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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[9]死―対決と受容 

2021-06-13 09:10:26 | 闘病記

ここで高見順の日記を再び開いてみよう。“おもしろい(?)現象”という書き出しで彼が次のように書いているのが目にとまった。亡くなる4か月ほど前のある日の日記である。

「この間うちのように身体が弱ると、ものを書くことも、ものを読むことも、ものを考えることもできない。そのうち、すこし体力気力が回復してくると、一、ものを考えることはできる。しかしものを書くこと、ものを読むことはできない。二、次に、ものを書くことができるようになっても、ものを読むことは不可能。ここがおもしろい(?)。書くことが稼業だったせいか、今こうして、日記を書いているところからすると、ずいぶん体力気力が回復したみたいだが、まだ、ベッドに寝たっきり。(中略)三、ものを読むことは、まだできぬ。新聞や雑誌をパラパラと見る程度のことはできるが、単行本を読むことはできぬ。これはなかなか大変な作業なのだと分った。ものを読むということは、今まで、ラクなことだとばかり思っていたが、ものを書くよりもずっとむずかしい作業なのだ。」

ここには身体の病が、人間の知的活動を根本から揺り動かしているという実感が表現されている。だから病気をもった人間を、このようなところから見てあげることも、とても大切なことなのだろう。

高見は、それでも死の直前まで書き、死を考え、死と対峙し対決し闘っていた。この日記はそんな彼の姿を彷彿とさせるに充分だが、このような姿には痛ましさを覚える。

高見の場合は、若菜とは対照的な印象を受ける。このような違いはどこから出てくるのだろう。人生を生きてきた姿勢や考え方によるものなのだろうか。

それとも女性性と男性性による違いなのだろうか。ユングが『ヨブへの答え』(みすず書房)のなかで、次のように記していることと考え合わせてみたい主題である。「完全性は男性の望むことであり、それに対して女性は本質的に十全性を求める傾向がある。‥完全性は必ず袋小路に行きつくが、十全性は一方向的な価値を欠いているにすぎない。」

多田富雄さんの著書『生命の意味論』(新潮社)と併せ読むと、死についての「女性」と「男性」の捉え方の差―何かこの難題がわずかながら解けてきたような気がしている昨今である。

 

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[8]死―実存する身体

2021-06-12 17:42:23 | 闘病記

若菜がたった2日間の病床日記しか書かなかった、あるいは書けなかったのは、身体の不快な症状が続き、侵襲の大きな検査や治療が続いたこと、何よりも癌が急激に彼女の身体を蝕み始めて身体の力が失われていったことによるとボクは考えている。その衰弱の様子は、健康なボクたちには計り知れないほどの病の暴力を見せつけるものだった。

ボクたちは自分の脳で知的活動を行っていることを知っている。物を考えたり、本を読んだり、物事を記録したりする作業はこの脳の働きによるものだ。ではこの脳さえ病気に侵されていなければ、これらの知的な活動はいつも続くものなのだろうか。ボクはノーだと思う。ボクらがひどい風邪を引いたときや、長く続く腹痛のときのことを考えてみればいい。そんなときのボクは何を考えるのも億劫で、普段の習慣としてやっている好きな作家の読書や日記をつけたりする作業もする気が起こらない。テレビや好きな映画を見ても、音楽を聴いても何も感動が湧かないことをしばしば経験する。つまりボクらの身体は脳の働きと直結している。脳はいい気になっていても、身体が挫折すると脳も挫折を体験することになるのだ。

彼女の場合も、入院の当初はこのように日記も書いたし、友人がお見舞いに届けてくれる本などもあっという間に読み終えた。彼女の望んだ編み物の本や竹西博子、岡部伊都子の本、松本清張の文庫なども、ボクはせっせと家から彼女のもとへ届けたものである。彼女は読むのが実に早かったので、新しい本を病院の駅前の書店で買って行く日もしばらく続いた。また小さなテレビを叔母のところから運び込むと、新聞の番組表を見ながらチャンネルを選んで楽しんでもいた。

