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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ41] 『愛する者を喪ったとき』(5)

2021-05-15 11:21:28 | 生涯教育

       

ああ神よ許してください。あなたはあなたの子どもを傷つけられました。子どもは痛みの故にあなたに近づくことができませんでした。あなたは彼女が祈らないから彼女を捨てたのでしょうか。否です。あなたは彼女が祈るとき、より強く彼女に恵みを与えてくれました。彼女が祈ることができるときには、あなたの特別の恵みと慰めとを必要とはしませんでした。彼女が祈ることができないとき、彼女はあなたの擁護を最も必要としたのでした。私は、慈しみの心を持つ母親が、その子どもが病気になったときには、非礼な言葉を吐き小言ばかりを言っているときにこそ慈愛が普段より深くなって、病気の子どもを熱心に看護する姿を見ました。あなたは無限の慈しみを有する母親のように、私が悲嘆の苦しみの中にあるときには、普段の元気なときとは比較にならぬほど私を愛してくれました。私の愛する者がいなくなって後、私が宇宙の漂流者となったときにこそ、あなたは私に対して無限の愛を表してくれて、私があなたを捨てようとするとき、あなたは私の後を追いかけてきてくれて、私をあなたから離れられないようにしてくれました。 

祈りは無益なものではありません。十数年間一日の如く朝も夜もあなたに祈りを捧げてきたがゆえに、今日このように思いもしなかった喜びと慰めをあなたから受けることができるのです。 

ああ父なる神よ、私はあなたに感謝します。あなたは私の祈りを聴いてくださいました。あなたはかつて私に対して、肉のために祈ることなく霊のために祈りなさい、と教えてくれました。それ以来私は私の愛する者と共に祈る際には、この世の幸福のことを祈ることはしませんでした。もしこれを祈るときには、「もし神の御心に適うのであれば」と一言申し添えました。自分の願い事を聴いてくれときには信じ、そうでないときには恨むというのは、偶像に願い事をする者が行うことであって、キリスト教信者のすべきことではありません。ああ私は祈りをやめることなどできるでしょうか。私は今夜から以前に勝る熱心さで祈りを神に捧げるつもりです。 

時には悪霊が私に告げて言いました。「あなたは熱心な祈りによって不治の病気を治した例を知らないのか。あなたの祈りが神に聴き入れられなかったのは、あなたの信仰の熱心が足りなかったからなのだ」と。もしそうであるならば、私が愛する者が亡くなったのは私の熱心が足りなかったからなのでしょうか。そうならば彼女を死に至らしめたのは私にあると言えます。私は実に私が愛した者を殺したも同然です。もし信仰の熱心さが病気の人を救い得るとすれば、その信仰の熱心さのない人は哀れです。私は私の信仰の足らないことを知りました。しかしながら、私は私のあらん限りの熱心さで私は祈ったのでした。でも聴かれることはありませんでした。それでもなお私の信仰の熱心さが足りなかったとして私を責める人がいても、私は私の運命に任せるしかほかに道はなかったのでした。 

ああ神よ、あなたは我々の持っていないものを請求することはありません。私は私の持っている限りの熱心さで祈りました。ところがあなたは私の愛する者を取り去りました。父なる神よ、私は信じます、あなたが私たちの願うことを聴かれたのであれば、あなたを信じることはたやすいことです。そして願うことを聴かれないとすれば、なお一層あなたに近づくことは難しくなります。しかしあなたから特別の恩恵を受けることができるのですから、後者(注:神に聴かれないこと)は前者に勝っているとも言えます。もし私の熱心な祈りにもかかわらず、あなたが聴かれなかったことを理由にして私が挫けるのだとすれば、あなたは必ず私の祈りを聴いてくれることでしょう。 

(注:本項は反語的表現や言い回しが多くあります。鑑三翁の文章の特徴です。) 

 

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[Ⅱ38] 『愛する者を喪ったとき』(2) 

2021-05-07 11:54:42 | 生涯教育

私は死の学術的な知見を知り、心理的な意味や価値を知り尽くしていたつもりでした。しかしながら、凍ったような手の冷たさが私の愛する彼女の遺体から伝わると、私が連日連夜熱血を注いできた祈祷にもかかわらず、また彼女の命を救うためならば私の全身全力を投げうって、私の命を捨てても構わないという真心の看護を続けてきたにもかかわらず、無残・無慈悲にも私の命よりも貴いものを私の手からもぎ去られたときにはじめて、死というものの深い意味、痛み、哀しみ、苦しさを知ったのでした。 

