最後に最近亡くなられたニコライさん*の話をします。ニコライさんが日本に来たのは今から50年前、文久年間のことでした。
*(注:聖ニコライ、1836-1912、ロシア帝国に生まれた。1861年に来日、日本に正教〈ギリシャ正教とも呼ばれ、ロシア正教会等を含む〉を伝道した。1884年には東京にニコライ堂を建設、その生涯を日本への正教の伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり日本で永眠した。谷中墓地に葬られている。)
その時25歳のニコライさんは「私でもお役に立つのなら日本に行かせてください。但し今の私には婚約者(許婚)がいるので、日本に行くことになれば断ります。そうしたら日本を自分の妻として愛します。二人の妻をもつことはできませんから、どちらかに決めなくてはなりませんので早く決めてください。」と申し出ました。25歳の青年の言葉として誠に清々しく気持ちの良い言葉です。
そして遂に日本に来ることになり、最初は函館に着きました。50年前の日本ですからキリスト教などに耳を傾ける者などはおりません。ニコライさんは「花嫁はまだ寝ている。これから起こそう」という報告を正教の本山に送ったそうです。
以来今日まで50年間、日本のために生命を捧げて伝道しました。そしてその生活の簡素なることは驚くばかりでした。ロシアで大主教と言えば、日本の本願寺の大谷さんとも言われる立場の人です。しかも貴族でした。宮殿に住み大勢の家臣を従え、外出には立派な馬車を用います。しかしながらニコライさんは、これができるのにしませんでした。実に質素な暮らしをしていました。彼の書斎には机と椅子と寝台のほかには何もありませんでした。
寝台が厚いレンガの壁に着いていますので七十余歳の老人の身体がそれに着いてさぞ冷えるだろうと、信者の女性が二枚の絹の布団を贈りました。しかしニコライさんは、それを一晩用いたただけで棚に上げてしまいました。翌日給仕の者がこれを見て、使えばよろしいのにと忠告しましたが、「もったいない」と言って亡くなるまで寝台では使わなかったそうです。
日露戦争の当時は、彼のところには幾度となく「殺すぞ」「火をつけるぞ」といったような威嚇する手紙が送られてきました。たびたび(在京の)オーストリア公使館から「逃げて来るように」と注意されましたが、彼は信仰の勇士でした。彼は言いました。「もし神様の命令であるならば、鉄の箱に逃げて入っていても殺されます。神の命令でない以上は、いかなる危険な所にいても殺されることはない」と。そしてことさらに往来の人の目につく窓際や玄関先で仕事をしていました。彼が死を恐れなかったことは敬服するばかりです。
ニコライさんが病気になり、死期の近いことを知ってから、より一層勉強をして仕事途中であった祈祷文の翻訳を病院で終えてしまいました。築地の聖路加病院で青山博士の往診があった際に「私の命はあと何日間ですか、どうぞ偽りのない所をお話しください」と話しました。博士は脈をとりながら、「そうですね、長くて3週間、短くて2週間です」と回答しました。するとニコライさんは非常に喜び直ちに自宅へ帰りまして、人の忠告も聞かないで風呂に入り、身体を清浄にし、いつでも棺に入ってもいいように自分で始末されました。
それから本山に出すべき会計報告と、日本に残すべき決算にかかりました。それは大変な作業だったのです。そして最後の数字を「8」と書くべきところを「5」と書いたのに気が付いて、それを書き直すと、その瞬間後ろに倒れて、魂は天国に行きました。ですからこの世における仕事で残ったものは一つもなかったそうです。この偉大なる大主教の遺産は、古い着物が三枚あっただけだったそうです。何と清き偉大なる死にざまだったことでしょう。
以上述べたような死に方を我々もしたいならば、キリストの弟子となるに優る方法はありません。私は今晩はこの事だけは話したかったのです。
我々は必ずいつか来るべき死について、平和に死ぬことのできるこの力を得たならば、どんなに幸せなことでしょう。この力を獲得するためには、キリストによるより他に途はないと思います。この事についてあらかじめ備えをしておくことは、お互いの生涯にとって最も必要なことです。
(「平和なる死」/おわり)