しかしそんな日々はそう長くは続かなかった。彼女は次第に読書を億劫がるようになり、テレビにも次第に関心を示さなくなっていった。関心を引きそうな特集記事の載った雑誌を届けても開かれないまま枕元に置かれていた。

このような変化は、食欲が次第に落ちてきたこと、嘔気や腹水が出てきて次第に衰弱が目立つようになってきたことと一致していた。身体は彼女の脳を完全に裏切るようになってきていた。この時期は、キューブラー=ロスの段階説に則って考えれば、初期から中期の段階を行きつ戻りつしていた時期ということになるのだろうか。よくわからない。いずれにせよ彼女の絶望が深まっていった時期であることは事実だ。

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[7]死/心の世界

2021-06-12 09:20:07 | 闘病記

若菜とは深い共感とともに心でつながっていることは実感できていても、死に直面している彼女の心の世界が、ボクにいつも測れていたわけではないことも確かなことだ。目と目を合わせて二人で頷いたとしても、それは哀しくも完全な心の一致をみられるとは限らない。人間には目があり言葉があっても、同時に完璧な二人の世界に住むことはできない哀しさがある。ここは夢見る創作詩の世界ではない。

死にゆく人間の心の世界を解き明かしたと言われるのが、エリザベス・キュブラー=ロス(1926-2004)というスイス生まれのアメリカの精神科医。代表的な著作『死ぬ瞬間-死にゆく人々との対話』(読売新聞社)がある。日本でもベストセラーになった。

彼女の研究は1960年代にアメリカで始まった。その研究は、死にゆく患者を医療の手を離れたものとして見捨てるのではなく、一人の実存する人間として見直すための研究だった。死の床にある患者に自分たちの教師になってもらい、その心の中の恐怖や心配、希望を全て語ってもらうという革新的な試みであった。それはまた、今日の社会が死をうとましいものとして遠ざけているように、医療現場の死にゆく患者が、科学技術の進歩から疎外されている状況に対する挑戦でもあった。このような研究には当然のことながら当時の医療者たちから冷ややかな目が向けられた。

しかし、彼女を中心とする医師、医学生、神学生らのグループは、およそ2年半の時間を費やして約200人の患者にインタビューを実施した。その結果、死に至る患者の心理過程には共通する「段階」があることを明らかにしたのである。この本の中心をなすのがこの「段階」の解説である。それは「第一段階:否認と隔離」「第二段階:怒り」「第三段階:取り引き」「第四段階:抑鬱」そして「第五段階:受容」である。そしてその後に「希望」が加わることもある。

これらの段階を例証するために、インタビューした患者とのやりとりと分析が必ず提示されている。この研究で明らかになったのは、死にゆく患者の心理過程にはこの「段階」があるという事実なのだが、言うまでもなくこの「段階」を全ての人が順序通りに踏んでいくわけではないし、どこかの段階に留まったままの人もいるし、またこれらの段階を行きつ戻りつする人もいることもコメントしている。

この本を読んだ直後のボクの率直な感想は、欧米と日本の彼我の文化の違いを感じたこと、全ての患者に病名を告知することを前提とするアメリカの医療との違和感を意識せざるを得なかったことだ。

若菜の死を看取った経験からは、もっと大まかで重層的な心理の動きであると思われるし、段階を明らかに踏んでいったという印象はほとんどない。それに加えて病気の侵襲の程度、つまり身体的な力がある時期と、衰弱してきた時期とでも異なるのではないかと思われた。キューブラー=ロスの研究結果とは裏腹に、大いなる違和感が未だに残っている。

しかしながらこの研究は、とても貴重で革新的なものであることに間違いはない。死にゆく患者は、治癒への医学的手立てが無くなる時期と並行して軽んじられてきた。ましてやその心の世界には深い関心が払われることはなかった。このような状況の中で、この研究成果は、死にゆく患者も“生きた人間”であるという自明のことを啓発し続けている。次第にベッドサイドから遠のいていく医療者が、医学的アプローチ以外の方法で、再び訪れなければならない根拠を示しているのだ。(なお先述のアルフォンス・デーケン氏の場合は12段階だったが、大きく異なるところはないと言ってよい。デーケン氏の考え方のほうがやや細かな段階となっている。)

