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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ99]  『平和なる死』(4)

2021-12-02 21:07:31 | 生涯教育

最後に最近亡くなられたニコライさん*の話をします。ニコライさんが日本に来たのは今から50年前、文久年間のことでした。

*(注:聖ニコライ、1836-1912、ロシア帝国に生まれた。1861年に来日、日本に正教〈ギリシャ正教とも呼ばれ、ロシア正教会等を含む〉を伝道した。1884年には東京にニコライ堂を建設、その生涯を日本への正教の伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり日本で永眠した。谷中墓地に葬られている。)

その時25歳のニコライさんは「私でもお役に立つのなら日本に行かせてください。但し今の私には婚約者(許婚)がいるので、日本に行くことになれば断ります。そうしたら日本を自分の妻として愛します。二人の妻をもつことはできませんから、どちらかに決めなくてはなりませんので早く決めてください。」と申し出ました。25歳の青年の言葉として誠に清々しく気持ちの良い言葉です。

そして遂に日本に来ることになり、最初は函館に着きました。50年前の日本ですからキリスト教などに耳を傾ける者などはおりません。ニコライさんは「花嫁はまだ寝ている。これから起こそう」という報告を正教の本山に送ったそうです。

以来今日まで50年間、日本のために生命を捧げて伝道しました。そしてその生活の簡素なることは驚くばかりでした。ロシアで大主教と言えば、日本の本願寺の大谷さんとも言われる立場の人です。しかも貴族でした。宮殿に住み大勢の家臣を従え、外出には立派な馬車を用います。しかしながらニコライさんは、これができるのにしませんでした。実に質素な暮らしをしていました。彼の書斎には机と椅子と寝台のほかには何もありませんでした。

寝台が厚いレンガの壁に着いていますので七十余歳の老人の身体がそれに着いてさぞ冷えるだろうと、信者の女性が二枚の絹の布団を贈りました。しかしニコライさんは、それを一晩用いたただけで棚に上げてしまいました。翌日給仕の者がこれを見て、使えばよろしいのにと忠告しましたが、「もったいない」と言って亡くなるまで寝台では使わなかったそうです。

日露戦争の当時は、彼のところには幾度となく「殺すぞ」「火をつけるぞ」といったような威嚇する手紙が送られてきました。たびたび(在京の)オーストリア公使館から「逃げて来るように」と注意されましたが、彼は信仰の勇士でした。彼は言いました。「もし神様の命令であるならば、鉄の箱に逃げて入っていても殺されます。神の命令でない以上は、いかなる危険な所にいても殺されることはない」と。そしてことさらに往来の人の目につく窓際や玄関先で仕事をしていました。彼が死を恐れなかったことは敬服するばかりです。

ニコライさんが病気になり、死期の近いことを知ってから、より一層勉強をして仕事途中であった祈祷文の翻訳を病院で終えてしまいました。築地の聖路加病院で青山博士の往診があった際に「私の命はあと何日間ですか、どうぞ偽りのない所をお話しください」と話しました。博士は脈をとりながら、「そうですね、長くて3週間、短くて2週間です」と回答しました。するとニコライさんは非常に喜び直ちに自宅へ帰りまして、人の忠告も聞かないで風呂に入り、身体を清浄にし、いつでも棺に入ってもいいように自分で始末されました。

それから本山に出すべき会計報告と、日本に残すべき決算にかかりました。それは大変な作業だったのです。そして最後の数字を「8」と書くべきところを「5」と書いたのに気が付いて、それを書き直すと、その瞬間後ろに倒れて、魂は天国に行きました。ですからこの世における仕事で残ったものは一つもなかったそうです。この偉大なる大主教の遺産は、古い着物が三枚あっただけだったそうです。何と清き偉大なる死にざまだったことでしょう。

以上述べたような死に方を我々もしたいならば、キリストの弟子となるに優る方法はありません。私は今晩はこの事だけは話したかったのです。

我々は必ずいつか来るべき死について、平和に死ぬことのできるこの力を得たならば、どんなに幸せなことでしょう。この力を獲得するためには、キリストによるより他に途はないと思います。この事についてあらかじめ備えをしておくことは、お互いの生涯にとって最も必要なことです。

(「平和なる死」/おわり)

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[Ⅱ55]『不治の病気にかかったとき』(10) 

2021-07-09 11:52:44 | 生涯教育

 来るべき「未来」の考え方が、あなたを慰めてくれるものかどうかはわかりません。今このことをあなたに話すことは、かえってあなたを傷つけるのではないかと恐れています。しかしながら世界の英雄や聖人の多くの者の希望と希望と慰めは、未来が存在することへの信仰にありました。 

ソクラテス(注:古代ギリシャの哲学者。BC469頃-BC399)は、霊魂の不滅について論究しながら亡くなりました。

老牧師ロビンソン(注:John Robinson、1575-1625、イングランドの会衆派教会牧師で分離派の中心人物)は、医師から死の危機が迫っていることを聞いて友人に告げて言いました。「死というものはこんなにもたやすいものなのか」と。

