているのか、と想像するのは容易ではない。どんなことからも学べることがある、という視点が大事で、この視点が想像力なのかもしれない。上記にあるトップ3の内容を見てみよう。
1,自己開示
2,自分自身を信頼する
3,相手に関心を持つ・相手の大切なものを大切にする
どこにも相手がどうたらこうたらと書いて無い。自分がどうするかは、相手を嫌いであろうと憎かろうと好きであろうと導いてくれそうだと思おうと、変わらないということだ。
自分にとっての損得は大事だ。俺は他人のことなんて考える必要無い、という意識にいることが多い。でも多くの信頼関係を得たように思える。何でだろう。自分のことを中心に考え困っている人に手を差し伸べるし、悩んでいる人の話を聞く。やることは変わらない。自分のことを中心に考えていようと他人のことを中心に考えていようと。どちらであろうとやることが変わらないのなら、自分のことを目一杯考えたほうがいいじゃない。
自分にとっての損得を、生命的な本能として捉え、そこを否定しないことによって第一段階を通過。人間は本能を持っているものの、本能のまま生きてしまえば人間ではないと想像して第二段階。人間らしさとは何かを思考して理想人間像を求め、また現実に目を向けると愛すべき隣人がたくさんいる。ここが第三段階。いまここ。ここから先はまだ未踏。楽しみ。
ある一線を越えた人(表層的にしか見れないものの、上記のサイトの方とか)というのは感謝するということの難しさを知る。難しいからこそ常に意識する。簡単に、俺は周囲に感謝している、というような薄っぺらな感謝は、むしろ自己の成長を妨げる。なぜ感謝しなきゃいけないのか、こんなに感謝するには値しない世の中なのに、というような思考が最初に必要だ。
上記の方の別サイト(同じサイトか?)にも感謝についての記述がある。読んだ人は、そうか、感謝って大事なんだな、って思うかもしれない。でもそれは止めよう。人から聞いた、感謝が大事、なんていう発言は、たぶん成長を妨げると思う。
思うに、子供のころに、感謝が大事だと言われながら、自我との葛藤の中で相手を大事にしない行為をすることに意味があるのだろう。相手を大事にしなくても生きて行ける、と一時的に思うことがとても大事なのだろう。そこから先にいくつも分かれ道はありそうだが、子育てを体験中の俺としてはそう感じる。俺は自分の子供たちが30歳までにある程度の成長をしてくれれば良いと思っている。1桁代や10代はむしろ好き勝手生きてみるべき期間だ。
当然だけど親や周囲の大人はサポートしなきゃいけない。好き勝手に生きさせてみながら(失敗させながら)叱ることだ。即効性の高い感謝の気持ちの復唱を、唱和させるような真似しちゃいけないわけだ。仮に上っ面の感謝を唱和しながら生きている人が某さんだとしたなら、40歳半ば過ぎの彼に対して周囲の出来ることは、失敗させることなのだ。
しかし残念なことに、多くの人は某さんの無難性とも言うべき丸まり方を求めてしまう。某さんはバカだけどバカじゃない。周囲の期待だって分かっている。だから無難に丸まろうと無理をする。ここだけを見たら確かに彼は大昔の所長(機会があったら書きたい)並みに苦しんでいるはずだ。
年齢的には成長の余白はもう僅かかもしれない。成長した頃には寿命が尽きてしまうかもしれない。でも、某さんがどれだけ苦悩しているかを想像することが周囲にとっては大事で、その苦悩を十分考慮しても尚、苦悩の方向へと嫌がらせと言わんばかりに導くことが一つの方法なのではなかろうか。
別の視点を持ってみる。所長は、ここまでやったら後は某君次第だよ、と言う(又聞き)。それも良いだろうね。超越的な愛、というのかねぇ。所長がどれだけ某さんを大事にしているかを思うと、涙ぐましい。某さんがどれだけ所長に甘えたいのかも想像するに哀しげだ。
この2人だけではもう解決が困難なほどにこじれてしまった。俺は待とう。そして動こう。動きながら待とう。精一杯の想像力を供して、その瞬間に必要なことをやっていこう、そう思う。余談だね。
最後に無理やりまとめると、成功体験しか持ってない人には失敗体験が必要で、失敗体験しか持ってない人には成功体験が必要なのだ。感謝することがどれだけ大切かを意識化出来る人は、それだけで失敗体験者であることが示唆される。成功のみの体験者に感謝が大事だと言ったところで、知識的な返事で終わってしまう。うん、大事だよね、という同じ返事であっても中身が違う。感謝することの意味を意識化出来るかどうかが大事。感謝が大事ということを、なぜ大事か意識化できないのに思い込むと、想像力を遮ってしまうわけだ。
