あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

夏目伸六 「父 夏目漱石」 2

2016-07-05 13:13:11 | 夏目漱石
父夏目漱石に怯える少年時代を過ごした、漱石の次男
夏目伸六氏の著書からの引用、つづきです

------------------------------------------------------
「でも伸六ちゃんのこと、割合に可愛がっていたのじゃない?
だってね・・・・・あんたが泣くとお父様きまって書斎から出てきたわよ」
      
 姉や母の話によると、私は泣き虫の青んぶくれの、
その上手の付けられない癇持ちの、一言にしていえば
全くどこといって取柄のない、醜い、不快な子らしかった。
こうした私が泣くたびに、父が出てきて、
「泣くんじゃない、泣くんじゃない、お父様がついているから
安心おし」と、私をなだめてくれたという話である。
 しかしその理由は、自分も私とおなじ末っ子であり、
家庭にも恵まれず、また父親からもあまり可愛がられなかったため、
私の泣くのはきっと自分と同様、傍の者からいじめられて泣くのだろう、
「だからお前にはこうしてチャンとお父様がついているから安心おし」
という、いわば父の異様な妄想から出発した
反射的行為には違いなかったが、それでも、
今まで私の目や心に映じていたつめたい父の姿の他に、
こうした別箇の父の姿があったということは、
たしかにずっと父を疎んじてきた私にとって、
幾許(いくばく)の感慨なきを得ない話である。
 実際姉の言うとおり、父の病気が本当に悪かった時分には、
私などまだ全然生れていなかった。
また私が生れてからも父の病気が悪化したのは、
ただ一遍しかなかった。
もちろんその合間合間には、軽い発作が時折襲ってきたとはいえ、
それさえ私などは大部分無意識の中に経験していたに違いない。

 私は未だに、幼稚園から帰ってきたばかりの私と兄に、
母が「久世山へでも行って遊んでおいで」
と女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。
暗い部屋の仏壇の前で、母は何かじっと拝んでいた。
家の中はシーンと静まり返って、コソッという物音一つ聞こえなかった。
私は襖を一つ隔てた隣の書斎に、
父がじっと虎のように蹲(うずくま)っているのを意識した。
仏壇の前で祈っていた母はたしかに泣いているようだった。
その横顔を微(ひそか)に流れる涙を見ながら、
小さい私も急に一緒に悲しくなった。
その癖ひねくれた私には、もうその頃からどうしても
自分の気持ちを率直に表白することができなかった。
女中に兄と二人して手を引かれながら、私達は黙々として
榎木町を突き当たって、江戸川の方へ曲って行った。
いつもなら山の土手を滑りおりたり、
頂の広い草原を駈け回ったりする私達も、この日だけは
草の上に、ぼんやり腰をおろして、
途中で女中の買ってくれたお煎餅やジャミパンを
味もなくボソボソとかじりながら、
赤い夕日が遠く暗い屋並の果に沈んで行くのを
じっといつまでも眺めていた。
恐らくこの時の母の気持ちは、
暫時なりとも小さい子供を陰険な父の前に
曝(さら)させまいと思う親心から、
わざわざ女中までつけていち早く私たちを外へ遊びに出したものだろう。
「その怖いったらなかったわね」
 私は一番上の姉と、つい先だって死んだ二番目の姉とがよく笑いながら、
父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。
その姉達の話を聞けば、これも決して無理であるとは思えない。
「だから私たち、お父様とどこかへ一緒に行くのとっても嫌だったわ」
おそらくこの姉たちは、私たちより数段の恐ろしさを
身にしみて感じていたに違いない。
(つづく)
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夏目伸六著「父 夏目漱石」より一部掲載(1)

2016-07-04 21:58:54 | 夏目漱石
以下、夏目漱石の次男、伸六氏の著書「父 夏目漱石」からの文です
夏目伸六氏は、数え年九才の時、父漱石を亡くしました