作家・高見順は『闘病日記』(岩波書店)を残している。彼は昭和38年10月に癌を宣告され、手術も受けるのだが、その間病床で実に様々な事柄を記している。手術の翌年のある日、それまでの読書記録とか日々の細々とした記載が突如消えて「死をおもう」「夜、ひそかに慟哭」といった記述だけになっている。また昭和40年4月の終わり頃にはこのように記している。「内面的に、ほんの瞬間のことだが、今からおもうと、死との和解のときがあった。言いかえると、死とのたたかい(心理的な)を私は放棄した。そのとき正に死が来たのだ。‥明るい瞬間だった。しかしそれはすぐ去った。死も去ってくれたわけだが。」この“和解”とは、キューブラー=ロスの「受容」にあたるのだろうか。

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[6] 最後のラブ・レター

2021-06-11 17:46:29 | 闘病記

若菜はとても筆まめな人間だった。ボクと結婚するまでの1年半ほどは毎日欠かさず“ラブ・レター”をくれた(それに比べてボクは1週間に1回ほどの割合でしか書けなかった。ボクが彼女の尻に敷かれっぱなしだったのは、このことに起因しているかもしれない。これら何百通もの彼女の手紙は今でも大切に保存してある。)。結婚してからも彼女は日記を丹念につけていた。その日記は、毎日の生活を共にしているボクや子どもたちへの優しいメッセージに満ちていた。

若菜が最後に山形に行ったのは、静雄が生まれた年の夏のことだった。ボクのお盆の夏休みに合わせて家族4人で帰郷した。静雄にとっては初めての山形だった。若菜と敬一、静雄を父母と姉のもとに託して一人東京の仕事場に戻ったボクにも、若菜は毎日モーニングコールをくれたし、手紙もくれた。これは何年ぶりかの若菜の“ラブ・レター”で、これが彼女からのボクへの最後の手紙となった。手紙には敬一の描いたイラストが同封されていた。

『こちらは相変わらず涼しい日が続いています。きょうは敬一の長袖のシャツやズボン、パジャマ等を買い込んできました。不自由させてごめんなさい。申し訳なく思っています。帰ったらせいぜい償わせてもらいます。涼しくなったので、静ちゃんも食欲が出てきました。敬一もまた元気になりました。テレビもラジオも高校野球の中継ばかりなので、敬一も野球づいています。私はすっかりのんびりして、おっぱいの出が少しよくなったみたいです。敬一がおとうさんの顔を書くというので、手紙も書かせました。これからいっしょにポストまで行きます。私も昔(!)みたいに手紙を書きたいと思ったのですけれど…。あと十日ほどよろしくお願いします。くれぐれも火の元には気をつけて下さいね。食事だけはちゃんととって下さい。では明日の朝またモーニングコールをいたします。  若菜  八月十一日夕方』

《そして敬一がカラーサインペンで描いたボクの顔と静雄の顔を描いた絵と、次のような手紙が同封されていた。》

『ひろきよりおとうさんへ おとうさんげんきですか ぼくもげんきです おとうさんもきのうかいしゃにいって ぼくもようちえんもたのしいよ ぼくおむかえにきてくれるまで おりこうにしています しずちゃんわよいこ でも ゆびだけなめています』(若菜の解読添え書きつき)

☆若菜の二日間だけの病床日記

彼女が入院したとき、ボクはボクの書きかけのノートを彼女に手渡した。時間が出来るから何かしら書きたいと彼女が望んだからだった。しかし入院後たった二日間を書いただけで、その後には真っ白な頁が続いている。その二日間の記録は彼女の絶筆となった。

