
この悲嘆感情からの脱出について、もう一つの例がボクの印象に残っている。内村鑑三の例である。内村は明治・大正・昭和を生きたキリスト者で、聖書中心主義による無教会活動を展開し多くの弟子を育てたことで知られる。
内村鑑三は明治24年に妻・かずを喪っている。鑑三が31歳のときだった。このときの痛烈とも言える体験を『基督教徒の慰』に記している(「愛するものヽ失せし時」)。深い信仰と優れた指導力のゆえに、すでに指導的立場にあった鑑三にとっても、結婚して2年足らずの妻の死は信仰をぐらつかせるほどの衝撃の大きさだったのである。ボクは、彼がこのように記しているのを読んで深い共感を覚える。
「‥余は懐疑の悪魔に襲はれ、信仰の立つべき土台を失ひ、之を地に求めて得ず、之を空に探って当らず、無限の空間余の身も心も置くべき処なきに至れり。之ぞ真実の無限地獄にして永遠の刑罰とは是事を云ふならんと思へり、余は基督教を信ぜしを悔いたり、若し余に愛なる神てう思想なかりせば此苦痛はなかりしものを、余は人間と生れしを嘆ぜり、若し愛情てうものヽ余に存せざりしならば余に此落胆なかりしものを、嗚呼如何にして此傷を癒すを得んや。」「‥余は余の愛するものヽ失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも今は神なき人となり、恨を以て膳に向ひ、涙を以て寝床に就き、祈らぬ人となるに至れり。」
どこを探しても慰めはなく、天も神も信仰も恨むような日々が数か月間続いたのである。彼の心は亡くなった妻・かずの声と姿を探して嵐のようにかずに向かっていたのだ。その喪失感のなかにあって彼は神への祈りさえも捨てたのである。
こうした鑑三を気遣って、医師は睡眠薬などを勧め、友人たちは転地や旅行を勧めたらしい。牧師たちや親友たちも様々に慰めの言葉をかけたのだろう。しかしそれらは何の効も奏さなかった。彼自身も“哲理的の冷眼を以って死を学び思考を転ぜんとするも”無駄なことだった。そして“荒熊の如くになり「愛するものを余に帰せよ」”と心のなかで叫ぶ毎日だった。
しかしそれからが鑑三の半端でないところだ。彼はある日妻の墓に詣で塵を払い花を手向けていた。そのときに(天の声か妻・かずの声か)こんな細い声を彼は聞いたのだ。
「汝何故に、汝の愛するものヽ為めに泣くや、汝尚ほ彼に報ゆるの時をも機をも有せり、彼の汝に尽せしは汝より報を得んが為めにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんが為めなり‥」
そして鑑三は“余の愛するものヽ肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真性の配合は却て彼が失せし後にありしとは”という達意を得た。妻・かずの死が明治24年4月のことで、この一文「愛するものヽ失せしとき」の書かれたのが26年2月のことであるから、この転機はやはり相当の時間が経過してからのことだった。そして彼は再び信仰の徒として深い祈りの生活に入っていった。それは間違いなく、より高い頂を目指してのものだった。
しかし彼には、その後再び深刻な危機が訪れることになる。娘・ルツ子の死である(明治45年)。この19歳の娘の死も、鑑三にとっては深刻な打撃を与えた。しかしこの経験は、妻・かずの時とは悲嘆の様子が違っていた。
「祝すべき哉(かな)疾病(やまひ)」という一文は、ルツ子の死の直後に書かれたものだが、ここでは次のように記される。「‥彼女を死に至らしめし疾病が彼女の霊魂を完成するに於いて偉大の効力ありし事は疑ふべからざる事実なり。…無邪気なりし彼女は六ヶ月間の病苦に由りて成熟せる信仰的婦人となれり。疾病は彼女の肉を滅して彼女の霊を救へり。故に余輩は言ふ。「祝すべき哉疾病」と。」
その心の裡なる悲嘆の深さは彼自身にしか分らないことだが、このルツ子の死の際には、妻・かずのときに比べて、信仰の徒として、はるかに強く高い所に彼が上っていたことを示す一文である。と同時に妻・かずの経験が鑑三の心の中に深く刻印されていて、ルツ子の死を受け入れる場所が完成していたことにもよるだろう。だがいかなる深い信仰者であれ、肉親の死は痛烈な悲嘆をもたらすことに変わりはない。
愛する者の死は、遺された者に深い悲嘆の感情をもたらす。その心は病んでいるのかもしれない。しかし共に生き生活していた愛する者の生命が失われたら、遺された者の心は病むのが“正常”な反応である。そしてその病んだ心を自ら引き受け回癒するのを待つのだ。内村鑑三は、そのようにして再び愛する者の心と“合し真性の配合”に至れと語っているのだろう。それは何もキリスト者だけに向けられたメッセージではなく、信仰無き者への言葉として聞くことができる。