       
ですので、幼い時代しか父漱石と暮らしたことはなく
小さい子供と父、という関係でしか過ごせなかった
大人になっての、漱石と父と子の関係は持つことができませんでした
ですので、父漱石との関係、感情は、その幼い時の体験が元になっています
以下、引用です
--------------------------------------------
私は時折、私の友達やらいろいろの知人から、
私の父についての感想を聞かれることがあるが、
私はそんな時、よく妙に淋しい気のすることがある。
それは恐らく、私が父に対してほとんど愛情らしい愛情も抱いていなかった
ーー今も同様依然として抱いてないーー
そうした気持ちから来る感情かも知れない。
しかし父の死後、だんだん大きくなるにつれて、
私もいつか父の作品をあれやこれやと読むようになった。
そしてそこから、私は次第に本当の父の姿に親しみを抱くようになって来た。
「満韓ところどころ」のような作品を読むたびに私はいつも
父が本当にああした人間であったと、
知らず識らず心のどこかに淡い懐しさを覚え始めた。
その癖幼い私の眼に映じた現実の父の姿からは、
私はどうしても真の懐かしさを感じ得ない。
「伸ちゃん達はとてもよかったのよ。
だってお父様が一番病気のいい時に育ったんですもの」
私は先日一番上の姉の所で、こうした話を耳にした。
それを聞きながら私は急に父に対して済まないような心地がした。
私の部屋の書棚の上に二枚の兄の写真にはさまれて父の写真が飾ってある。
その写真を毎日起臥(おきふし)眺めながら、
私は今でもフッと深刻な恐怖に襲われて、
思わず写真から顔を背けることが時折ある。
まだ、何一つ意識らしい意識さえ持ち合わさなかった幼い頃から、
私はずっと父を恐れて来た。
父がニコニコ機嫌よく笑っていた顔も、
また私等小さい子供達と一緒に大口開いて笑った顔も、
私は未だ明瞭(はっきり)と覚えている。
しかしこうした父らしい姿を見ながらも、
私はその裏に隠れたかすかな不安をどうすることもできなかった。
小さい私はたしかにその頃から絶えず父の顔色を猫のように
いじけた気持ちで窺っていた。
父と二人で相撲をとりながら、一生懸命に、
一遍でも良いから父を敗かそう敗かそうと真赤になって
痩せた腹にしがみついていた時でさえ、私の心の底には
いつ怒られるか解らないという、不安が絶えずこびりついて離れなかった。
当時の私にとっては、いつ怒鳴られるかーー
たしかにそれが父に対する最大の恐怖だった。
父の死後、私はだんだんと父の病気について
いろいろな話を聞くようになった。
そしてそれ以来、私はずっと父をこの病気を通してのみ眺めてきた。
またこうした長い間の習慣のためか、私は自分が
この病気を通してでなければ絶対に父を見ることの
できなくなっているのには少しも気付かなかった。
しかし姉のこの言葉はフト私の心に、それまでついぞ
考えてもみなかった新しい思いを吹込んでくれた。
今までずっと父に対して冷淡な硬い気持ちを抱き続けてきた私にとって、
それはたしかに晩春にけむる糠雨のように
淡い温暖(ぬくもり)を持った侘(わび)しい一つの発見だった
もちろん、私は父の病気であったことを承知している。
しかしこの父からそうした病気を除いたとしたらーー
あるいは私はそこにのみ真実自分の親としての
父の姿を求むべきではなかったのだろうか。
小さい子供達を相手に面白そうに巫山戯(ふざけ)あったり、
イロハがるたにわざわざ自分の方から割り込んできて、
「尻ひって尻つぼめ」と「頭隠して尻隠さず」という札だけを
必ず二枚自分の前へ独占して、一生懸命に
そればかり眺め据えながら、いざとなるとそれさえ
たちまち私等に横取りされていた、そうした時の父親こそ、
私等にとって真実親しみのある本当の父の姿ではなかったのだろうか。
「おい、ほら、しっかりしろ」
と掛声を掛けながら、よく私等を相手に相撲をとっていた
その時の父の気持ちは、恐らく世間一般の父のそれと
少しも異なる所はなかっただろう。
しかし、こうした父が、もし自分の薄いぺしゃんこな腹に
大きなお凸頭(でこ)を押付けて、うんうん真赤になって
唸っていた、その時の私の気持ちを知ったとしたらーー
傍眼(はため)にはいかにも一心不乱に父に親しみきっているように
見えながら、その癖心の底ではどうしても
この父に、真の親しみを抱きえなかった。
私の本当の気持ちを知ったとしたら、恐らく父としても
かなり淋しい気持ちがしたのではなかっただろうか。
私はこの意味において父をずっと偽り通してきた。
父の真実の気持ちさえ、私には決して通じなかった。
従って、今こうして、自分が生前、
父を本当に欺き通してしまった。
そして、父は少しもそれを知らずに死んでしまったということを考えると、
私は知らず識らず父に対して、病気を離れた真実の父に対して、
本当に申し訳なかったという侘しい後悔の念を感ずるのである。

