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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ237] 日本人とか日本社会とか(17) / 日本人の”癒し"と"慰め” 

2023-05-09 08:49:50 | 生涯教育

日本の「臓器移植法」の成立に関しては、人体の臓器を他人に移植すると言う現代医学の進展によってもたらされた革新的医学技術の採用の可否をめぐって、数年間にわたって議論が沸騰した。その結果1997年に法律は制定された。それ以後日本人の臓器提供者は欧米に比較すれば(移植する臓器にもよるが)、比較的少数で推移している。「臓器」の「移植」は日本人の「性分」にそぐわないのかもしれない。神から与えられた自分の身体の臓器を他の人の生命と福利のために提供することに抵抗感の比較的少ない欧米の人たちと比較すると、あるいは日本人の身体感覚は曖昧で盪(とろ)いのかもしれない。神との対峙で鍛錬されてきたキリスト教徒の国の人間との違いが「臓器移植」という医学技術の適用に如実に表れているのかもしれない。そして正月には神社に初詣、結婚式はキリスト教式、葬式は仏教式、クリスマスにはケーキを喰らう、地鎮祭に神式の祝詞‥宗教的にはハチャメチャ日本人がごく一般的な日本人だ。宗教的な厳密さや厳格さが比較的薄いのだろう。これは日本人の”寛容さ”というより”きまぐれ””いい加減さ”を示すものとも言える。これをあながち悪いとは言えないが。

鑑三翁の日本人観を見ながら考えてみる。

【 今日の日本人は実際的には無宗教の民である、寺院はあり僧侶はいるが、是は主として死者を葬るための機関である。今の日本における宗教とは日本人の外的生命の一部分であって、これに宗教の名を冠する価値はない。つまりこれは政治の一種であり、古くからの習慣の一面と見てよいだろう。ところがその結果はどうだろう。日本人には独立の意見を持つ者がいなくなったのである、内面に深い生命が宿っていないゆえに、日本人は”世間の風潮の傀儡児”となってしまったのである、秋の野に稲穂が風になびくように、今の日本人は世間の世論に完全に支配させられて、自分の意見は持っていたとしても、それを外部に発表するだけの勇気はない。ひたすら世間の時勢に従うことを最上の処世術と考えるようになってしまった。それはそのはずである。内面に深い生命を湛えていない今の日本人は、外部の生命を除いてしまったら他にこれに対抗するに足るだけの内面の生命を持っていないのである、国家と社会と親戚の外に、さらに偉大なさらに力のある権威の存在を認めることのできない者が、独創的な意見を懐いて独り世に立つことができるはずがない。】(全集21、p.468)(大正4年10月「聖書之研究」183号、山形県鶴岡市での講演録)

鑑三翁は次のように日本人の特性を見る――日本人の宗教は葬式仏教の如くで無宗教のようなものだ、だから内心に深い生命観や独創的な意見を持てず、独立した意見を持つ人間として育たず、その結果世論の風潮や時勢に従うのが処世術となっている、国家と社会と親戚のほかには力ある権威を知らない民だからだ――と厳しい。

「ロックも人民の抵抗権を語り、ルソーも社会契約論を打ち出した。これらはみな、すべての人間が「超越神」によって「神の似姿(にすがた)」として等しく創られ、超越神から「権利」を与えられて、超越神との間に「契約」を結んだという観念を持つキリスト教の発想抜きには語れないだろう。逆に、その一教的超越神の発想がない文化圏の国では、いくら普遍的人権や契約関係を言葉として取り入れても、それが「国家を超えた権利」であるという考え方に結びつくことは意識的な実践なしには自明とはならない。」(竹下節子:神と革命がつくった世界史. p.27、中央公論新社、2018) 「自由/人権/権利」も意識的な実践がなければ自明とはならない、との竹下氏の指摘は時代を超えて鑑三翁の上記の言葉の真実を裏付ける考え方である。

また日本人は風月や四季の自然の営みにとりわけ鋭い繊細な感性を表現する。そして感情的な落ち着きや安息を好む。だが鑑三翁に言わせれば、その日本人の心性こそが安易に流れ甘い曖昧な日本人を形成することになると言う。これをキリスト教と比較しながら「慰め」について記している。

