あなたとお花と猫とエコと健康

日々思ったこと、見たことなどを書いています。

テンプレート、又「バタフライ」に戻しました

2015-11-26 12:54:48 | 生活全般
「着物」のテンプレートはどぎつくて、
どうにも落ち着きませんでした
テンプレートを選択するにあたって、幅が狭いのは読みづらいし、
中々気に入ったのはなく難しいです 

今日も昨日に続き寒いです
天気予報によると、暖かい日と寒い日が交互に来るそうですが
昨日も今日も寒いじゃないですか・・

寒くなったら動くのが嫌になってきました
元々動きのいいたちではないのに、余計動きたくなくなる

   

   寒い季節は赤い実の季節でもあります
   この木は何と言う木なのかわかりません
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テンプレートを「バタフライ」から「着物」に

2015-11-24 16:04:59 | 生活全般
変更しました。

       

         ↓

       
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「比叡おろし」 小林啓子

2015-11-22 22:24:54 | 私の好きな歌
いつ頃、どこで聞いたのか記憶にないのですが、
その歌詞と曲に大変心惹かれるものがあり、
好きな歌です

https://m.youtube.com/watch?v=nO-_hhuSkBo
安田祥子の「比叡おろし」もあるそうです


  

何だか雪女の話を思い起こさせる様な気もしますが・・


「比叡おろし」    作詞・作曲:松岡正剛

風は山から降りてくる
レタスのかごをかかえて
唇はくびれていちご
遠い夜の街を 越えて来たそうな
うちは比叡おろしですねん
あんさんの胸を雪にしてしまいますえ

風は琵琶湖に落ちてくる
北山杉を下に見て
夕焼けはよそゆきマント
光る銀の靴を はいていたそうな
うちは比叡おろしですねん
あんさんの胸を雪にしてしまいますえ

風は今夜も吹いている
死んではだめよと言いながら
さよならは小さなみぞれ
そっと京都の町に 捨ててきたそうな
うちは比叡おろしですねん
あんさんの胸を雪にしてしまいますえ
うちは比叡おろしですねん
あんさんの胸を雪にしてしまいますえ

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
他の人のサイトより 引用です
『比叡おろし』は、論客で知られる松岡正剛さんが若い21歳の時、失恋して一晩で書いた曲。心を寄せている女性と逢うことになって、一週間、当日のデートコースを練りに練って日生劇場のラシーヌを奮発した。市原悦子さんが主演だった。これが最悪の選択だったようで、途中でその女性が「私、帰るわね。ごめんなさい」と言って風のように席を立ってしまった。呆然として、何も分からなくなった。雪のような冷たい恋だったと思い、その夜、初めて松岡さんが作詞作曲したのが、この『比叡おろし』だった。・・・
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
これ、作ったのは女の人かと思いましたが、
男の人が作った歌だったんですね
意外でした...
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料理の言葉遣い 「・・・して行きます」「ま~す」

2015-11-17 12:53:14 | 言葉について
ある日のNHKの料理番組の講師の言葉遣い
管理栄養士の◯◯◯◯さん、だそうですが、
言葉遣いに引っかかります

  これを短冊に切って「行きま~す」
   
  それを煮て「行きま~す」
  こちらの材料は、炒めて「行きま~す」

最近これら料理解説の言葉遣いが非常に気にかかるようになりました
違和感があるのです
何故「切ります」、「煮ます」、「炒めます」
ではいけないのでしょうか?
しかも「切って行きま~す」炒めて行きま~す」「煮て行きま~す」
と、末尾を異様に歌うように伸ばして話すのです

何だかバカにされているような
幼児扱いされているような気にもなってきます
「優しい」ことと「馴れ馴れしい」事は違います
妙な言葉遣いが氾濫すると共に
人の感性までが壊されて行くような気がします
あるいは、感性が壊れてきているから
こんな言葉遣いをするようになる・こんな言葉遣いが気にならない
そうかも知れません
鶏と卵のどちらかはわかりませんが
イライラすることの一つに、こんな妙な言葉遣いがあります