(つづく)
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夏目漱石3 生い立ちと性格

2016-06-27 14:37:16 | 夏目漱石
夏目漱石 ウィキより↓
1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。

当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。

その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。   
      
       若い頃の漱石
    -----------------------------------
幼児期の生活環境が、その人格に及ぼす影響は
思ったよりも大きいようです
私はネットで「虐待の連鎖による人格異常」という人と
知らずに何年も相対した事があります
その人は、自らの体験や症状を具体的にでもないですが
何度も言っていました
医学的には「パーソナリティ障害」というそうですが
元は「人格障害」という名称(病名)だったそうです

漱石は、時に激高して子供を殴ったり蹴ったりしたそうです
それは、漱石の次男伸六氏が語っていますし
鏡子夫人が書いた『漱石の思ひ出』にも
娘をいきなり殴った事が書かれているそうです
何故、自分の子供を殴ったり蹴ったりするのか
通常はこれは異常な行動とされます
子供や奥さんはそれらの「発作」が起きることを恐れており
そうなる前に「顔が茹でたように赤くなる」とも言っています
幼児期に、何らかの精神的肉体的虐待を受けたものは
それらをひきずって、一生涯、
性格に何らかのよくない影響を受け続けるようです

漱石は長年胃を患っていたそうですが
精神的懊悩や恐怖などとの胃や体の関係は証明されています
「病は気から」と昔から言われてきましたが
これは、「ストレスと体の関係」として
現在では定説になっています

漱石の元々の性格と、生まれ育った環境
養母との関係、実親との関係など、少なからず
幼い・若い漱石に良くはない影響を与えたのは確かでしょう
二度目の養母が非常に吝嗇であったとか
親が定まらないという究極の「落ち着かない生活環境」
実親からは疎まれていたとか、要らない子供だった、
などから来る心の傷は、漱石の人格形成に少なからず影響した
そして、非常に頭のいい漱石は、おそらく
自分の中で理性では消化しようとしながらも
内から来る何物かには抗えなかったのではないでしょうか

弟子を大事にし、多くの後輩を育て面倒を見たと言われる漱石
その神経質な小説からは窺い知れない一面を持ち合わせています
もしも、漱石の生い立ちに、このような不幸がなかったなら
漱石の人生も、小説も違ったものになっていたかもしれません
ですが、人の心を捉え続けているのは
そういう「複雑な生い立ちから形成された陰のある性格」
であったからこそのものであると思うと
複雑な心境がします

私は「虐待の連鎖」については、ネットで随分調べた事がありました
又、新聞記事やテレビなど、それらに関するものは
随分と熱心に見てきました
人の心に及ぼす傷、PTSDなど、心の闇を解き放てるものが
今の時点では完全なものはないようです