【 他の事に紛らわせて、しばし鬱の気分を忘れるというのが東洋思想の「慰め」である。だから東洋人は時に風月に親しみ、あるいは詩歌管弦の楽しみによって、人生の憂さや苦しみをその時だけ忘れることが「慰め」だと思っている。従ってそれ以下の低級な「慰め」の道も起こり得る。(このようにして東洋人/日本人は)正面から人生の痛みや苦しみと対峙して闘うことをしない。そしてそこから逃避して、他の娯楽によって自分の鬱の気分を慰めるというのは、誠に浅い、弱い、退嬰的な姿勢態度である。聖書で言う「慰め」というものは、決してこのような類いのものではない。】(ヨブ記講演、岩波文庫、p.118、2014)

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[Ⅳ227] 日本人とか日本社会とか(7) / 田中正造翁の侠気やよし

2023-03-24 12:50:00 | 生涯教育

明治政府は欧米列強と肩を並べようとして、富国強兵のスローガンを掲げて様々な産業振興策を展開した。その一つに足尾銅山の開発がある。1877(明治10)年には、実業家・古河市兵衛が渋沢栄一の出資が後押しとなり足尾銅山の再開発に乗り出した。その結果足尾の産銅量は1893(明治26)年には年間5000tを超え全国一の銅山に成長した。銅は導電率に優れ世界の電気産業を牽引する必須の金属であった。

ところが足尾銅山の開発と隆盛は、一方で深刻な環境被害を生み出した。木材需要の急増で周辺の山林は伐採され精錬所の煙害で酸性雨による立ち枯れを起こした。また銅の生産過程で生じる鉱滓から大量の鉱毒が発生し周辺の土壌や渡良瀬川に流出し、鉱毒による魚類の死滅や米・耕作物の立ち枯れが深刻となり、近隣住民の生活を脅かし続けたのである。

これに異議を唱えたのが地元選出の衆議院議員田中正造(1841-1913)だった。彼は被災した農民とともに立ち上がり鉱毒問題を国会で取り上げた。しかし富国強兵を優先する政府は被害農民を逆に弾圧し始めたのである。田中正造(以下正造翁)は議員を辞職、1901年12月10日明治天皇に直訴に及んだが直訴は失敗した。この直訴状は今でも残る。直訴状の筆者は『万朝報』の記者で、鑑三翁の同僚で後に大逆事件で刑死した幸徳秋水。正造翁が書状に加筆、訂正印を押した跡が残っている。だが世論は沸騰し被害民救済の運動が一気に盛り上がっていった。正造翁はその運動の先頭に立って活動した。正造翁はその後役人の前であくびをしたとの嫌疑で入獄されたが、これは弾圧の一環としての冤罪であった。

ここで鑑三翁は怒りの声をあげた。次に掲げるのは1902(明治35)年6月21日の『万朝報』に掲載された記事である。文面は正造翁への激励と鉱山王と呼ばれていた古河市兵衛に対する糾弾であり、鑑三翁の内奥の忿怒が伺える。少し長いがその一部を現代語訳した。

【 田中正造翁の入獄は近来稀に聞く惨事である。鉱毒事件に関して少しでも考えたことのある人にとっては奇異の念にかられるだろう。正造翁が完全無欠の人でないことは私もよく知っている。しかし今のような罪悪に満ちた社会にあっては、無私無欲の人間が多くはないことを私は保証しよう。困窮する人たちの救済にその半生を使い、彼らを死滅の淵から救おうとする外に、何一つ切望する物もなく快楽も欲していないこの正造翁は、この今の明治という時代の現代の義人と言っても誉め過ぎにはなるまい。‥田中正造翁に比べて、翁に大きな苦痛をもたらした原因となった古河市兵衛の状態を考えてみてはどうだろう。もしこの世に正反対の人物があるとするならば田中正造翁と古河氏である。この二人の人物はおおよそ同年齢だが、一人は刑法により投獄され、困窮の民を作り出し続ける古河市兵衛氏は朝廷の覚えよく正五位を賜わり‥七人の妾を養い、十数万人の民を飢餓に追いやって明白な倫理の道を犯しつつあっても、法律に明文がないので、彼は正五位の位階で世間を堂々と闊歩している。私はこの事を思うと、現代の法律というものは多くの場合、人間の正邪を判別するには全く十分でないと言わざるを得ない。】(全集10、p.213-15)