そんな思いのある日、昔の料理のビデオが放送されました
美しい言葉遣いがそこにはありました
決して「切って行きま~す」とは言いいません
ただの「切ります」でした
しかも、大きな違いは
講師の先生の目線が、相手の立場に立って話されていると感じること
優しい心遣いと共に、礼節(礼儀と節度)が保たれた態度と言葉遣いでした

※ 礼節という言葉を調べてみました 
(他のサイトからの引用です 仏教関係みたいです)
----------------------------------------------
日本には昔から「礼儀」と「節度」を重んじた
「礼節」という言葉があります。

「礼儀」はお互いの命を敬いあう「爽やかな人権感覚」です。
そして「節度」とは、行き過ぎないバランス感覚、仏教でい
う「中道の感覚」です。

そしてこの「節度」とは、
自分の自我や感情を抑止することでもあります。

油断したり、流されていくと
どこまでも暴走していくのが、この自我と感情です。

常に自分の心の中に仏様から預かっている
良心、仏の心を意識しましょう。

そしてこの仏の心に沿った判断をしていくように
努力していきましょう。
心が暴走しそうになったとき、
「この心の状態で自分も相手も周りも幸せになれるだろうか?」
と問い聞いていきましょう。

こういうことを意識して生きている姿勢を
「節度」ある態度と言います。

「礼節」、
人間として生きる上で
また人とよりよく接するためにも、
決して忘れてはならない心がまえですね。
---------------------------------------------------
なるほど・・・

>そしてこの「節度」とは、
自分の自我や感情を抑止することでもあります。

昔の講師の人には、自分が自分がという思いよりも
相手の側に立った物言いがあったのかもしれません
今の人は「自我」が強過ぎて、いつも自分の事が中心で
相手を思う心が少々欠落しているのかも

「これを切って行きま~す」、
と言われた側の心を考えたことがあるのでしょうか?
はぁ・・・?という思いになります
こちらは幼稚園の生徒の幼児扱いなのかいな?と
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最近気になるテレビカメラのドアップ

2015-11-02 12:50:37 | 異議あり
テレビを大きなのに替えたせいでか、
あるいはその為だけではないのかわかりませんが
テレビを見ていると、そのアップの多用にウンザリさせられる
これでもか、これでもか、とアップを写され
見ているこっちは頭がクラクラする

日常では、ものを見るのには、そこそこの距離から見る
よほど何かの理由がない限り、そばに寄っては見ない
ところが、テレビは違う
料理番組から、顔から、ドアップを平然と繰り返し
心穏やかにはものを見ることが出来ない
大体料理を見るのに、
まるで対象物に目をくっつけたかのような距離から見るだろうか?

それをカメラだからと言って、周辺のものを全て排除して
対象物だけをドデカイ大きさで見せられることの苦痛

このことについて、誰か何か書いてないかと
「テレビ アップの多用」で検索してみたら
ありました、記述が
その一部を抜粋しここに貼ります

その題名は「テレビ局が作る不自然な映像」
----------------------------------------------------------
[事例2]:「寄り」が多すぎる絵作り

テレビ番組で特徴的な絵作りの一つに「寄り(アップ)の絵が多い」ことがある。
人物の表情のアップ、物品のアップ、場所の一部分のアップ、等々、
とにかく被写体に寄りまくってアップで撮影することに固執している。
その結果、ほとんどアップの場面が連続するシーンが多くなる傾向にある。
これもまた視聴者側からはストレスになる。
視る側からすればアップよりもまずその場の全体を映してほしいと思うものだ。
状況把握にはまず全体像、だからだ。
しかしテレビ屋はアップで撮影し、一部分しか見せようとしない。