《2.1.午後、さっきまで青空の中に雲が浮かんでいたのに、いつの間にか雲の間に空がある。でも病室は暖かで顔がほてっている。2時少し過ぎにアイスクリーム。冷たくておいしかったけど、小さなカップ1コのアイスクリームがこんなに食べごたえがあるものだと感じたのはきょうがはじめて。食事も食べたというほどではないけれど、検査のT病院のときとくらべると、食事をしたという感じがする。くるところまできた、というひらき直りか、意外と落ち着いている。ただ何となく臭い(ニオイ)がきのうの胃カメラを連想させる。同室の人の話を聞いていても、透視、胃カメラが避けられないようで、観念しなければならないのだろうけれど。気が弱くなっているせいか、みんなに甘えることでごまかしているみたいだけれど、早くよくならなければ…。敬一も小さな胸を痛めていることだろうし、静雄にも忘れられてしまわないように。N婦長があいさつにみえる。ドギマギしちゃう。陽だまりの病室。カーテンしめてもまだぽかぽか。そのせいかどうか37℃。腕の筋肉まだ痛い。担当医師の診察は時間がかかって不安になる。》

《2.4.父上京。すぐその足でユウキといっしょにきてくれる。大分落ち着いたけれど、お腹の水がたまったのとガスがたまったので少し苦しい。2月4日は敬一の第2の誕生日。ユウキに言われるまで思い出せなかった。やはり自分のことで頭がいっぱいなのだろう。ユウキから手紙。読みながら涙がとめどもなくあふれ出た。うれしさと申し訳なさとでか…。ユウキの愛の深さ、大きさを改めて知る思いがした。ほんとうにありがとう。それにこたえるためにも一日も早く元気になります、必ず。》

この日から以降なぜ彼女は何も書かなくなったのだろう。あるいは書けなくなったのだろうか。彼女は入院中死について書き記すこともなかったし、ボクらも死について若菜と語り合ったこともなかったけれども、彼女はやがて来る自分の死をはっきり認識し、覚悟していたことは確かだった。ただ気持ちの揺れが不確かながら、時に手にとるように分かるときもあった。しかしそれは、これこれこうとはっきり説明できるようなものではなく、時にボクや叔母の好子が肌で感じる類のものだったのだが。

死は彼女のなかでは決然と覚悟するだけの事柄であって、おののきながらもあれこれと詮索し観念としてとらえ書き綴るものではなかったのだ。病気とは最後まで闘ったけれども、死は彼女にとって闘いの対象ではなかった。死を覚悟した彼女には、土を耕し続け大地とともに生きてきた節くれた手をした朴訥な農婦のような存在感があった。彼女の前では、死に慄き涙するボクの存在が何と小さく見えたことだろう。

そんな彼女にとって、死についてあれこれ書き記したりすることには、大した意味はなかった。日々愛する二人の子どもやボクたちと気持ちを分かち合い時間を過ごすこと、その今の日常が彼女の全てだった。それは日が昇ると畑に出て、日が暮れると家に帰るという単純な農婦の毎日と何ら変わることがない日常だった。その単純さは彼女の人生そのままだった。

 

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[5] 鑑三翁悲嘆から甦る

2021-06-11 09:10:04 | 闘病記

この悲嘆感情からの脱出について、もう一つの例がボクの印象に残っている。内村鑑三の例である。内村は明治・大正・昭和を生きたキリスト者で、聖書中心主義による無教会活動を展開し多くの弟子を育てたことで知られる。

内村鑑三は明治24年に妻・かずを喪っている。鑑三が31歳のときだった。このときの痛烈とも言える体験を『基督教徒の慰』に記している(「愛するものヽ失せし時」)。深い信仰と優れた指導力のゆえに、すでに指導的立場にあった鑑三にとっても、結婚して2年足らずの妻の死は信仰をぐらつかせるほどの衝撃の大きさだったのである。ボクは、彼がこのように記しているのを読んで深い共感を覚える。