鑑三翁はさらに足尾銅山事件に対する薩長政府の対応とその無能を指弾している(前掲『万朝報』)。タイトルは「無能政府」。

【 足尾銅山事件は、科学者の判断をもって判断すべきである。ところがこれに関しては何年もの間判定がなされない。無能政府なるが故である。人間の判断力を消耗させるのは欲心である。判断が遅いのは欲心の故である。金もなく力のない学校の教員や新聞記者に対しては、彼らは不敬であり大臣の面子を汚したのだから投獄すべきであると。こうした時の判断は早い。ところが金満家に関しては、法律家の提示する疑問点をあれこれぶつけて判断がいつも遅い。古河市兵衛に対しては躊躇なく瞬時にこれを庇護する。民衆の嘆きの声は聞かない、これを耳にするのを恐れ.る。これらは光明を恐れる者の行為であり、暗黒を愛する者の行為なのだ。】

鑑三翁は被災地近隣の町で行われた講演会で弁士として出席し、足尾銅山の規律なき開発の不当性を訴え、古河市兵衛や薩長政府を指弾した。そして被災している村民と正造翁への支援を呼びかけ全国に寄付を募った。鑑三翁はこうした活動のほかに、「公娼制度廃止」に関しても、女性の人権を擁護する立場から全国への講演活動を行っていることも特筆しておきたい。

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[Ⅳ206] 女が男を保護する事(6) / 女性性に尊崇の念を

2022-12-31 22:07:15 | 生涯教育

さて本日は鑑三翁がキリスト・イエスの”女性性”に深く尊崇の念を抱いていたことを示す一文を紹介する。この一文に示された鑑三翁の視点は「全集」に収載された論稿の中でも珍しいものである。「女が男を保護する事」を考える上で重要な示唆を含んでいるので、少し長文だが引用して現代語訳した(全集27、キリスト伝研究、p.385-)。

この論稿の要点は、「家事」を専らとする家庭の主婦の仕事は、狭義の家事の範疇を超えて家族全員の至福のためのはたらきであって、それは神の仕事を支える愛の所作であり女性性のなせる業であり、男性には到底手の届かない所作であるとする。そして人間の真の幸福は彼女たちの手から生まれ出て来ることを鑑三翁は感動の心と共に記している。「女が男を保護する」という視点から読んでみたい。少し長いがご寛恕のほどを。現代語訳を三回に分けて分載させていただく。

【 家事の祝福(注:以下を参照せよとしている。マタイによる福音書8:14-15、マルコによる福音書1:29-31、ルカによる福音書4:38-39)。

イエスがペテロの妻の母親が熱病に苦しんでいるのを癒された、という事実は、初代の教会においては非常に重要な事柄だったらしい。三つの福音書が共にこの事柄を記録している。中でもマルコによる福音書が最も詳細に記しており、ルカとマタイがこれに次ぐ。イエスは無闇に奇蹟を行ったわけではなく、奇蹟を行う際にはそれを行うに足りるだけの理由があることを知っていたことが重要である。三福音書がこの奇蹟をとりあげているということは、何かそこには深い意味のあったことが推測される。そしてその意味を探るに際して最も良い手引きがマタイによる福音書の記事である。記者がイエスの行われた数多の奇蹟の中から、代表的な九個を選び、そのうちの一つにこの奇蹟を加えた理由を知ることができる。勿論のこと我々にとって奇蹟は真実の奇蹟であって、近世科学をもって説明し尽すことはできないものだ。

〇第一に注目すべきは病気の癒された者がペテロでもなく、彼の妻でもなく、彼の妻の母すなわち姑であったということだ。即ちイエスにとって縁の遠い者であって、彼の伝道事業にも関係の少ない者であった。我々は彼女に会うのはただこの場所だけであって、その後の彼女の生涯に関しては聖書は何も記してはいない。ペテロの妻は彼と共に伝道に従事したことはコリント書9章5節のパウロの言葉によって知ることはできるが、イエスに癒された彼女の母がその後どうなったのか、消息は知られていない。彼女は伝道史上きわめて小さな地位に止まる者だ。