スヴェーデンボリ(注:Emanuel Swedenborg、1688-1772、スウェーデン王国の科学者・神学者・思想家。霊的体験の著作で知られる)は、その死の際にあって友人が彼の心の中の様子を聞いたところ、彼は「幼いころに老母の家を訪ねるときのような喜びだ」と語ったという。

ビクトル・ユーゴ―(注:Victor-Marie Hugo、1802-85、フランスの詩人・小説家。『レ・ミゼラブル』の著者)は、フランスの詩人で小説家です。彼の著作はヨーロッパ中に影響を与え、彼に筆誅を加えられた高慢な宗教家や政治家は、彼を虚無党とも無神論者とも呼びましたが、彼は八十歳の時にあっても壮年の抱く希望を持ち続けていました。ある時、彼は未来の存在に関する信仰について告白しています。(注:出典不詳) 

「私は未来に生命が存在することを感じます。私は切り倒された林の木のようです。新鮮な萌芽が益々強く益々活発に切り株から発生していることを見ます。私は天上に向かって登りつつあることを知ります。太陽の光は私の頭上に輝いています。地は養分で私たちを養ってくれていますが、天は私の未だ知らない世界(天国)の光で私を照らしています。人々は言います、霊魂など存在しないし体力の結果に過ぎないものだ、と。そうであればなぜ私の体力が衰えると同時に、私の霊魂が益々光を増すのであるか、なぜ厳しい冬であっても私の心は永遠の春のようであるのか。(、、、) 

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[28]天国に居りて不在

2021-06-25 13:42:41 | 生涯教育

ユング心理学の研究者の故河合隼雄さんが谷川俊太郎さんとの対談集『魂にメスはいらない』(講談社、1993)の中で、こんなことを話していた。 

「われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がするんです。たとえば墓参りをするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りにいくということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないのか。」 

こう語りながら河合さんは、ボクたち人間の世界観のなかに"死後の生命の存在"というものを組み込んだ“曼荼羅”をつくる作業の大切さを述べている。 それは宗教世界のことを指しているとも考えられるし、宗教とは無関係の思考を促しているとも考えられる。河合さんらしい寛容で懐の広い世界である。

死後の生命の存在、この言葉ほど今の日本人の生活感覚と程遠いものはないだろう。人間の生物学的な生命の断絶として死があると考えるかぎり、死は遠く厭うべき事柄でしかない。路上で霊柩車に出会ったら親指を握ってやり過ごすといった死の捉え方しか生まれてこないのは当然だ。死はただ悲しくて残忍で嫌なものだ。 

しかし死はただそれだけのものなのだろうか、とボクは思っている。若菜の死はそれは悲しいもので、彼女が斃れてからボクが起き上がるのにとてつもない時間がかかった。彼女も幼い二人の子を残していく無念はどれほどのものだったろう。そのことを思えば胸がつぶれる思いがする。 

しかし、である。ボクは若菜の死によって多くのものを戴いたことに驚いている。人間はいずれ死ぬ、死は避けることはできない、だから今日生きていることが、かけがえのないものなのだという感覚を、ボクは彼女の死から戴いた。そして死は生の断絶ではないし、生のなかに死を織り込んで生活しているという感覚も、ボクの中にはっきりある。そしてボクは河合さんの言うように、死後の生命の存在を主題にしながら、若菜の眠る墓の前に立つようになっている。これも若菜の死から戴いた“恩寵”なのだ。 

岩手県花巻市には宮沢賢治が花巻農学校を退職した後生活した自宅が遺されている。この自宅には白いチョークで「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書かれた黒板が懸かっている。この黒板を見たときにボクは宮沢賢治が遠い昔の人であることを忘れ、家の裏側の畑にあの難しそうな顔をした賢治の姿を探したものだ。また内村鑑三翁は妻・しづとの33年目の結婚記念日の日記に、しづとの間に生まれ早逝したルツ子に触れて「ルツ子は天国に在りて不在」と記す(内村鑑三全集34、p.386、日記)。

ボクの墓碑には訪ねてきた者が迷わないように「天国ニ居リマス」と書くつもりだ。 

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[23]死が死んでいる社会

2021-06-20 09:05:41 | 生涯教育

一人の子どもへのいじめに複数の生徒学生や友人が加担し、教師たちもこれを軽視ないしは無視した結果、これに抗議して子どもが遺書を残して自死する、といった事案が後を絶たない。そのたびに胸が塞がれる思いがする。こうしたことが起こるたびに、社会のセーフティネットが機能していないこと、またいじめと自死の因果関係や背景が判然とせず一律に論じられない点があることなどが指摘される。このように自死といじめの関係性を探ることも意味のあることだが、ボクは違った角度からこうした物事をとらえる必要を感じている。

