原発はひと度事故を起こすと大変なことになります。
だからボクは原発に反対しています。
でも原発は、ボクらの電気だけでなく地元の経済も支えています。
代替産業を誘致すれば解決するでしょうが、現状の原発は関連企業を含めて地元の経済支柱の一本です。
過疎地は深刻な財政不安・人口減少危機に陥っています。
檜原村では65歳以上が人口の40%を超え、15歳以下が8%程度しかいません。
こうした過疎地は日本にはいらないのでしょうか?
消えて無くなれば良いのでしょうか?
檜原村に原発はあまり関係ないかもしれませんが、原発を誘致しようと苦渋の決断をした地域と、感じている問題は大差ないものと把握しています。
原発をただ反対するのではなく、なぜ原発を誘致したのか、その背景を考えてはみませんか?
いま原発のある地域で即時停止して、その地域はどのように活路を見出だせば良いでしょうか。
その案は、原発停止と同時に実行出来ますでしょうか。
代替案も復興計画も無いまま原発を停止することは、その地域を切り捨てることにならないでしょうか。
ボクらは過疎地を切り捨ててやいないでしょうか。
原発に反対する方々へお願いがあります。
考え方はさまざまですから、ここに書かれていることは無視して下さっても構いません。
今一度、あなたが住まわれている都道府県の過疎地を見て頂けないでしょうか。
どうしたら過疎地の問題を解決できるか、ほんの少しだけ考えては頂けないでしょうか。
ボクは知識もないし偏った考え方しか出来ませんが、原発を作ってしまった責任と、原発を誘致させてしまった責任を考え、
原発の即時停止を願うものの、日本のさまざまな問題と平行して長期に渡る計画の下、順次原発を停止していったほうが良いと思うのです。
考え方は人それぞれなのは重々承知しているつもりです。
何を犠牲にしても子供の未来を救うには、原発は即時停止して然るべきなのです。
でも、ボクらも担っている過疎地の問題を忘れてはいけないと思うのです。
もし良かったら、少しだけ考えて頂けないでしょうか。
考えてから原発に反対しても遅くはないはずです。
今まで何十年も原発はそこにあったのです。
ほんの数分、考えてみてくれませんか。
ボクも東京都民として、生まれも育ちも東京の人間ですから、真剣に考えていきたいと思っています。
お暇な時に、よろしくお願いします。
※原発を全基即時停止しても、その分税金などで賄えば良いとも思います。
その場合でも日本の税金が無駄に使われている問題や、債務不履行(デフォルト)が迫っている問題、東日本大震災の復興問題、社会保障問題、など、これらも考えなければなりません。
正直なところ、どれも問題が多すぎて、切り捨てをどこかでやらなければならなくなる気もしています。
ですが最後はそうなるにしても、ギリギリまでは考えないといけない気がしています。
原発の全基停止を目指して、原発に頼らないエネルギーと平行して、過疎地の問題も考えていく必要があるのではないかと思っています。
だからボクは原発に反対しています。
でも原発は、ボクらの電気だけでなく地元の経済も支えています。
代替産業を誘致すれば解決するでしょうが、現状の原発は関連企業を含めて地元の経済支柱の一本です。
過疎地は深刻な財政不安・人口減少危機に陥っています。
檜原村では65歳以上が人口の40%を超え、15歳以下が8%程度しかいません。
こうした過疎地は日本にはいらないのでしょうか?
消えて無くなれば良いのでしょうか?
檜原村に原発はあまり関係ないかもしれませんが、原発を誘致しようと苦渋の決断をした地域と、感じている問題は大差ないものと把握しています。
原発をただ反対するのではなく、なぜ原発を誘致したのか、その背景を考えてはみませんか?