そもそもテレビ局は視聴者を馬鹿と規定して、
そこから発想する番組作りをしている。
映像のカメラワークにもその思想は反映されているのだ。
アップが多用されるのは視聴者に考える隙を与えず、
常に「これを見せたい」ことがはっきり伝わるからである。
視聴者の程度が低い事を前提とした考え方である。

また、テレビ屋がアップにこだわるのは歴史的な経緯もある。
昔はアナログNTSC(アナログテレビ放送の規格名であり、
画質はSD放送と同じ。画角4:3)だったので
現在(HD放送)と比較すると解像度が低く(画素数が少ない、と同義)、
アップで撮影しないと何を映しているかわかりにくかった、という事情がある。
特に昔は受像機はすべてブラウン管という真空管の一種を使っており、
それに映像を映し出していたので、いわゆる大画面テレビが作りにくかった。
(37インチのブラウン管もあったが、滅茶苦茶重かった)

一般家庭で普及していた最も多いサイズは14~16インチ程度であろう。
この時代のラーメン屋に置かれていたテレビも14インチが多く、
客はその小さな画面で番組を見ながらラーメンを食べていたものだ。
そんな小さいサイズで視聴する事を前提とすれば、
たしかに引きで全体を映しても何を見せたいのか伝わりにくかったであろう。
いきおい、寄り(アップ)の映像が多用されるようになったのは必然と言える。

しかし現在はデジタルハイビジョン放送(HD放送。画角16:9)の時代である。
SD放送に比べれば情報量は飛躍的に多くなり、
引き(広角)で撮っても充分な情報量が確保されるようになったし、
逆に引きの絵(広角映像)の美しさがアピールできる時代になったのだ。
そのような放送インフラが画期的に変化した時代に、
未だに旧態依然のアナクロな撮り方をしているのが現在のテレビ屋なのだ。
テレビ屋は、地デジ(HD放送)の時代になっても頭の中はNTSC
(SD放送)のままで進化していないのであろう。
HDを生かした絵作りがきちんとできなければおよそプロとは言えない。
せっかくの16:9の広い画角と緻密な解像度を生かした映像を創ってもらいたいものである。

--------------中略----------------------------
これらは「テレビ屋のおかしな映像」「おかしな操作」のほんの一例にすぎない。
ここから見えてくるのは演出者もカメラマンもその他の現場スタッフも含めて「感性が貧弱」であることだ。
感性を磨き続けている人間なら絶対にこうはしないだろう、という悪い例をテレビ屋は作り続ける。それは既に致命的なレベルに達している。

以前から書いているテレビ業界の質の劣化は
こうした制作に携わる人間の仕事にも現れているのである。
下衆を極めた鬼畜外道な連中だ。
テレビは終わっている。
---------------------------------------------------
以上が引用ですが、
やはり、この方が書いているようにテレビのサイズが変わって
   
画面が大きくなった事も一因にはなっているようです
   
あのドデカイテレビ画面にドアップの連続をされると
目がチカチカしてくるような気さえします
頭の中で画像がまとまらなくなるのです
失礼な写し方だとずっと思っていましたが
そして、カメラマンがバカなのか感性が鈍いのかと思っていましたが
どうやらそのようらしいですね

そういう画面の連続に出会った時は、もうチャンネルを替えます
とてもではないですが、お付き合い出来かねます

話題がそれますが、CMはうるさいばかりのふざけた映像ばかり
昔はCMが楽しみでもあった時代もありました
CMで笑えた時代はかなり遠くなり
今はCMを見る度にその騒々しさとふざけた作りと
自分だけを見せたいお馬鹿な若い女の(子の)映像ばかりで
もう結構です、とテレビ離れは当然の話だと思います
番組の宣伝の為に女優や男優を交えさせ
公も私もグチャグチャ
節操のない世の中になってますが、
これが当たり前と思っている世代は
楽しいものを少し見知る事が出来な難い時代にいるのだろう、と
それで、ハロウィンの「仮装大会」のようなものに
走るのではないかと思うのですが
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