生命は愛ですから愛する者を喪ったときには私自身を喪ったも同然です。この完全で最も美しい神の造られた世界も、いつも私の心を絶対的で無限の世界に誘ってくれて不滅の光でもって照らされていた青空も、春が来るたびに私に永遠と希望の雅歌を歌ってくれた親友のような森の鳥たちも、菊の花の香りが漂う頃にいつも秋空に聳えて国土を愛する情愛をもたらしてくれた富士の山も、私の愛する者を喪ってからは、星はその光を失って夜も暗く、鶯の声は哀歌を奏でるように聞こえて心を哀しくさせたのでした。麗しい富士の山も今は私の心にとっては何物でもありませんでした。かつて私がアメリカに住んでいたとき、ニューハンプシャー州のモナドナック山の倒扇形の山容やエクアドルのコトパクシ山の高さを望み見たときに、それらが私の故郷のものでないだけに、その美しさと厳しさがかえって私の孤独と悲哀を呼び起こしたように、私にとってこの世は異郷と変わり、私はこの世に生きているのに、この世の者ではないような者となったのです。 

愛した者を喪ったことによってもたらされる苦痛というものは、単にこの世を失ったことだけに止まりません。この世はいつか去らなければなりませんから、今失っても30年後に失っても大差ないものと考えます。しかしながら、私の真心が貫かれることがなかったことから、また私の精一杯の願いとして溢れ出した祈祷が聴かれなかったことから(それは人間の眼からの評価ですが)、私は懐疑の悪鬼に襲われ、信仰の拠って立つ土台を失ってしまい、これを地上に求めても得られず、これを空に探っても見当たらず、無限の空間に私の身体も心も置くべき場所を失ってしまいました。これこそ本当の「無間地獄」であって、永遠の刑罰というのはこの事だと考えました。私はキリスト教の信仰をもったことを悔いました。もし私に「愛なる神」という思想がなかったならば、このような苦痛はなかっただろうと考えました。また私は人間として生まれてきたことを嘆きました。もし愛情というものが私になかったならば、私にはこのような落胆はなかったのです。ああどのようにしてこの傷を癒すことができるのでしょうか。 

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[Ⅱ34]鑑三翁の思想の著しい特徴(2) 

2021-04-27 12:50:02 | 生涯教育

※世論について: 

「輿論は神の声なりと意(おも)ふは非なり、神の声は常に輿論に反対す、昔時の予言者は皆悉く輿論の反抗者なりき、人類何者ぞ、聖書に曰くエホバ天より人の子を望みて悟る者、神を究(たず)ぬる者ありやと見給ひしに皆な逆(そむ)き出て悉く腐れたり、善を為す者なし、一人もなしと(詩編十四篇二、三節)、神を反き去りし人類の輿論は神意を伝ふるものにあらず、吾人は神の言たる聖書に聴くべし、悪人が多数を占むる社会の輿論なるものに従ふべからず。(全集13、p.122) 

「世が当時善人と見る者は大抵は悪人である、世が当時悪人と見る者は善人である、神に叛(そむ)きし此世の輿論は大抵の場合に於ては神の真理と正反対である、我等は此心を以て人の批評を聞き、日々の新聞を読むべきである。」(全集16、p.386) 

※司法や裁判所について: 

「我れまた日の下を見しに 審判(さばき)を行ふ所に邪曲(よこしま)なる事行はる、公義を行ふ所に邪曲なる事行はる」と(伝道之書三章十六節)、裁判所の腐敗である、裁判官の堕落である、司法権の蹂躙である、国法の濫用である、コーへレスは之を見て憤慨に堪えなかったのである、故に之を矯め之を正し国家と社会とを其根柢より潔めんとしたのである、然れども嗚呼、此場合に於ても他の場合に於ける如く「曲れる者は之を直からしむる能はず」であった(同書一章十五節)、腐敗は依然として継続せられた、司直の任に当る者は種々の言を構へて邪曲の邪曲ならざるを弁じた、…彼は司法官の無能に失望して神に頼るに至ったのである、誠実なる改革の努力に常に此利益が伴ふのである、人は社会と政府と協会に失望して神を信ずるに至るのである。」(全集21、p.62) 

※日本及び日本人について: 

「日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある、彼等は唯我(が)を張るに強くあるのみである。忌々(いまいま)しいことは彼等が怒る時の主なる動機であって、彼等は深く静に怒ることが出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎(か)をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜(よ)いのである。電気鰻(うなぎ)が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心裡を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知って彼等を少しも恐れなくなるであらう。…「深遠、深遠に応ふ」と彼等(※基督教国)の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起った理由は茲(ここ)に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲り又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。」(全集28、p.200) 