大きな事件が起きた時などに、その背景生い立ち
犯人の、ですが、数多くそれらの影響を感じないわけにはいきません
漱石のように聡明な人は、このような形で
後世に残るものを残していけました
ですが、誰もが聡明で生まれるとは限りません
理性と感情と、その後の性格形成をどのようにするか
また、どのように人格形成を自分でうまくやっていけるのか
各々の事情は違うでしょう

先日、小年の裁判員裁判で初めての死刑判決が確定しました
その時の弁護人の言葉も考えさせられるものがあります
残虐な殺人を犯した犯人が、その生い立ちを語った時
全てが本人の責任であろうかという難しい問題に突き当たります

確かに人を殺した事は重罪です
ですが、そこに至る犯人の生い立ちを聞いた時
思わず、複雑な心境になりました
亡くなった方は戻ってきません
一体殺したのはこの犯人一人なんだろうか?
背景にあった親やその他も犯人の一人ではないのだろうかと
私は死刑制度には賛成の立場です
話が大分逸れてしまいましたが
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夏目漱石2「こころ」「門」「それから」友人との女の取り合い

2016-06-23 13:21:06 | 夏目漱石
先の投稿の写真、今回の写真もですが、
左腕に喪章が巻かれています



この喪章は何なのだろう、と気にかかっていて検索したら
漱石が敬愛する明治天皇崩御の大葬の礼の日に
喪章をつけて写真館に行って撮ったものだそうです

「こころ」の先生は、自殺しました
乃木将軍は、明治天皇崩御に際し、殉死という形を取って
奥さんと共に自殺、自害をされましたが、
その殉死に倣い、先生は「明治の精神」に殉ずる形で
自殺する、というようなことを言っていました
漱石は乃木将軍をも敬愛していたそうです
「漱石と明治の関係」などの事は、
私には全くわからないことなのですが
私にわかった事を書きたいと思います

漱石の三部作と言われるのは
「三四郎」「それから」「門」ですが
私は最初に「こころ」を読み(朗読ですから“聴き”ですが)
次に「門」を読み、、その後で三部作の何か、を思い出し
「三四郎」を読み(聴き)、「それから」を読んだ
という順になったのですが、不思議に思った事は、
「こころ」「門」「それから」
これら三冊の小説に共通するテーマが「友人の女を取った」
というような話なので、何なんだ?という思いがしました
いくら何でも、何度もその話が主題で
ストーリーとしては、そのことに対する罪悪感が
主要テーマに思われるのです

「三四郎」の方は、それ以前の
「何も言わないでいたら、他の男と結婚してしまった」です

以下は身も蓋もない表現ですが

1,「三四郎」 ボヤボヤしていたら女が他の男と結婚してしまった

2,「それから」 自分が好きだった女なのに、友人が好きだと言ったので間を取り持って結婚させてしまったが、その後友人が女を大事にしていないので、「くれ」と言って貰うことにする。その事によって親兄弟からも絶縁され窮地に陥る

3,「門」 友人の妻を取って一緒になったのだが「バチがあたって」(?)子供が出来ず、世の中から外れ(?)夫婦二人でひっそりと暮らしているが、裏切った友人の影に怯えている

4,「こころ」 友人と同じ女を好きになるが、打ち明けられた友人を出し抜いて女を手に入れようとして、友人は自殺、自分も後に自殺してしまう
     -------------------

私が不思議に思ったのは、何故漱石がこれほど執拗に
何度も何度も「友人との女の取り合い」による、
「罪悪感」人間の「エゴ」の問題についてをテーマにして
書き続けたのかという事なのです

調べた結果、漱石の人生における同じような出来事
それが書かれていました
漱石は好きな人がいた(大塚楠緒子
が、友人(吾輩は猫である、の迷亭のモデルと言われる)がその人と結婚した
漱石は、失恋をしたのではないか、とも言われている
その辺りの関係は中々よくわからないらしいが
漱石はダメージを受け、ずっとその女の人を好きであった
その女の人は才色兼備の美人だった

そんな話が書かれていたのです
つまり、これらの小説はその問題を悶々と抱え続けた
漱石の煩悶だったのではないか
それを、漱石は自分の中で反芻するように、
生涯思い続けて悩み続けていた、のではないかと

