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土の上にも三年

農への道

7月31日

2012-05-17 21:34:45 | どうでも日記(雑記系)
只管打座。

本当の意味での無心がどれだけ難しいか。「考えない」のではない。「心が無い」のでもない。

自分に拘らない。近い。でもまだ違う。

そもそもこんな記事を書かない。もっと近い。でも遠退いた。


俯瞰と宇宙的中心地と、その間にあるものが無いという事実と、、、

明滅している電気的な何かは電気的な明滅が作り出した。トートロジー、自己言及的世界。

実在と観念がソレだ。互いは互いを言及しており、ゆえに実在も観念も同じものを指す。

その区別を知りながら同一視も出来る。そのために行うべき矛盾的な、非自己言及的自己言及。

メビウスの輪のスタートという実在しない観念に、観念的なスタートを実在させる「ある」という言及。

言い表しようのない只管打座。

宗教家じゃないけどせめて区別したい。


しかしこの「区別したい」というものが何なのか、だ。言い切ったらそこで全ては終わる。ウロボロスは自らの頭を呑み込んだ時点で消滅する。

つまり実在と観念の同一視は全ての無概念化。本来は、人間も自然の一部として、原発も自然的存在で、人類がそれに滅ぼされるのは単なる地球史上の「現象」だ。

人間が滅びるのも恐竜が滅びたのも、いわば同じなのだ。実在が観念に先んじるのでも観念が実在に先んじるのでも無い、ただ宇宙の中にある「ある」という、、、

宇宙の端は「あり」そして「ない」どちらも正しく、正しくない。ただあるのは人間の思い込み。全ての人類は孫悟空という猿から、一秒たりとも進化していないのだ。

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