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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

Erbarme dich

2019年05月25日 10時53分55秒 | 日記
Erbarme dich ! 主よ救い給え・・・臨終の時に聞きたい素晴らしいバッハの音楽。

旧約にしろ新約聖書にしろ常に【神】と【自分】がいる。居て、命ぜられたり慰められたり、語り掛けたり、している。

注:思うに旧約で出て来る【神の命令・掟】とは【凡人に解る仕方】で、人類が生きている地球上三次元世界の【場の力学】を解説したものであろう。例えば【あなたが使っている奴隷は七年したら開放して家に帰しなさい、空手で帰らせてはならない】は【あなたは高いところから飛降りてはならない】と言うのと同じ事である。重力の法則は判りやすいが【人扱いの法則】や【貧富の法則】は判りにくい。

一方、仏教は【命令する、語り掛ける】他者が居ない。阿弥陀如来は【存在】するだけであって何も命令しない。仮に阿弥陀如来と対話するとすれば・・・高校の日本史で先生が面白い事を言われた、曰く『仏像は半眼で下を向くように高い処に坐って、または立っている。その前に額ずいて悩みを述べたり願事をしたりして、上を向くと【眼が合う!】』と。仏像が木と金で出来ていることぐらいは誰でも知って居る。つまり其処は【自分だけが居る世界】だ。仏教に他者は居ない、人は常に【自分と対話する】、対話して自分なりの何かを得る。

これが原因かどうかよく分からないが西洋音楽には【神に対する祈り】が多い。一方、和楽にはその要素が全くない、【自らの感動】だけである。強いて言えば宗教関係の【賛美】に類する音楽であって、【打ちひしがれた気持ちで思いを切々と述べる体】の音楽はない。

思うと考える

2019年05月25日 10時38分33秒 | 日記
前頭葉論理思考の結果が【考える】であって心の底から湧き上がるのが【思う】である。むかしからこの使い分けに神経質で、仕事での会話では殆ど『私の考えは・・』『私はこう考える』で通した、している。しかし多くの人が【思う】を使う、それがキモチ悪い。

【思う】何かは本当は言語化出来ない。心を言語で表現は出来ない。だから例えば【愛】【ふれあい】【民主主義】などと言語化した途端に、【本当の意味合い】から外れている。キリスト教、或はキリスト教系統新興宗教のウソ臭さはこれである。【あらゆることを言語化】したい執念、神経症の気配を感じてものみの塔を脱退し、キリスト教会からも離脱した。

昔、ある修行僧が師匠に、『お師匠様、悟りとは何ですか?』と聞いた。師匠は指を一本立てた。何かの時にその弟子が指を一本立てて相弟子か何かに示した。お師匠はその指を切ってしまった。そしてその弟子に【指を立てて】見せた。弟子はその時、【悟った】。