「もしも、友人に譲っていたら、、、
もしも出し抜いて自分が結婚したら、、、
もしも、こうしたら、ああしたら、こうだったら、
どうなっていたのだろうか?」
と・・

ボヤボヤしていれば、人に先を越される(三四郎)
友人を出し抜いて結婚すれば、相手が傷つく(こころ)
自分が譲れば、後悔する(それから)
奪っても、その後の罪悪感に苦しむ(門、こころ)
何が最善の方法だったのか
そして、結局、人間の本質はエゴイストなのだ・・・
それが、先日引用した漱石の「こころ」に書かれた文章

「自己の心を捕らえと欲する人々に、人間の心を捕らえ得たるこの作物を奨(すす)む」

なのではないでしょうか
思わず溜息が出ました (続く)
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夏目漱石の小説「こころ」題名について

2016-06-13 12:32:01 | 夏目漱石
昔、中学校の国語の教科書に、夏目漱石の「こころ」が載っていました

    
教科書で「こころ」を読んだ人は多いようです
私はその感想文を発表した記憶があります
発表というか、授業でそれを読み上げたような記憶です
何について書いたか、一つだけ覚えています
「なぜ作者は題名を『こころ』と平仮名にしたのか
『こころ』と平仮名にすることによって・・・」
後はよく覚えていません
とにかくこの「こころ」というひらがなの題名が
何か心に響くような気がして書いたように記憶します

ところが、最近ネットで調べてみたところ、
最初は「こころ」・「こゝろ」ではなく
「心」であり、又それは幾つかの短編の総称として
使用する予定だったのだそうです
ところが思いの外長編となり、「こころ」として発売されたそうですが
漱石の意図した所は、仮名の「こころ」ではなく
漢字の「心」だったのだそうです。以前読んだ記憶では、
「出版社側でひらがなにした」という話のようでしたが
今ネットで調べてみると「わからない」というように書いてあります
以下は漱石の言です

「自己の心を捕らえと欲する人々に、人間の心を捕らえ得たるこの作物を奨(すす)む」

私には、さっぱりわけわからないのですが
とにかくこの小説の魅力の一つに、この題名
「こころ」が関係しているような気がするのです
心惹かれる題名、とでも言いましょうか?

私は何となく夏目漱石が好きなのですが
その理由の一つにこの「こころ」という小説があるような気がします
「吾輩は猫である」は、あまり本を買わない昔
単行本を読んだ覚えがあります
誰が買ったのか、親が買ってくれたのかどうかも覚えていません
挿絵の入った面白い小説でした

そして、この「こころ」という小説は
「吾輩は猫である」とは全く趣の違った小説でしたが
教科書で読んだ時から心にひっかかり
おそらく多くの人がそうであるように、
「もしかしたら、自分も先生と同じような行動を取ったかもしれない」
という罪悪感を内に秘めながら
しかし、どうにかしてそれを正当化出来ないものかと
そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら
断片でしか紹介されなかった教科書の記述を
その後も引きずり続けて、尚解決も出来ずに?
引っ張り続けていく、そんな「困った小説」
なのではないでしょうか?
それを何故漱石は、
「自己の心を捕らえと欲する人々に、人間の心を捕らえ得たるこの作物を奨(すす)む」
などと述べたのか、正反対なんじゃないですか?と
改めて問いたい気がします

家事や雑用でいささか忙しい気味の私は
落ち着いて小説を読む事が何年も出来ず
とうとう、ネットでの「朗読」を利用する事にしました
「こころ」も聴きました
「門」を聴いて、次に三部作だという「三四郎」を聴き
「それから」も聴きました

で、何が何だかわからないままに、疑問も生じ
漱石にも関心を持ちました
そして、ネットで色々検索してみました
漱石の実生活が小説に反映していることもわかりました
生い立ちも、その他も・・
それらを少し書いてみたいと思います(続く)
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