いま原発のある地域で即時停止して、その地域はどのように活路を見出だせば良いでしょうか。
その案は、原発停止と同時に実行出来ますでしょうか。
代替案も復興計画も無いまま原発を停止することは、その地域を切り捨てることにならないでしょうか。
ボクらは過疎地を切り捨ててやいないでしょうか。
原発に反対する方々へお願いがあります。
考え方はさまざまですから、ここに書かれていることは無視して下さっても構いません。
今一度、あなたが住まわれている都道府県の過疎地を見て頂けないでしょうか。
どうしたら過疎地の問題を解決できるか、ほんの少しだけ考えては頂けないでしょうか。
ボクは知識もないし偏った考え方しか出来ませんが、原発を作ってしまった責任と、原発を誘致させてしまった責任を考え、
原発の即時停止を願うものの、日本のさまざまな問題と平行して長期に渡る計画の下、順次原発を停止していったほうが良いと思うのです。
考え方は人それぞれなのは重々承知しているつもりです。
何を犠牲にしても子供の未来を救うには、原発は即時停止して然るべきなのです。
でも、ボクらも担っている過疎地の問題を忘れてはいけないと思うのです。
もし良かったら、少しだけ考えて頂けないでしょうか。
考えてから原発に反対しても遅くはないはずです。
今まで何十年も原発はそこにあったのです。
ほんの数分、考えてみてくれませんか。
ボクも東京都民として、生まれも育ちも東京の人間ですから、真剣に考えていきたいと思っています。
お暇な時に、よろしくお願いします。
※原発を全基即時停止しても、その分税金などで賄えば良いとも思います。
その場合でも日本の税金が無駄に使われている問題や、債務不履行(デフォルト)が迫っている問題、東日本大震災の復興問題、社会保障問題、など、これらも考えなければなりません。
正直なところ、どれも問題が多すぎて、切り捨てをどこかでやらなければならなくなる気もしています。
ですが最後はそうなるにしても、ギリギリまでは考えないといけない気がしています。
原発の全基停止を目指して、原発に頼らないエネルギーと平行して、過疎地の問題も考えていく必要があるのではないかと思っています。
原発を誘致したおかげで過疎が止まったという自治体があったら教えておくれ。
原発を誘致したおかげで他企業が進出し繁栄したという自治体があったら教えておくれ。
原発を誘致したおかげでそこで生まれた若い人々の多くが地元に留まるようになったという自治体があったら教えておくれ。
巨大なお金が地元の一部に落ちるのは事実。
その巨額資金が一過性的に公共工事を作り箱モノを作り土建屋さんをはじめ一部の人たちの懐を潤わせただろう。
今はその維持費が地元の財政を苦しめているのは知ってるだろうか。
そしてそのお金は元は国民の税金。
過疎の問題に税金がどのように使われるべきなのかは大いに論じられるべきだと思う。
反対する人にだけ過疎問題を考えてくれとメッセージを出すことにどういう意図があるのだろうか?
過疎化は原発賛成であろうと反対であろうと、みんなが考えるべきことではないのか?
原発を止める前にちょっと原発反対の人たちだけ過疎問題を考えてみませんか?
これってなんか変じゃないですかね。
賛成に回った人が過疎問題だけを考えて賛成した人ばかりなのかしら。
反対に回った人は過疎問題を全く考えずに反対した人ばかりなのかしら。
もっといえば、過疎化問題を考えていたのは原発誘致賛成の人だけで
反対してきた人はそうではなかったと思っているのかな?
なんていうか、反対する人は何でも反対、反対という事だけしか考えていない
「反対すること」がイデオロギーみたいなデフォルメ臭がするんだけど、気のせいかしら。
まぁ中にはそういう類の人たちもいるかもしれないけどね。火炎瓶とか投げそうなかんじの(笑)
賛成に回った人たちの苦渋の選択しかここでは取り上げていないけれど
反対に回った人たちの苦渋の選択はどうなのかな?
お金を貰ったら人も戻ってくるかもしれない
町が村が生き返るかもしれない
でもそうなっても原発のせいで子らや若い人たちを生涯に渡る
いや次の世代もその次の世代にも1基毎年1000㌧という捨てられない廃棄物
という負債を背負わせることになる。
そうなるなら過疎のままでいいとそういう苦渋の選択があったかもとは考えないですか?
過疎問題って反対した人だけが反対する人だけが考えるべき問題なのかしら。
「だけ」って言ってないって言われそうだけど
「原発に反対する方々へ」ってあえて書いてあるので。
もしかしていわき市行ってました?
