先に聖書「伝道の書」について触れた。その箇所は「伝道の書(最終章)12:1-8」である。その部分を引く。
『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。』
以上は口語訳聖書「伝道の書」(新共同訳では「コヘレトの言葉」)の最終章の部分である。ヘブル語聖書では「ダビデの子、エルサレムの王コーヘレスの言葉」という表題となっている。コーヘレスとは「集める」という意味。作者は内容的にエルサレムのソロモン王(BC990頃-931)とするのが一般的だ。「伝道の書」は今からおよそ3000年前の時代背景を考えながら読むと興味深い。
この12章は「老者の章」と言われている。これを何気なく読めば人間の老いの哀しみを読んでいて、老いる前の若い時代に大いに楽しんでおくのがよろしい、との大意が伝わる。だがこの口語訳聖書も、詳細に字句の意味を読もうとすると観念的でなかなか難しいことに気づく。そこで不遜ながら私なりに現代語訳ふうにかみくだいて記述してみた。
『あなたは若い日に神を知りなさい。歳をとって望んでもいない心身の不具合の日々がきて、もう私には楽しみも何も無いよと文句を垂れるようになる前に、視力も衰えて日の光や星や月の光までもが輝きを失うようになる前に、雨がようやくやんで再び雨雲が来る前に、神を知りなさい。歳をとると、家を司るはずの主人は身体が震えるようになり、かつて力が身体に満ちていた者は身体がかがむようになり、老女は歯が少なくなってきて食べ物を噛み砕くことも休み休みとなり、窓から外を見ようとしても目は霞み、仕事でも何でも老いた者にはチャンスが少なくなる。老者は鳥の声とともに目覚めて再び眠れなくなる。耳は遠くなり楽器を奏でる音も調子っ外れとなり歌を歌う若い女たちもついていけなくなる。老人は高い所に登ることを恐れるようになり、道を歩いていても平坦な道の何気ない所で蹴躓いたり物にぶつかるので外出もしなくなる。髪の毛はアーモンドの花のように白くなり、荷物を背負っていなごのように飛び跳ねていた若い頃のようにはいかず、荷物が重荷となり引きずり歩くようになる。あらゆる欲望は衰えてくる。老者は死の病に罹患して瀕死の状態となり、それを嘆き悲しむ者が街の中を歩きまわるのだ。その後臨死の老者は、神経の繋がりが断たれ、心臓は急に停止し、呼吸が止まって、老者は死を迎えるのだ。このようにして塵は元のように土に帰り、霊魂はこれを授けられた神のもとに帰る。伝道者は言う、「全てのものは空の空である」と。』
まさに「老者の章」である。哀しきものは「老い」であり、すべては「空」であるという真理が伝わる。空海「秘鍵」を読んでいるかのようだ。縷々解説も不要だろう。
※
こうした老者の姿や有り様や生活の仕方は、老いの最中にある老者の側から言わせれば次のように記される。賢者ヘルマン・ヘッセ(76歳・1953)である。
『ある者が年をとり、そして自分の義務を果たし終わったときには、静寂の中で死と友だちづきあいをする権利をもつ。彼は人間を必要としない。彼は人間を知っている。人間なら十分に見てきた。彼が必要とするのは静寂である。このような人を訪問し、彼に話しかけ、彼をお喋りで悩ませるのは、礼儀にかなったことではない。彼の住まいの門口を、まるで人の住んでいない住まいであるかのように通り過ぎるのが礼儀にかなっている。』(前掲書、p.191)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます