ひめゆり平和祈念資料館
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による通称「ひめゆり部隊」が
看護活動を行っていた最後の場所です。
この小さな石碑が有名な「ひめゆりの塔」です
1945年
3月24日 牛島満司令官率いる第32軍司令部が
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女に従軍命令を出す。
3月26日 米軍は慶良間列島に進攻
5月下旬 日本軍は首里攻防の激戦に敗北、
第32軍司令部は首里から南部の摩文仁へ撤退
6月18日 摩文仁一帯に米軍が進出し、戦況が悪化したことから、
学徒たちに戦闘継続は各自判断せよと、突然「解散命令」が出される。
6月19日 脱出する直前の明け方に壕内に米軍のガス弾が投げ込まれ、
教師・生徒40名が最期を遂げる(5人が生還)。
死亡者の80%は解散命令後の一週間に出ており、
最終的に教師・学徒240人のうち136人が死亡。
沖縄陸軍病院第三外科壕跡
通称、ひめゆりの壕。
1975年、ひめゆりの塔事件で
皇太子夫妻(現天皇、皇后)を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲した犯人らが潜伏したところでもあります。
住所: 沖縄県糸満市字伊原671-1
魂魄の塔
沖縄戦で亡くなった三万五千余柱が、軍民、人種を問わず祀られている沖縄最大の塔。
村民,地域住民などの協力で
道路や畑の中などいたるところに散乱していた遺骨を集めて、
戦後いち早く、祀ったところです。
住所: 沖縄県糸満市米須
歩兵第三十二聯隊碑
歩兵第三十二連隊は山形市を衛戍地とした歩兵連隊です。
1944年、第二十四師団の第三十二軍に編入により、
歩兵三十二連隊は沖縄へ配備され、
沖縄戦では首里から沖縄本島南部地区にかけて戦闘を行い、
国吉高地(現在糸満市)で1945年8月15日を迎えます。
武装解除前夜の8月28日、
列席した将兵は、「君が代」「歩兵第三十二連隊歌」を合唱し
燃え上げる軍旗の最後を見守りました。
住所: 沖縄県糸満市字真栄里ウテル原壱823-6
白梅の塔
沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒と先生を祀っている塔。
127名がまつられています。
県立第二高等学校の女学生で構成された白梅学徒看護隊員55名は、
1945年、東風平町八重瀬にある野戦病院に配属され、兵士の看護にあたりました。
戦後、校章から二高女の生徒は白梅学徒と呼ばれるようになります。
自決之壕
6月4日 解散命令
学徒も南部に撤退するも、16名の学徒は国吉(現在の白梅の塔)で再び第一野戦病院の部 隊と行動を共にする
6月22日 火炎放射器での攻撃を受け、手榴弾で自決
女学徒55人中、21人が戦死。
(資料により相違がありますが、ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブックを参照しました。)
沖縄戦で動員された学徒看護隊は、ひめゆり学徒隊や白梅学徒以外にも
名護蘭学徒(県立第三高等女学校) 10名、
瑞泉学徒(県立首里高等学校) 61名、
積徳学徒(私立積徳高等女学校) 65名、
悌梧学徒(私立昭和高等女学校) 17名がいました。
参照
ずいせんの塔
でいごの塔
学校別女子学徒動員、死者数
住所: 糸満市字真栄里
栄里之塔
碑文
歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、
南進を続ける優勢なる米軍に村し熾烈なる砲火をあびせ
遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す
住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく
昭和20年6月17目玉砕し悠久の大義に生く
終戦後真栄里民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨1万2千柱を収集し
栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得て
あらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う
昭和43年3月 財団法人 沖縄遺族連合会
住所: 糸満市字真栄里
米第10軍司令官バックナー中将の碑
6月18日 戦況視察の米軍第10軍サイモン・B・バックナー中将が
糸満郊外の前線観測所で日本軍の攻撃に逢い即死します。
その後、米軍は報復攻撃にでて、
国吉にとどまった白梅学徒も攻撃を受けて自決しています。
6月18日 バックナー中將は戦死
6月18日 第44独立混成旅団長鈴木少將斬り死に
6月19日 米第96師団の副師団長イーズリー准將戦死
6月22日 第24師団雨宮師団長自決、第62師団藤岡師団長自刃
6月23日 第32軍司令官牛島満中将、長勇参謀長、割腹自決。
米軍死者12500人
日本軍死者9万余人、
沖縄総人口45万人中、死者15万6千人余
「ありったけの地獄を集めたような戦争」
米軍をしてそう呼ばしめています。
住所: 沖縄県糸満市真栄里615
