ああ神よ許してください。あなたはあなたの子どもを傷つけられました。子どもは痛みの故にあなたに近づくことができませんでした。あなたは彼女が祈らないから彼女を捨てたのでしょうか。否です。あなたは彼女が祈るとき、より強く彼女に恵みを与えてくれました。彼女が祈ることができるときには、あなたの特別の恵みと慰めとを必要とはしませんでした。彼女が祈ることができないとき、彼女はあなたの擁護を最も必要としたのでした。私は、慈しみの心を持つ母親が、その子どもが病気になったときには、非礼な言葉を吐き小言ばかりを言っているときにこそ慈愛が普段より深くなって、病気の子どもを熱心に看護する姿を見ました。あなたは無限の慈しみを有する母親のように、私が悲嘆の苦しみの中にあるときには、普段の元気なときとは比較にならぬほど私を愛してくれました。私の愛する者がいなくなって後、私が宇宙の漂流者となったときにこそ、あなたは私に対して無限の愛を表してくれて、私があなたを捨てようとするとき、あなたは私の後を追いかけてきてくれて、私をあなたから離れられないようにしてくれました。
祈りは無益なものではありません。十数年間一日の如く朝も夜もあなたに祈りを捧げてきたがゆえに、今日このように思いもしなかった喜びと慰めをあなたから受けることができるのです。
ああ父なる神よ、私はあなたに感謝します。あなたは私の祈りを聴いてくださいました。あなたはかつて私に対して、肉のために祈ることなく霊のために祈りなさい、と教えてくれました。それ以来私は私の愛する者と共に祈る際には、この世の幸福のことを祈ることはしませんでした。もしこれを祈るときには、「もし神の御心に適うのであれば」と一言申し添えました。自分の願い事を聴いてくれときには信じ、そうでないときには恨むというのは、偶像に願い事をする者が行うことであって、キリスト教信者のすべきことではありません。ああ私は祈りをやめることなどできるでしょうか。私は今夜から以前に勝る熱心さで祈りを神に捧げるつもりです。
時には悪霊が私に告げて言いました。「あなたは熱心な祈りによって不治の病気を治した例を知らないのか。あなたの祈りが神に聴き入れられなかったのは、あなたの信仰の熱心が足りなかったからなのだ」と。もしそうであるならば、私が愛する者が亡くなったのは私の熱心が足りなかったからなのでしょうか。そうならば彼女を死に至らしめたのは私にあると言えます。私は実に私が愛した者を殺したも同然です。もし信仰の熱心さが病気の人を救い得るとすれば、その信仰の熱心さのない人は哀れです。私は私の信仰の足らないことを知りました。しかしながら、私は私のあらん限りの熱心さで私は祈ったのでした。でも聴かれることはありませんでした。それでもなお私の信仰の熱心さが足りなかったとして私を責める人がいても、私は私の運命に任せるしかほかに道はなかったのでした。
ああ神よ、あなたは我々の持っていないものを請求することはありません。私は私の持っている限りの熱心さで祈りました。ところがあなたは私の愛する者を取り去りました。父なる神よ、私は信じます、あなたが私たちの願うことを聴かれたのであれば、あなたを信じることはたやすいことです。そして願うことを聴かれないとすれば、なお一層あなたに近づくことは難しくなります。しかしあなたから特別の恩恵を受けることができるのですから、後者(注:神に聴かれないこと)は前者に勝っているとも言えます。もし私の熱心な祈りにもかかわらず、あなたが聴かれなかったことを理由にして私が挫けるのだとすれば、あなたは必ず私の祈りを聴いてくれることでしょう。
(注:本項は反語的表現や言い回しが多くあります。鑑三翁の文章の特徴です。)