知識的・記憶的な返事や会話ではなく、どれだけ知識が劣っていようとも記憶がすれ違っていようとも思い切り自己を表現しようとする人は成長の余地がある。我が家では子供たちに思い切り自己表現をさせた上で、否定しないように否定している。上記の言葉を借りれば導いている。導けているかどうかは微妙だけど。
そんな観点からすると某さんには可能性がある。でも残念ながら、Tさんでさえも(俺は数年前に諦めた)某さんの年齢的な成長の余地にTさん自身が手を焼く。某さんの手を焼くことが本質的には大事なんだけど、もうね、社会に放り込まれると有象無象の強者がのしりと歩き回っているわけで、某さんの次期所長という肩書きに群がるバカとかが、そのバカにとって保身的な進言をしたりするわけで、こうなってくるとそれもまた人生、という達観も必要かとすら思えてくる(苦笑)
子供は失敗させよう。子供のまま大人になってしまった大人も許される限りは失敗させよう。もし失敗が許されない状況になってしまった大人がいたとしたら、周囲が優しくサポートしてあげよう。時に調整役はとても重要なポジションだ。
カウンセリングサービス心理学講座「信頼関係の築き方~信頼の橋を架けよう~
こちらでは、
1,自己開示
2,自分自身を信頼する
3,相手に関心を持つ・相手の大切なものを大切にする
ことが著者の考えるトップ3だと書かれてある。読んでみて全体的に違和感はない。
某さんのよく言う言葉に、仲良しクラブじゃダメだ、という発言がある。いやそんなことをいつも発言しているのではなくて、俺の重要だと思うポイントである、相手と議論するタイミングで出てくる発言だ。自分の考えを述べる時に、自分の考えの弱点が顕在化することはままあることで、その後に自分の考えを検証する行為が出来るかどうかが、自身の考え方を広げられるかどうかに掛かっている。
(考え方を広げるには想像力が必要だと言う事。想像力は全てにおいて、人間の持ち得る至高の芸術性を表現しうる。)
一生懸命に生きている人ほど考え方も一生懸命だ。でも自分の考え方に一生懸命な人が全て一生懸命に生きているわけではない。一生懸命に生きる、という言葉が何を意味するのかが大事で、生きることの意味を想像力はそのまま教えてくれる。
某さんは一生懸命に生きている。考え方も一生懸命だ。ところが一生懸命とは何か?というクダラナイ想像をしなかったために、自身の一生懸命に満足してしまった。出発点はこんなところだろう。一生懸命に生きていることを否定してくれる人なんてそう居ない。自分の一生懸命さを否定してくれる人がどれだけ大切な人かは、否定されてのちに否定してきた相手を呪うくらい失望して感じることもある。
自分のことを上手く導いてくれる人というのは、上手く否定してくれる人ということだろう。この前向きな否定という出会いに恵まれなかった。(自身の想像力があれば否定は全て前向きに感じられ、想像力がないのなら、導いてくれる否定以外は後ろ向きに感じることだろう。導いてくれる否定をも後ろ向きに感じてしまうのが某さんで、とても繊細で幼稚な精神性を保有するに至った)
大抵の場合、誰しも一度は出会っていると思うんだよね、こういう人に。嫌いな相手だったり憎い相手だったり。自分のことを上手く導いてくれる人ともすでに出会っている。ただ残念なことに、導いてくれる人(前段落の括弧内のように肯定的な否定に出会うのは自分の想像力次第)に出会った瞬間には気付けないことが多いのだろう。
嫌い・憎い相手が何を教えてくれているのか、と想像するのは容易ではない。どんなことからも学べることがある、という視点が大事で、この視点が想像力なのかもしれない。上記にあるトップ3の内容を見てみよう。
1,自己開示
2,自分自身を信頼する
3,相手に関心を持つ・相手の大切なものを大切にする
どこにも相手がどうたらこうたらと書いて無い。自分がどうするかは、相手を嫌いであろうと憎かろうと好きであろうと導いてくれそうだと思おうと、変わらないということだ。
自分にとっての損得は大事だ。俺は他人のことなんて考える必要無い、という意識にいることが多い。でも多くの信頼関係を得たように思える。何でだろう。自分のことを中心に考え困っている人に手を差し伸べるし、悩んでいる人の話を聞く。やることは変わらない。自分のことを中心に考えていようと他人のことを中心に考えていようと。どちらであろうとやることが変わらないのなら、自分のことを目一杯考えたほうがいいじゃない。
自分にとっての損得を、生命的な本能として捉え、そこを否定しないことによって第一段階を通過。人間は本能を持っているものの、本能のまま生きてしまえば人間ではないと想像して第二段階。人間らしさとは何かを思考して理想人間像を求め、また現実に目を向けると愛すべき隣人がたくさんいる。ここが第三段階。いまここ。ここから先はまだ未踏。楽しみ。
