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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

貧乏人の思想

2019年05月03日 17時21分42秒 | 日記
【節約と貯金】を金科玉条とする母親に育てられた私は次第に【貧乏神】を崇拝する若者になった。貧乏神を崇拝するから貧乏になる、しごく当然の結果である。そのような者がどういう思考回路を持つかご紹介しよう。

腕時計などと言うものは無用の長物である、町で何処かの時計を見ればいい。財布などと言うものは見栄である、ポケットがあるじゃないか。市長がコンサートホールを建てるという、『何たる無駄使い、大して教養があるとも思えぬ市民には猫に小判だ』。
しかし、自分のけち臭く辛気臭い思想の大間違いにやがて気が着いた。立派なコンサートホールが出来たらそこでコンサートや諸種のイベントが開催され活況を呈したのだ。町も大きくなった。

無駄排除とか節約とか言うのは貧乏神崇拝教であってブラックホールに落ち込むだけだ。無駄使いをしないと言うのが悪いのではない、その根底にある思想が【ケチ、吝嗇】なのだ。【思想、無意識は現実化する】最近そういう思想で政治をやった愚かな政党があった、日本はじり貧になった。

ばら撒けばいいと言うものではない、問題は【行動の根にある思想が豊かか貧相か】である。惜しみ惜しみばら撒いても結果は貧である。
結局辛気くさくけち臭く貧しい性格か、大らかで豊かな性格かで人生は決まる。どんなに頭が良くても学歴が良くても辛気くさい人の人生は山坂多く困難刻苦、まあ、刻苦勉励が好きなんだな。
それに気が着いたので今の私はケチを卒業することにしたんだが・・・



やがて立ち現われる世界

2019年05月03日 16時01分28秒 | 日記
29  イエスは答えて言われた,「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです。 30  復活の際,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。 (マタイ伝22章)

【復活】と書いてある。それはどういう事かと言うと・・ダニエル書12章13節にこのようにある。『汝終りに進み行け汝は安息に入り日の終りに至り起て汝の分を享ん 』
【日の終り】とは我々が今居る世界の終わりであり、その後立ち現われるのがエデン、福音書でイエスさんは【天の王国】と言っている。亡くなった多くの人がこの新世界に復活すると言う。死者に時間はないから復活したその人は『いつの間にか眠り込んでしまったが自分は此処に居たのか?!』と驚くだろう。

その世界では最早子供は産まれない。且つて生きた人々が戻ってくれば充分である。タクラ・マカンの、ロプ・ノールの湖畔に生きた古の楼蘭の美女も戻って来る。子供が生まれる必要がないので男女の関係は今の世界とは異なる。生殖と言う概念が無くなった男女が住む世界、同じ方向に関心を持つ人々が行き来して住む世界。下記はネットから拾って来て無断使用して申し訳ないが私が密かに憧れている新世界での生活である。
Hyazinth house ヒアシンスハウス - YouTube

大好きな詩

2019年05月03日 15時11分38秒 | 日記
去りゆく五月の詩  三木露風

われは見る。    
廃園の奥、折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。

空の色やはらかに青みわたり 夢深き樹には啼く、空しき鳥。

あゝいま、園のうち
「追憶」〔おもひで〕は頭〔かうべ〕を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは 哀しきにほひのあとを過ぎて
甘きこころをゆすりゆすり はやもわが楽しき住家の
屋〔をく〕を出でゆく。

去りてゆく五月。
われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匍へるちひさき虫のひかり。
うち群るゝ蜜蜂のものうき唄 その光り、その唄の黄金色なし
日に咽び夢みるなか……
あゝ、そが中に、去りゆく 美しき五月よ。

またもわが廃園の奥、
苔古〔ふ〕れる池水〔いけみず〕の上、
その上に散り落つる鬱紺〔うこん〕の花、
わびしげに鬱紺の花、沈黙の層をつくり
日にうかびたゞよふほとり――

色青くきらめける蜻蛉〔せいれい〕ひとつ、
その瞳、ひたとたゞひたと瞻視〔みつ〕む。

ああ去りゆく五月よ、われは見る汝のうしろかげを。

今ははや色青き蜻蛉の瞳。鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺〔すゐへん〕よりして――


詩集【廃園】

午睡から目覚めて庭に出る、数日前息子達が集まってパーティーをした名残がそこここに。あの日満開だった植え込みの花は散った。午後の日差しにアイリスが咲き、甘草がもう少しで開く、芍薬は半分開いてさくらんぼは赤くなり始めた。昨日の陶器市散策の疲れが少し残っている。金木犀は大木になった、その上に栂が亭々と茂って庭の一部は暗い。猫が取っ組み合いの喧嘩をして首輪が落ちている。木漏れ日に深緑が輝く・・・一瞬、時が止まり【永遠】が立ち上がる。

芸術

2019年05月03日 09時00分47秒 | 日記
字をよく見て見ればよい、【芸】と【術】だ。
【芸】は【草冠】に【云】で構成されている。【云】は元々【雲】の古字であり、人が言葉を発するのは雲に似ている、と言うわけで言うを云うとも書くようになった。さらに、【芸】の象形文字は人が樹を植える形をしている。
【芸術】とは元々は【樹を植える術】。ところで【樹を植える】のは人間の根本的な性分、本来備わった性質・・・【あなた自身を表現する術】が芸術
誰でも【自分自身を表現したい欲求】を持っているが悲しいかなその【術】を習得するのは結構な努力が要る。例えば、料理のイメージがあっても包丁の技がなければ出来ない。

しかし思うに、特に今日、日本で、芸術の芸が忘れられて【術】のみが大手を振ってのし歩いている。最も分かりやすいのは油絵だ。【マチエール】とか称して汚たならしい凸凹画面に汚たならしい色でイヤラシイオゾマシイ形象などを描いてなにやら【⁂¥<=なるもの】を【表現している】などと言う。芸術を個人的思想と言うチンケなものの道具にする。そして私の絵は号の××××円などと言う。

モジリアニもゴッホも超貧乏だった、絵は売れなかった、売れないのに売れないものを描き続けた。シャガールは牛小屋だの農家だのの絵ばかり描いていた・・・生まれ育ったユダヤ系の村、そこの生活に拘り続けたのだろう。ピカソはへんてこな横顔か正面画か分からんような女の絵を描いたりしていた・・・あれはアソビだったと思う。小川芋銭は芋が買えるほどの銭でもあればと、牛久沼のほとりでキツネの嫁入りや河童の絵を描き続けた。田中一村は房総の家を売り払って奄美に移住し、芭蕉布の織子をして生活しながら今迄に知られていなかった日本画を描いた。みな【拘りの自分、自己への執念】があった。
ゴッホの絵を透かして見るとゴッホ自身が見える、モジリアニ然り、ミロ然り、田中一村も小川芋銭も。
憧れのベートーベンに漸くにして会えたワグナーにベートーベンは言った、『作曲で生活したいならガボットを書きなさい』。ワグナーはそれを嫌った・・・『自分は生活の為に音楽をやっているのではない,音楽が好きだからやっているのだ』

私は勘違いしているのかもしれない、・・陶磁器と言うものは【生業の為に造る】のであってそこに芸術を探すのは大間違いかもしれない。でも、でも・・・