Erbarme dich ! 主よ救い給え・・・臨終の時に聞きたい素晴らしいバッハの音楽。
旧約にしろ新約聖書にしろ常に【神】と【自分】がいる。居て、命ぜられたり慰められたり、語り掛けたり、している。
注:思うに旧約で出て来る【神の命令・掟】とは【凡人に解る仕方】で、人類が生きている地球上三次元世界の【場の力学】を解説したものであろう。例えば【あなたが使っている奴隷は七年したら開放して家に帰しなさい、空手で帰らせてはならない】は【あなたは高いところから飛降りてはならない】と言うのと同じ事である。重力の法則は判りやすいが【人扱いの法則】や【貧富の法則】は判りにくい。
一方、仏教は【命令する、語り掛ける】他者が居ない。阿弥陀如来は【存在】するだけであって何も命令しない。仮に阿弥陀如来と対話するとすれば・・・高校の日本史で先生が面白い事を言われた、曰く『仏像は半眼で下を向くように高い処に坐って、または立っている。その前に額ずいて悩みを述べたり願事をしたりして、上を向くと【眼が合う!】』と。仏像が木と金で出来ていることぐらいは誰でも知って居る。つまり其処は【自分だけが居る世界】だ。仏教に他者は居ない、人は常に【自分と対話する】、対話して自分なりの何かを得る。
これが原因かどうかよく分からないが西洋音楽には【神に対する祈り】が多い。一方、和楽にはその要素が全くない、【自らの感動】だけである。強いて言えば宗教関係の【賛美】に類する音楽であって、【打ちひしがれた気持ちで思いを切々と述べる体】の音楽はない。