似たIDの似た文体をとある掲示板で見つけたもので。
勘違いだったらスルーで。
過疎化はおっしゃる通り、一過性の対策じゃ防げないでしょうね。
過疎地は日本の人口問題を真っ先に被っている場所であって、根本的な日本の問題として対処していかないとならないはずです。
そういう観点から、おっしゃる通り反対する人だけが考える問題じゃないですね。
今回の題名に語弊を認めなければならない部分は、今まで「電気は当たり前」「原発のことは考えたこともなかった」そういった方たちが結構な数いるであろうと見受けられた中、
いきなり思考の中に湧いてきた「原発は危険」という部分だけが際立ってしまった方たちに考えてもらいたい記事を、大きく「原発に反対する方たちへ」としてしまった部分です。
そこがデフォルメ臭になっていると思います。
原発をとりまく環境は、これまたおっしゃるように「あちらもこちらも立たず、だから目先で凌ごう、いや長期でも何とかなるはず、でも一過性のお金が無くなったさぁ大変だ7号8号出てこいや!」的な負のスパイラルが付きまとっていると思います。
さらに、目先に捕らわれた人も、先見性を信じて疑わなかった人も、懐疑の中押し出されてYESと言うしかなかった人も、今回いろいろ考えていると思います。
そんな中、原発とあたかも無縁だったような顔をして、「事故起こした、原発反対!」って、その前にちょっと歴史を振り返ってみようよ、と思ったわけです。
その一つ一つの歴史は、付け焼き刃なボクにも全容を把握できず、ましてや事故ってから原発を考え出した方たちにしてみたら歴史を全てすっ飛ばして「反対」に行き着いたような気もするんです。
その反対の気持ちが一過性になってしまうことは避けなければならないと感じています。
また、原発の問題は日本のいろんな問題をも内包している気がします。
利益主義、安全とは、分配システムの在り方、日本のボスの在り方、エネルギー問題、持続可能な経済活動、いろいろです。
そうしたものを全て引っくるめて文章にまとめられるほどの力量が無く、拙い文章で語弊だらけですが、平行して考えるべき問題が山積している中で、一過の「反対」だけに捕らわれ、なんとなく慢性毒にも慣れていき風化してしまう可能性は、原発を点で捉えれば捉えるほど高まる気がしています。
数年を経て原発が処理できたとして、忘れられてしまう可能性が、すでに今までの原発への無関心に現れていたはずです。
そしてそれは、他の目前に迫った問題への無関心にも現れているはずです。
原発は今まで、今回の事故に匹敵する事故を繰り返してきました。
なんとなく安全そうな核燃料の処理方法をCMで流して、視る人の多くは「へー、上手くできるんだね、良かった良かった」だったのではないかと感じることもありました。
だから六ヶ所村も一過性で騒がれなくなり、昨年段階でど偉い事故をもんじゅが起こしても日の目を浴びずに隠されてきました。
当事者・当地は大きな問題と捉えていたはずです。
問題は、先日あなたが書いたように、それらが抹消されてきたことです。
知らなかった人たちは、知ろうとしなかったとも言えますし、これだけ大事な問題を知らされてこなかったとも言えます。
厳密には大きな問題は知らされてきましたが、マスコミのスポットの調光でいいようにやられました。
勉強中だから無知で薄っぺらな哲学のまま生きていて、しかも中途半端な論調で無責任な記事を書いて良いものかはさておき、取っ掛かりは誰しも何も分からないはずですから、その取っ掛かりをブログから見つけてもらえたら、ある意味それも反対デモではないにしても一つの活動と考えていました。
ですから、中途半端な記事にせよ「情報は自己責任で」という免罪符をフル活用して、「こんなのもあるよ」「これはどうかな」「もちろんブログの記事は一側面だからね」「調べることが大切だよ」と書いてきたわけです。
ボクのブログなんかよりためになるサイトなりは山ほどあります。
紹介をしたりもしますが、紹介したものは、読んでくれた方たちが自身で手にしたものとは少しニュアンスが変わってくると思います。
受け身ではなく能動的なアプローチが大切だと思います。
また、一度に原発をとりまく歴史すべてを取り上げて書いても、読んでくれる方は限られるとも思ってますし、だったらボクも勉強中の身、表現の自由のもと、この際合ってる間違ってるはそれぞれが考えることとして、ボクなりの考え方を書いてきました。
余計なお世話だったかもしれないです。
完璧な理屈・理論・哲学を用意しなければならなかったかもしれません。
でも、あなたがコメントしてきた内容からは、「不勉強だから考え方すら間違っている」「理屈も理論もてんで見当違い」「なに言ってるの?矛盾だらけじゃん」に聞こえますよ。
だったらボクは原発のことなんか忘れて、あなたにお任せしますよ。
きっと素敵な理論で原発を無くしてくれるはずですから。
ってなっちゃうでしょ?(笑)
だからね、最初は「原発反対!」でいいじゃん、次に歴史を振り返ればいいじゃん、その中から「原発停止」に向けた建設的な会話をやればいいじゃん、って感じに、一歩ずつ進まなきゃいけないと思うんですよ。
「今まで勉強してこなかったおまいらに付き合ってられるか!」って言いたいわけじゃないですよね?