「‥余は懐疑の悪魔に襲はれ、信仰の立つべき土台を失ひ、之を地に求めて得ず、之を空に探って当らず、無限の空間余の身も心も置くべき処なきに至れり。之ぞ真実の無限地獄にして永遠の刑罰とは是事を云ふならんと思へり、余は基督教を信ぜしを悔いたり、若し余に愛なる神てう思想なかりせば此苦痛はなかりしものを、余は人間と生れしを嘆ぜり、若し愛情てうものヽ余に存せざりしならば余に此落胆なかりしものを、嗚呼如何にして此傷を癒すを得んや。」「‥余は余の愛するものヽ失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも今は神なき人となり、恨を以て膳に向ひ、涙を以て寝床に就き、祈らぬ人となるに至れり。」

どこを探しても慰めはなく、天も神も信仰も恨むような日々が数か月間続いたのである。彼の心は亡くなった妻・かずの声と姿を探して嵐のようにかずに向かっていたのだ。その喪失感のなかにあって彼は神への祈りさえも捨てたのである。

こうした鑑三を気遣って、医師は睡眠薬などを勧め、友人たちは転地や旅行を勧めたらしい。牧師たちや親友たちも様々に慰めの言葉をかけたのだろう。しかしそれらは何の効も奏さなかった。彼自身も“哲理的の冷眼を以って死を学び思考を転ぜんとするも”無駄なことだった。そして“荒熊の如くになり「愛するものを余に帰せよ」”と心のなかで叫ぶ毎日だった。

しかしそれからが鑑三の半端でないところだ。彼はある日妻の墓に詣で塵を払い花を手向けていた。そのときに(天の声か妻・かずの声か)こんな細い声を彼は聞いたのだ。

「汝何故に、汝の愛するものヽ為めに泣くや、汝尚ほ彼に報ゆるの時をも機をも有せり、彼の汝に尽せしは汝より報を得んが為めにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんが為めなり‥」

そして鑑三は“余の愛するものヽ肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真性の配合は却て彼が失せし後にありしとは”という達意を得た。妻・かずの死が明治24年4月のことで、この一文「愛するものヽ失せしとき」の書かれたのが26年2月のことであるから、この転機はやはり相当の時間が経過してからのことだった。そして彼は再び信仰の徒として深い祈りの生活に入っていった。それは間違いなく、より高い頂を目指してのものだった。

しかし彼には、その後再び深刻な危機が訪れることになる。娘・ルツ子の死である(明治45年)。この19歳の娘の死も、鑑三にとっては深刻な打撃を与えた。しかしこの経験は、妻・かずの時とは悲嘆の様子が違っていた。

「祝すべき哉(かな)疾病(やまひ)」という一文は、ルツ子の死の直後に書かれたものだが、ここでは次のように記される。「‥彼女を死に至らしめし疾病が彼女の霊魂を完成するに於いて偉大の効力ありし事は疑ふべからざる事実なり。…無邪気なりし彼女は六ヶ月間の病苦に由りて成熟せる信仰的婦人となれり。疾病は彼女の肉を滅して彼女の霊を救へり。故に余輩は言ふ。「祝すべき哉疾病」と。」

その心の裡なる悲嘆の深さは彼自身にしか分らないことだが、このルツ子の死の際には、妻・かずのときに比べて、信仰の徒として、はるかに強く高い所に彼が上っていたことを示す一文である。と同時に妻・かずの経験が鑑三の心の中に深く刻印されていて、ルツ子の死を受け入れる場所が完成していたことにもよるだろう。だがいかなる深い信仰者であれ、肉親の死は痛烈な悲嘆をもたらすことに変わりはない。

愛する者の死は、遺された者に深い悲嘆の感情をもたらす。その心は病んでいるのかもしれない。しかし共に生き生活していた愛する者の生命が失われたら、遺された者の心は病むのが“正常”な反応である。そしてその病んだ心を自ら引き受け回癒するのを待つのだ。内村鑑三は、そのようにして再び愛する者の心と“合し真性の配合”に至れと語っているのだろう。それは何もキリスト者だけに向けられたメッセージではなく、信仰無き者への言葉として聞くことができる。

 

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