「日本国は情実国である、随(したがっ)て其教会は情実の巣窟である、此国で最も好まるゝ人は「優しい人」と称(とな)へられて明白なる不義背徳を見逃す人である、之に反して最も嫌はるゝ人は「無慈悲の人」と称へられて正道は如何なる情実をも排して勇敢に之を実行する人である、日本人は其信者なると不信者なるとを問はず、すべて湿った人を愛して乾いた人を嫌ふ、」(全集19、p.431)  

「日本の天然は美しくある、其社会は悪しくある、居心(いごころ)の悪い社会とて日本の社会の如きはない、其点に於て米国の社会と雖も優(はるか)に日本のそれに勝る、何故に然る乎と云ふに、日本の社会に在りては敵と味方とが判然しないからである、…宗良(むねなが)親王の名歌に曰く「諏訪の湖(うみ)や氷を渡る人の世も神し守らば危(あやう)からめや」と、実に能く日本人の心中を歌ふた歌である、日本人の社会は氷を以て張詰めたる諏訪湖の如き者である、之を渡る者は何時信頼の友に裏切られて苦痛の深淵(ふかみ)に陥るかわからない、…唯神の守護に依りてのみ是等「偽り兄弟の難」を免かるゝ事を得るのである。(コリント後書十一章廿六節、テモテ後書四章十四、十五節等参考)。」(全集26、p.508) 

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[Ⅱ33]鑑三翁の思想の著しい特徴(1)   

2021-04-25 18:59:41 | 生涯教育

鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものでした。しかしながら鑑三翁の内奥にある考え方や思想には、往時の教会の組織活動や牧会活動、神学及び神学教育には見られない独特の思想/考え方が見られます。その代表的なものは「無教会主義」の思想です。鑑三翁はその独特な考え方や思想を「聖書にもとづく信仰」の一点を揺らぎなく守り続けながら、時には舌鋒鋭く批判・批難し世に訴えました。時にはたっぷり皮肉を込めながら、時には諭すように話し、執筆しました。 

このような鑑三翁のユニークな思想/考え方は、一般社会に向けて、あるいは教会信者や伝道者、神学研究者、海外からの宣教師に向けて発せられましたが、これらの多くは伝統的な考え方や権威主義的な思考、当たり前の通念の問い直しを迫るような強いメッセージを含んでいるのが大きな特徴です。鑑三翁の著作等から「無教会」「プロテスタント主義」「信仰」「真理/知識/自由」「世論」「司法や裁判所」「日本及び日本人」「仏教観」「政治観」といった事柄につき、ごくごく一部を原文のまま拾ってみました。明治・大正・昭和という激動の時代を生きた鑑三翁ですが、このような信仰等の姿勢に関しては、右顧左眄せず、慮ることなく忖度せずに、堅固で一貫した姿勢を保ち続けたところに大きな特徴があります。「死への準備教育」からは横道にそれますが、鑑三翁という人の全貌を少しでも知っていただきたいと考え記しました。 

※教会と無教会について: 

「教会は人のためであって、人は教会のためでない、余輩は教会の不必要を唱へない、同時に亦無教会の必要を認むる。」(全集19、p.439) 

「無教会主義の理由を知らんと欲する乎、之を余輩に問ふを要せず、直に教会其物に就て視るを得べし、其教師の嫉妬と反目と排擠とを見よ、其信者の奪合を視よ、其協会員の不義と不正と不実と不信とを視よ、然らば余輩に問うことなくして無教会主義の理由は自づから明かなるべし、教会其物が無教会主義の最も力ある証明者なり、」(全集17、p.213) 

※プロテスタント主義について: 

「神の外、何者にも依らざる、是れプロテスタント主義なり、若し教会に依るの必要あらん乎、我儕は復たび羅馬天主教会に還るべきなり、蓋(そは)其組織の完全にして其系統の確実なる、此旧教会に優るものゝ他に存せざれはばなり、然れどもルーテル一たび信仰の自由を唱へてより地上の教会は不必要物と成れり、我儕プロテスタント主義者は信仰養成のために教会を利用することあるべし、然れども其指導を受くるにあらざれば我儕の救済を全うする能はずと信ずるが如きは我儕本来の主義にあらず、我儕は忠実なるプロテスタント主義者として飽くまで教会の主権に反対す。」(全集12、p.241) 

※信仰について: 

「基督教に在りては改宗は単にさとりでない。救主との直接個人関係の成立である。」(全集30、p.380) 

「基督者の信仰生活は半信半行ではない、全信無行である、我が恵信僧都は此信仰状態を歌ふて曰ふた「夏衣ひとへに西を慕ふかな 裏なく弥陀に頼る身なれば」と、我等の信仰の目標はキリストである、」(全集23、p.357) 