言いたいにしても、それやったら推進派に足元掬われる気がしません?
大きな流れを維持する必要は、無いですかね?
無知なボクのモチベーションを持続させるために活動する気は無いですかね?
理論武装でボクを切りつければ原発停まるでしょうか。
もちろんこれらはボクにも言えることで、今まで原発と真剣に向き合ってきた人たちを怒らせるような記事の連続は、謝ります。
ただ、申し訳ないですが今までと変わらずボクはボクの道しか歩けませんから、考え方を書いていきたいと思ってます。
指摘されたものを謙虚に受け止める努力はしますが、ボクにも感情はあります。
できればお互いが刺激し合える範囲での議論を望んでいます。
こう見えても、記事はいろんな人を配慮して書いているつもりなんですよ。
まぁ今までのボクを知るあなたにしてみたら、文体も違うわ議論を避けるわ「なんなの?」になるとは思いますけど、真っ向から衝突して得たものと失ったものと、遠回りしながら衝突せずに得たものと失ったものと、天秤にかけた結果、人生の変化球を投げ始めたと理解してください。
前に言ったと思いますが、ボク自身に変化が起きたんですよ。
それをあなたは「ちょっとさみしい」と言いましたが、いろいろやることは悪いことでは無いでしょ?
まだまだブログのほうは続きますから、少しずつ消化していきましょうよ。
批判的に書いちゃいましたが、あなたのコメントは、良い刺激になります。
今回も全てには答えてませんが、コメントされた内容については考えていますので、長い目で見てやってください。
コメントありがとうございました。
いちおう推進派は交付金やらで「対策」してきたわけです。脱原発派は、そんな推進派よりも持続的な魅力ある未来像を提示しないと、推進派(カネ、人脈)に負けちゃいませんか?だからtutsi-noteさんが「考えよう」というのに賛成です。謎々さんはちょっとズレてるような気がします。
でも、ここは議論の場ではないと思うので、僕の最近見聞きした考えるヒントを。
先週、山口県上関町の原発建設に30年間反対してきた人たちを撮った映画(祝の島)を見に行きました。その後Youtubeなどネットでもいろいろ見聞して、小さな町の推進・反対の亀裂の深さを知りました。根本に過疎の問題があることははっきりしています。反対派の多い祝島ですら小学生は3人しかいません。ではなぜ祝島の人々は30年間反対運動を続けてこられたのか?彼らの守りたいものは何か?また誘致派の事情は何だろう?何があれば彼らは原発を誘致しなくてもすんだのか?原発中止後の上関町はどうなるのか?
考えるきっかけとなりました。
一方で、これは極端な例かもしれませんが、数年前のあるブログには「原発誘致する自治体は環境意識が低い」として「青森県産品の不買運動」を呼びかけるものがありました。こういう身勝手な考えも脱原発といっていいのか?これでは青森県の人々は、一方からは原発を押し付けられ、もう一方からは脱原発を押し付けられることになってしまいます。
失礼しました。
ですが、原発と過疎を切り離す発想も持ちたいです。
最短距離で原発をなくすスキームを論じると、どうしても歪みを作らざるを得ないと思います。
その歪みが誰かの生活を致命的に脅かすとしたら、それは“原発反対”であろうと“原発推進”であろうと、根本に抱える危うさは同じだと思います。
言葉上では“原発のある町”とひとくくりにされても、実に様々な問題点がありますよね。
考えさせられます。
コメントありがとうございました。