ボクはこれらの事案をめぐっては、いじめに加担した子どもたちや教師たちのなかには“死が強烈に生きていなかった”のだと考えている。言い方を変えれば“死は生のほんの一部分”と考えられていて、あたかもゲームソフトのように死の後にも生は再び復元できるかのように認識されていたのだと信じている。1本の鉛筆は使い切ればいつでも新しい鉛筆に替えることができる‥と考えられていたのだと。少なくとも”死は自らの実存とともに生きてはいなかった”のだ。

学校では受験のための知識の教育がなされ、理数教育や外国語教育の強化が叫ばれ、地球より命は重いのだといったパターン化した知識教育はされていても、死に関する教育はほとんどカリキュラムに組み込まれてはいない。だが家庭の中でも社会の中でも、死は忌まわしいものとして忌み嫌われ、非生産性の極まった現象であるのだから、どんどん上の学校に上っていくのに死の教育など無視されて当然なのかもしれない。社会では生存のための生き残りの術、拝金生活が唯一の価値となっている。死んだ者の話をしてもその場限りで耳にも入らないし、聞きたくもない、死は通夜や葬式の一過性の儀式だけであって、その場を一旦脱出すれば、死は日常の話題にさえのぼらない。

死は遠い。死は当面棚上げにしておいて支障もないし邪魔な観念だ、ひたすら前を向いて、活動に生産に邁進しよう…このように考える社会では、死を考えたり話題にすることは後ろ向きの態度であり、生産性の停止であり、罪悪とされる。つまり“死は死んでいる”のだ。

しかしボクは考える。いじめと自死をめぐっては、いじめを行う子どもたちの中に、死が強烈に生きていたら、いじめの対象とした一人の子どものかけがえのない生を尊ぶ力が育ってはいなかっただろうか、と。死の思惟がもっと日常的な生活の中に息づいていたならば、たった一回限りの人間の生と死への想像力がもっと繊細に機能したのではないかと思うのだ。いじめや自死は回避できたのではないかとさえ思う。

事はすでに終ってしまった個々の自死事案のことではない。死を非日常性の中に押し込め棚上げするのではなく、死を日常性の中に織り込むこと、死を自らの実存として捉えること、死について人と話すことで、人間の生への感受性を強めることができると、ボクは信じている。具体的には教育課程に「死の教育」を組み込むことが今の時機には必須の事柄なのだ。

先述のようにボクは妻の死を契機として、「死への準備教育」が社会の中に必須のものだと考えるようになった。しかしA.デーケン氏と企画した『叢書:死への準備教育(全3巻)』も、人間の生命を助けるための医学看護学教育に「何故死の教育が必要なのだ」と企画は頓挫しかかったことがあった。こうした誤解曲解を解くためには時間がかかることも覚悟しておかなければなるまい。

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[22]在宅ホスピス

2021-06-19 18:02:33 | 生涯教育

正岡子規『病牀六尺』『仰臥漫録』(岩波文庫)では、既に名の聞こえていた新しい俳句運動の指導者として作句を続けながら自宅で療養生活をしていた子規の世界が克明に記されている。明治三十年代中頃のことで、カリエスという当時では難治の疾患で療養生活を続けていた子規は、自分で寝返りもできなくなって苦しい日々を妹や母親の看病でしのいでいた。時には看病をしてくれる彼女らに理不尽な癇癪を起こしたりする様子の記録は、読んでいて胸が詰まる。しかし一方で彼の目は、病床で新しい俳句の境地を開拓し続けていた。

ここに記された子規の在宅での療養生活の情景は、治療の方法や医療制度が大きく変わったとは言え、今日のものと基本的には変わらないものだろう。子規が家族と暮らし毎日の食膳のメニューや間食、カリエスの瘻孔の包帯交換や便の回数と性状、病床から見えた庭の朝顔、瓢箪や糸瓜等の記録やスケッチができたのは自宅での療養生活だったからである。医療が十分ではない頃のこととて子規の場合は自宅での療養がやむを得ない選択であったし、今日とは単純に比較することはできないが、長い間生活を続けてきて馴染んだ自宅で家族の顔を見ながら療養生活ができたことが子規の内的世界を広げたとも言える。

ボクは上に記したように、今でも彼女を自宅で療養させられなかったことを悔いる部分がある。子規と全く異なる時代だし家族の状況も異なるし病状も違うが、彼女が子どもたちと生活していた家で、子どもたちと、自ら植えた小さな庭木の花をつける様や飛んでくる蝶、小さくのぞく青空や雲の姿を見ながらの療養生活ができたなら、彼女はどれほど和んだことだろうか。

今日では在宅ホスピス活動を可能にする制度が作られている。病院と地域のかかりつけ医と訪問看護の連携も制度として保証されている。在宅での緩和ケアの方法も確立されつつある。いつでもどこでもというわけにはいかないが、在宅での療養生活を可能にする状況が整備されてきた。だからもし彼女の療養生活が今の時代だったらよかったなと思うことがしばしばある。今であれば「家で死にたい人」は堂々と手をあげることは可能となった。

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