〇ところがこの女性(注:原文は「婦」)にこの奇蹟が行われたのである。そしてそのすぐ後に記された奇蹟は、イエスが大風を鎮められたという宇宙制御を示す奇蹟を行われたことを知る一方で、このような小さな物事のように見える奇蹟に深い偉大なる意味を発見しなければならない。イエスはガリラヤ湖畔における活動の一日に、イエスが本陣と定められたペテロのつつましい家庭において、その炊事の任にあたっていた彼の妻の母が、多分その地の風土病とされた熱病に悩まされているのを見て同情され、手を差し伸べて彼女に触られると熱は直ちにひいて、彼女は床から起きて彼らに仕えたというのである。この事はエルサレム郊外のべタニアにおけるマルタ、マリアの姉妹に関わる記事(注:ルカによる福音書10:38-42。イエスを迎え入れた家で姉のマルタは台所仕事で忙しくしているのに、妹のマリアはイエスの傍に座りイエスの話を聞いていたので、マルタはそれをなじった。するとイエスはマルタに言う「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と。) この話と同じで、イエスの”家庭味”(注:ここでは父親が大黒柱のように全権を握った家庭ではなく、母親が家の中心にいて家族が和み慈しみあうイメージを鑑三翁は「家庭味」と言ったのだろう) 中心の家庭を示すものであり、これは麗しい家庭小説の一節と見て、純金の価値があるものと言うことができる。】      (現代語訳つづく)

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[Ⅲ165] 我がメメントモリ(32) / うんこ・おしっこ・お化粧   

2022-08-04 20:41:50 | 生涯教育

   

毎日三度の食事もトイレでの排泄も、健康な人間にとっては当たり前の事柄である。しかし一旦病気になると、何気なく行っていたこれらの所作が、とてつもない“大仕事”となる。

若菜の場合もそうだった。彼女にとっての“食”は格別の意味をもっていたし、排泄も同様だった。病気の侵襲が激しくなるに従って、消化管は閉塞し始め便も出にくくなった。それでも当初は歩いてトイレに行くことができたが、衰弱も次第に激しくなってくると、嫌がりながらもベッド上での排泄を受け入れるようになって行った。

ベッド上でのトイレッティングについては、彼女はずいぶんと看護師と押し問答を繰り返していた。ボクも転倒のことが気になっていたし、その点では看護師と同意見だったが、彼女が看護師とやり取りするのを聞いていて、ボクの本心は彼女の拒否する姿勢を応援していた。看護師のサイドでは看護診断のアセスメントと看護計画マニュアルが出来ていたのだろうが、彼女のなかにはそんなものは存在していなかった。それは彼女自身が作ればいいとボクも考えていた。結局彼女の“抵抗”も空しく現実を受け入れることになったのだが、何よりも自分でトイレに歩いていくという意志を固く持ち続けることが彼女の命綱にもなっていたことは確かなことだ。

個室に入ってからは、トイレが部屋の中にあったことも幸いして、ベッド上でのトイレッティングを止め、再び自分から歩いてトイレに行ける日々が続いたのは幸いなことだった。身体も辛かったのだろうが、自分でトイレにいくのだ‥という意志と態度は人間にとって大切なものだ。

ところで病院では患者が化粧することをどのように考えているのだろうか。化粧品の匂いや顔の白粉は病状判定の妨げにはなることもあるだろう。しかし、である。患者にとっての化粧は、病状判定以上の意味をもつこともある。そのことを医療者は知るべきだろう。壁塗り様の厚化粧は論外として、特に難病の患者の場合などは配慮が欠かせないと思う。 

若菜はいくども鏡で自分の顔をのぞき込んだことだろう。顔色も悪く頬の骨が浮き出した自分の顔を、どんな思いで見たことだろう。こんなときに化粧をしたいとする彼女の心根は、全く健全なものだったと思う。化粧も自らタブーにするほど病に犯されてはならないのだ。彼女はだからよく化粧をした。ボクも勧めたし幾度も彼女の口紅を唇に塗ってあげた。彼女にとって化粧は大切な生の部分だったのである。

「ものを食う」「うんこ・おしっこ・化粧」それぞれの所作は、元気で生活している健常者には窺い知れない深い意味と価値があることを、彼女の闘病の日々で知った。彼女の身体は絶望的に病んでいた。しかし彼女の精神は勢いを落とすことなく、山を駆け上っていたのだった。ボクらが気づかない何気ない所作を彼女は生の“仕事”とすることで「生の自由」を表現していたのだった。