ある一線を越えた人(表層的にしか見れないものの、上記のサイトの方とか)というのは感謝するということの難しさを知る。難しいからこそ常に意識する。簡単に、俺は周囲に感謝している、というような薄っぺらな感謝は、むしろ自己の成長を妨げる。なぜ感謝しなきゃいけないのか、こんなに感謝するには値しない世の中なのに、というような思考が最初に必要だ。
上記の方の別サイト(同じサイトか?)にも感謝についての記述がある。読んだ人は、そうか、感謝って大事なんだな、って思うかもしれない。でもそれは止めよう。人から聞いた、感謝が大事、なんていう発言は、たぶん成長を妨げると思う。
思うに、子供のころに、感謝が大事だと言われながら、自我との葛藤の中で相手を大事にしない行為をすることに意味があるのだろう。相手を大事にしなくても生きて行ける、と一時的に思うことがとても大事なのだろう。そこから先にいくつも分かれ道はありそうだが、子育てを体験中の俺としてはそう感じる。俺は自分の子供たちが30歳までにある程度の成長をしてくれれば良いと思っている。1桁代や10代はむしろ好き勝手生きてみるべき期間だ。
当然だけど親や周囲の大人はサポートしなきゃいけない。好き勝手に生きさせてみながら(失敗させながら)叱ることだ。即効性の高い感謝の気持ちの復唱を、唱和させるような真似しちゃいけないわけだ。仮に上っ面の感謝を唱和しながら生きている人が某さんだとしたなら、40歳半ば過ぎの彼に対して周囲の出来ることは、失敗させることなのだ。
しかし残念なことに、多くの人は某さんの無難性とも言うべき丸まり方を求めてしまう。某さんはバカだけどバカじゃない。周囲の期待だって分かっている。だから無難に丸まろうと無理をする。ここだけを見たら確かに彼は大昔の所長(機会があったら書きたい)並みに苦しんでいるはずだ。
年齢的には成長の余白はもう僅かかもしれない。成長した頃には寿命が尽きてしまうかもしれない。でも、某さんがどれだけ苦悩しているかを想像することが周囲にとっては大事で、その苦悩を十分考慮しても尚、苦悩の方向へと嫌がらせと言わんばかりに導くことが一つの方法なのではなかろうか。
別の視点を持ってみる。所長は、ここまでやったら後は某君次第だよ、と言う(又聞き)。それも良いだろうね。超越的な愛、というのかねぇ。所長がどれだけ某さんを大事にしているかを思うと、涙ぐましい。某さんがどれだけ所長に甘えたいのかも想像するに哀しげだ。
この2人だけではもう解決が困難なほどにこじれてしまった。俺は待とう。そして動こう。動きながら待とう。精一杯の想像力を供して、その瞬間に必要なことをやっていこう、そう思う。余談だね。
最後に無理やりまとめると、成功体験しか持ってない人には失敗体験が必要で、失敗体験しか持ってない人には成功体験が必要なのだ。感謝することがどれだけ大切かを意識化出来る人は、それだけで失敗体験者であることが示唆される。成功のみの体験者に感謝が大事だと言ったところで、知識的な返事で終わってしまう。うん、大事だよね、という同じ返事であっても中身が違う。感謝することの意味を意識化出来るかどうかが大事。感謝が大事ということを、なぜ大事か意識化できないのに思い込むと、想像力を遮ってしまうわけだ。
知識的・記憶的な返事や会話ではなく、どれだけ知識が劣っていようとも記憶がすれ違っていようとも思い切り自己を表現しようとする人は成長の余地がある。我が家では子供たちに思い切り自己表現をさせた上で、否定しないように否定している。上記の言葉を借りれば導いている。導けているかどうかは微妙だけど。
そんな観点からすると某さんには可能性がある。でも残念ながら、Tさんでさえも(俺は数年前に諦めた)某さんの年齢的な成長の余地にTさん自身が手を焼く。某さんの手を焼くことが本質的には大事なんだけど、もうね、社会に放り込まれると有象無象の強者がのしりと歩き回っているわけで、某さんの次期所長という肩書きに群がるバカとかが、そのバカにとって保身的な進言をしたりするわけで、こうなってくるとそれもまた人生、という達観も必要かとすら思えてくる(苦笑)
子供は失敗させよう。子供のまま大人になってしまった大人も許される限りは失敗させよう。もし失敗が許されない状況になってしまった大人がいたとしたら、周囲が優しくサポートしてあげよう。時に調整役はとても重要なポジションだ。
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