「斯くてすべての善き信者は小児(こども)であった、パウロもルーテルも、コロムウェルもムーデーも、我がシイリ―先生も皆小児であった、彼等の偉大なる人格と該博なる知識と強健なる意志とは彼等が小児らしきことを妨げなかった、彼等は日々の糧を父に仰ぎ、日々の教導を彼に求め、愛せらるゝ小児の如くに彼に効(なら)はんと努めし者であった、故にあどけなき所があった、嬉々として恩恵を楽しむ所があった、…彼等は又容易に人を信じた、故に人に欺かれ易くあった、…彼等は容易に人の善を信じて容易にその悪を信じなかった、…彼等は老いたる小児であった、老いて老いざる者であった、」(全集23、p.372) 

※真理/知識/自由: 

「且つ汝等真理を識らん、而して真理は汝等に自由を得さすべし(ヨハネ伝八章三十二節)。此一節の中に三つの大なる詞(ことば)があります、其第一は「真理」…第二は「識る」…第三は「自由」であります。…「真理」と訳したのが抑々(そもそも)誤解の始めであります、学問上の真理ではありません、信仰上の実態であります、空虚に対するの実物であります、真(まこと)の理ではありません、実(まこと)の者であります、…「識る」とは「在る」ことであります、我を彼の衷(うち)に置くことであります、…一体になることであります、一心になることであります。「真理を識る」こと、即ちイエスと一体になること、其結果が「自由」であるとの事であります、…「自由」は罪を犯さない自由であります、」(要約)(全集19、p.197-99) 

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[Ⅱ31]内村鑑三という人(1)

2021-04-23 13:24:27 | 生涯教育

前回までの連載(鑑三翁に学ぶ死への準備教育[1]~[30])では、私自身の体験から書き起こした「死への準備教育」に関する私の考え方を記しました。今回からの「第二部」では、私自身が大きな影響を受けた明治・大正・昭和を生きた言論人にしてキリスト者・内村鑑三(以下[鑑三翁]と表記します)の厖大な論稿の中から、「死への準備教育」を学習するに際して、私が必須と考えた論稿を選定し、その「現代語訳」を中心に学んでいきたいと思います。私の過去の連載でも鑑三翁に関しては何度か触れていますが、鑑三翁が人生の危機を乗りこえて執筆されたいくつかの論稿は、同様な体験をした私にとっては大きな励みとなりました。 

ところで鑑三翁の死後90年近くが経過して、近年『明治の光 内村鑑三』(新保祐司、藤原書店、2018)、『内村鑑三 悲しみの使徒』(若松英輔、岩波書店、2018)といった鑑三翁の研究者の手による著作が相次いで出版されました。これも鑑三翁の思想や信仰への再評価を示すものと考えられ、また混迷の時世にある日本にあって、日本及び日本人の進むべき航路と精神を鑑三翁の中に見出すことができると確信した人たちの労作とも言えます。場末の寓居で黙々と鑑三翁を読み耽る私もその一人です。 

ところが一方では、「今さら何故内村鑑三なんて古い‥」とか、「無教会主義のキリスト教なんて危険思想‥」とか、「今のITの時代に明治の思想家なんて‥」とか、最も多い声は「内村鑑三なんていう人、名前も聞いたこともないし、どんな人かさっぱりわからない」という誤解・曲解の声が私の元に届きます。しかし私はそれらの人たちにはぜひ内村鑑三の世界を探索して、著作実物をお読みいただきたいと願っています。キリスト教の信仰をもつ人にも、そうでない人にも、必ずや鑑三翁の声はあなたの胸の奥底に響くものがあると確信しています。 

※ 

内村鑑三(1861-1930)は、高崎藩の下級武士であった父親・内村金之丞宜之(母ヤソ)の長男として、1861(万延2)年父親の赴任地江戸小石川に生まれました。鑑三翁は1977(明治10)年札幌農学校に第二期生として入学しました。同期生に新渡戸稲造、宮部金吾などがいました。そしてW.S.クラークの「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、翌年メソジスト監督協会宣教師M.C.ハリスから受洗しました。ここからキリスト者としての鑑三翁の歩みが始まりました。札幌農学校を卒業後、農商務省水産課に勤務、ここでは魚類や漁業政策に関する本格的な論文も発表しています。 

1884(明治17)年には渡米し新島襄の勧めでアマースト大学(J.H.Seeley総長)に入学、1887(明治26)年には同大学を卒業し理学士の称号を受けました。その後コネチカット州のハートフォード神学校に入学しますが、4か月後病気(注:慢性不眠症)のため退学し帰国しました。なおアメリカでは到着直後の一時期、障がい児施設の看護人の仕事を経験しています。 

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