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[Ⅱ121]  さらば、鑑三翁 (1)

2022-02-27 10:36:39 | 生涯教育

「鑑三翁に学ぶ死への準備教育」連載における鑑三翁の論稿の「現代語訳」は最終段階です。今回から始める『さらば、鑑三翁』では、鑑三翁自身が迫り来る自身の「死」をどのように見つめ、これをどのように記したのか、そして鑑三翁の死を看取った人たちは、鑑三翁の言動をどのように記録したのかを読んでみたいと思います。

鑑三翁は「書く人」でしたから生涯で厖大な著作を遺しました。現在私たちが容易に閲覧できる岩波書店版『内村鑑三全集・全40巻』は、鈴木範久氏らの編集によって、1981年~84年にかけて出版されました。この全集の総頁は21,332頁にのぼります。そしてこれを再編集したものが岩波書店版『内村鑑三選集・全8巻/別巻1』で、1990年に刊行されました。

私の続けてきた連載は、これらの中から私自身が日本の「死への準備教育」(Death Education)のために意義あると判断したものを選定し、これらの論稿を今の若い人たちにも容易に読むことができるように「現代語訳」したものでした。

考えてみれば、人間の「死」というものは、鑑三翁の著作に限らず、人間が洋の東西を問わず物語ってきた大方の著作物が扱っている主題とも言えます。鑑三翁の著作物の中でも、私が選定した論稿以外にも適切なものが数多あると思われます。

2020年9月に亡くなられたアルフォンス・デーケン氏らが1980年代中ごろにわが国に導入した「死への準備教育」(Death Education)という思想は、霊柩車が目の前を走行する際には親指を覆い隠してやり過ごすといった習慣のように、人間の死を直視することなく「死をタブー視」する日本の伝統的な見方・考え方に少なからず影響を与えました。

デーケン氏の主宰した「生と死を考える会」/「東京・生と死を考える会」の活動は全国各地に支部ができるほど盛んになりました。NHKでもデーケン氏による「人間大学」講座「死とどう向き合うか」が放送されました(1993年7月~9月)。

その後もわが国では「死」に関する教育プログラム(カリキュラム)が幼児教育から成人教育にわたって開発されてきました。一方デーケン氏らの運動の影響も少なからずあって、終末期の患者も「尊ばれて最期まで生きつづける」権利のあることがあらためて確認され、ターミナルステージにおける医療看護ケアの内容に急速に注目が集まるようになり、緩和ケアに対する医療者の関心が強くなりました。また緩和ケア病棟(ホスピス)も制度化されてきました。そして終末期を看取る「在宅ケア」が現実の施策となったのです。以上のような教育界、とりわけ医療界をめぐるこうした動きは、日本の医療の場で「死」のケアに大きく重点が置かれるようになったという点で”革新”がもたらされたと言えます。このような革新にデーケン氏らの運動や著作が大きく寄与したことは否めません。

さて私たちは2019年以来covid-19の感染の脅威に晒され続けてきました。2022年2月中旬時点で、この新しいウイルスの感染症による感染者は4億人を超え、死者は世界で576万人、日本でも死者は2万人を超えました。

私たちは、covid-19に限らず、今後類似の新たな感染症の脅威に今後も晒され続けます。そしてこの感染症によってもたらされる「死」は、私たちの「死」の看取りに関しても変容を迫っています。すなわち感染力の強い疾患であるがゆえに、ターミナルステージの患者は「隔離」されることが必要なために、家族であれ親しい者であれ時間をかけての看取りが容易にできないこと、死にゆく者を両手で抱くことができないこと、従来のような関係者の集まる葬儀ができないこと、遺体の処置にも感染制御の対策が必要なこと等々、死の看取りを取り巻く患者や私たちの行動にも変容が求められています。そしてこうした行動変容によって、私たちの死生観にも変化が起きてきているように思われ、したがって「死への準備教育」の内容にも変化が迫られていると考えます。

さて次回からは鑑三翁自身が、迫りくる自分の死や病をどのように捉えていたのかがよくわかる鑑三翁の「日記」及び周辺の人たちの記録から、鑑三翁の病と死の周辺を共に考察してみましょう。さすがの鑑三翁も病気の症状の辛さを嘆きその苦しさを正直に記していて、病状の具合に一喜一憂する心情が伝わります。

 

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