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による通称「ひめゆり部隊」が
看護活動を行っていた最後の場所です。
この小さな石碑が有名な「ひめゆりの塔」です
1945年
3月24日 牛島満司令官率いる第32軍司令部が
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女に従軍命令を出す。
3月26日 米軍は慶良間列島に進攻
5月下旬 日本軍は首里攻防の激戦に敗北、
第32軍司令部は首里から南部の摩文仁へ撤退
6月18日 摩文仁一帯に米軍が進出し、戦況が悪化したことから、
学徒たちに戦闘継続は各自判断せよと、突然「解散命令」が出される。
6月19日 脱出する直前の明け方に壕内に米軍のガス弾が投げ込まれ、
教師・生徒40名が最期を遂げる(5人が生還)。
死亡者の80%は解散命令後の一週間に出ており、
最終的に教師・学徒240人のうち136人が死亡。
沖縄陸軍病院第三外科壕跡
通称、ひめゆりの壕。
1975年、ひめゆりの塔事件で
皇太子夫妻(現天皇、皇后)を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲した犯人らが潜伏したところでもあります。
住所: 沖縄県糸満市字伊原671-1
魂魄の塔
沖縄戦で亡くなった三万五千余柱が、軍民、人種を問わず祀られている沖縄最大の塔。
村民,地域住民などの協力で
道路や畑の中などいたるところに散乱していた遺骨を集めて、
戦後いち早く、祀ったところです。
住所: 沖縄県糸満市米須
歩兵第三十二聯隊碑
歩兵第三十二連隊は山形市を衛戍地とした歩兵連隊です。
1944年、第二十四師団の第三十二軍に編入により、
歩兵三十二連隊は沖縄へ配備され、
沖縄戦では首里から沖縄本島南部地区にかけて戦闘を行い、
国吉高地(現在糸満市)で1945年8月15日を迎えます。
武装解除前夜の8月28日、
列席した将兵は、「君が代」「歩兵第三十二連隊歌」を合唱し
燃え上げる軍旗の最後を見守りました。
住所: 沖縄県糸満市字真栄里ウテル原壱823-6
白梅の塔
沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒と先生を祀っている塔。
127名がまつられています。
県立第二高等学校の女学生で構成された白梅学徒看護隊員55名は、
1945年、東風平町八重瀬にある野戦病院に配属され、兵士の看護にあたりました。
戦後、校章から二高女の生徒は白梅学徒と呼ばれるようになります。
自決之壕
6月4日 解散命令
学徒も南部に撤退するも、16名の学徒は国吉(現在の白梅の塔)で再び第一野戦病院の部 隊と行動を共にする
6月22日 火炎放射器での攻撃を受け、手榴弾で自決
女学徒55人中、21人が戦死。
(資料により相違がありますが、ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブックを参照しました。)
沖縄戦で動員された学徒看護隊は、ひめゆり学徒隊や白梅学徒以外にも
名護蘭学徒(県立第三高等女学校) 10名、
瑞泉学徒(県立首里高等学校) 61名、
積徳学徒(私立積徳高等女学校) 65名、
悌梧学徒(私立昭和高等女学校) 17名がいました。
参照
ずいせんの塔
でいごの塔
学校別女子学徒動員、死者数
住所: 糸満市字真栄里
栄里之塔
碑文
歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、
南進を続ける優勢なる米軍に村し熾烈なる砲火をあびせ
遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す
住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく
昭和20年6月17目玉砕し悠久の大義に生く
終戦後真栄里民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨1万2千柱を収集し
栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得て
あらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う
昭和43年3月 財団法人 沖縄遺族連合会
住所: 糸満市字真栄里
米第10軍司令官バックナー中将の碑
6月18日 戦況視察の米軍第10軍サイモン・B・バックナー中将が
糸満郊外の前線観測所で日本軍の攻撃に逢い即死します。
その後、米軍は報復攻撃にでて、
国吉にとどまった白梅学徒も攻撃を受けて自決しています。
6月18日 バックナー中將は戦死
6月18日 第44独立混成旅団長鈴木少將斬り死に
6月19日 米第96師団の副師団長イーズリー准將戦死
6月22日 第24師団雨宮師団長自決、第62師団藤岡師団長自刃
6月23日 第32軍司令官牛島満中将、長勇参謀長、割腹自決。
米軍死者12500人
日本軍死者9万余人、
沖縄総人口45万人中、死者15万6千人余
「ありったけの地獄を集めたような戦争」
米軍をしてそう呼ばしめています。
住所: 沖縄県糸満市真栄里615