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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅶ300] 老いの意味論(8) / 老いを尊ぶか/嫌悪し嘲笑するか‥

2024-07-04 12:27:25 | 生涯教育

「われわれのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしよう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」この一文は『聖書』(1963)「詩編」第90篇(モーセの祈り)である。

聖書の「詩編」は紀元前530年頃に編集されたという説が一般的である。とすると古のこの時代の人たちは意外と長寿であったことがわかる。70歳健やかでも80歳だから。ところが歴史が進むにつれて、戦争、交易による感染症の伝播、産業化に伴う自然環境の汚染、急激な工業化に伴う労働環境の悪化、食糧事情の変化や富栄養化、等々によって、文明はそれほど人間の寿命を長くしてきたとは言えないのだろう。そして今日、新しい自由主義経済とか称するエセ経済学者が、強欲と富の寡占と傲慢と差別と格差と不公正な社会を加速させ、欲望を掻き立てられ過酷な時間競争に身を苛まれているのが今の我ら日本人といえるだろう。

この聖書「詩編」が編纂されたのは、日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に相当する時代で、文字のなかった時代なので日本人はどのように考えていたのかは想像するしかないが、往時の人が人生をどのようにとらえていたのか興味は尽きない。

「詩編」の記すように、古の時代から「人の一生」はなかなか厄介なものだったのだろう。人生はまことに「骨折りと悩み」に満ちている。では「老い」はどうだったのだろう。健やかに80年90年は今でも我々の理想だ。しかも「ボックリ」この世に「オサラバ」できれば言うことはない。ところがどっこい古からそうはいかなかったのではないか。

「紀元前6世紀に、ギリシアの数学者ピタゴラスは、知能が幼児の水準まで退行する63歳からの期間を「老年期」(セニウム)と定義した。」「紀元前1世紀にはローマ人の医者ケルススが精神疾患を慢性的に抱えた状態を「認知症」(ディメンシア)と名付けた。」(スティーブ・パーカー監修、酒井シズ日本語版監修:医学の歴史大図鑑.初版、河出書房新社、2017)

あの三平方の定理のピタゴラスが「知能が幼児にまで退行する期間」を老年期と称したとある。なぜ63歳かは判然としないがこれは明らかに「認知症」だ。ケルススはヒポクラテス医学を継承した古代ローマの医師で病名dementia(認知症)の名づけ親ということになる。往時「認知症」をどのように診療していたのかには興味があるが、意外と患者を放置して治療もしなかったのではないかとも想像できる。いやひょっとすると今でいう認知症の患者は「彼は神様に近づいた」とか「神様から啓示を受けたからだ」とか言われ、認知症患者から「神託」を受けていたのかもしれない。(そのような文献をどこかで読んだことがあるのだが思い出せない。しかも大半の本を処分してしまったから探す手立てもない。)

日本では最近成田某という青年タレントが「老人は集団自死させろ、そうでないと我々若い人間たちは存分に社会生活を謳歌することができないではないか‥」という趣旨の発言をSNSの動画で投稿したところ、大いに批難を浴びて謝罪した。青年は謝罪しTV広告も協賛企業が降りて青年の仕事は減った。この青年も”老いの哀歌”を心の中でつぶやく日も遠くはないだろう。

このタレントが会見し発言した時の映像には、隣に元K大学病院医師で参議院議員が並んで立っていて、成田に諂うような表情で下劣に笑い拍手していた。奇怪な映像だ。だがこの映像に関する医師のコメントなどはなく不気味である。私は青年の”老人の集団自死”云々はこの国会議員の医師から吹き込まれたのではないかと疑っている。「寝たきりの人や高齢者は医療費をむさぼり不要だと言い口癖のように”片づける”と言っていた」という自殺ほう助の罪で訴えられた元厚労省医師の言質を紹介したことがある([Ⅵ291] 安楽死/考 (14) / 「安楽死」を弄ぶ者たち)。成田某はひょっとするとパペットに過ぎなかったのかもしれない。

『年をとるということは、たしかに体力が衰えてゆくことであり、生気を失ってゆくことであるけれど、それだけではなく生涯のそれぞれの段階がそうであるように、その固有の価値を、その固有の魅力を、その固有の知恵を、その固有の悲しみをもつ。そしてある程度文化が栄えた時代ならば、人は、当然のことであるが、老人に一種の敬意を表した。この一種の敬意は今日では青年が要求している。私たちはそのことで青年たちを悪く思う気はない。しかし、私たちは、老人には何の価値もないなどということを思い込まされるのはまっぴらごめんである。』 (ヘルマン・ヘッセ、前掲書、p.64)

ヘルマン・ヘッセは真理の人であり現実的にモノを考える人である。

(「老いの意味論」おわり)


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