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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ124]  さらば、鑑三翁 (4)/日記(3)

2022-03-11 08:44:54 | 闘病記

3月13日(木) 雨

笹倉牧師の紹介で、氏の友人の横浜市真砂町田中病院長田中進氏の診察を受けました。実に常識に適う診察結果で、その治療法については別に薬を用いる必要はなく、ある一つの摂生法を実践すれば、全て遠からず快方に向かうでしょうとのことで大いに安心しました。いずれにしても生命に関わる病気ではないとの診断で、家族たちにも励ましをいただいた。信仰をもつ人の診断は全て希望的です。かつ簡単で徹底しています。このような病気の状況にあって、この医師の診察を得られたことは大いなる励ましと慰めとなりました。

3月14日(金) 晴

発病以来絶対安静と言われて牢獄のような生活で、五十日以上二階に籠城していました。この間の不快さは例えようもなく、病気以上の苦痛を味わいました。思えば近世医学は病気を治療しようとするあまり、病気以上の苦痛を患者に与えています。病気が苦痛であるということは、病気以上に医学が病者に与えている苦痛なのです。

今日は六十日ぶりに二階を降りて、家族とともに居住を共にすることができて、大きな喜びがありました。もしこのために病気のぶり返しがあれば、医学はもちろん強い詰責を与えるでしょうが、私は人類の幸福のためには、近世医学もこの点につき大いに考えるべきことを求めたいと思います。

いずれにせよ春が到来して万事が幸福になりつつあるのです。問題の解決者は人間にあらずして神と天然とであります。感謝すべきことです。

3月15日(土) 曇

三月も半ばです。今日はシーザーが暗殺された日で有名です。今から二か月が一年の黄金期です。この間には多分床を払うことができるだろう。しかし床を払うことができなくてもいい。病床ですべき病床での仕事があります。いかなる状況であっても、これに応じて神に仕えることができます。

何もかつてのように聴衆が平均毎回五百人という集会を引き受け、四年間にわたって帝都の中心地で十字架の福音を唱えたような仕事だけが、自分に遺された仕事ではありません。病の床にあって信仰の讃美歌一篇を歌うだけでも大いなる仕事です。そう考えてまず心に平安を得て、その後に恢復を図ることとしよう。

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[Ⅱ123]  さらば、鑑三翁 (3)/日記(2)

2022-03-07 18:26:15 | 闘病記

5月15日(水) 曇 

今日も多くの病気を指摘されました。やむを得ないことですが決して気持ちの良いものではありません。「肉の事を思ふは死なり霊の事を思ふは生命なり」であって、病気のためとはいえ肉のことを考えるときには、私の霊は塵にまみれるのはやむを得ません。ソクラテスは霊魂の健全さを保つためには、快楽や名誉はもちろんのこと健康(肉体)のことも第一義の問題としてはならないと言っています。

気を無視してはなりませんが、病気に全ての注意を奪われてはなりません。私の国は天にあって、私の本分は私の霊魂になければなりません。

5月16日(木) 雨 

医者は心臓が極度に肥大していると言いますが、自分としては精神が極度に疲労しているように感じます。神経衰弱ではなく、精神の衰弱です。霊魂の疲労です。生意気なことに、私は純粋の基督教をわが国の人々に与えようとして、あまりに一生懸命にやってきた故に、他人をも救うことはできず、自分をも殺してしまったように感じます。今はもっぱら休養、すなわち自分の立て直しに専念しています。

5月28日(火) 曇 

活動してはいけないと医師は言います。しかし活動があってはじめて生涯というものがあるのではないでしょうか。活動をやめるくらいなら死んだ方がいいのではないでしょうか。しかしそうとも言えません。活動よりも善いことがあります。それは信仰です。信仰は活動に代えて祈祷をするものです。自分に代わって神に活動していただくことです。あるいはまた神のご活動を私の活動として分けていただくことです。

(1930〈昭和5〉年)1月13日晴 

気分は悪く症状は良くありませんでした。ひょっとすると自分のこの世の仕事の終わりが来たのではないかと思いました。準備は既にできています。日本の武士らしく仕事を畳むことにしたいと思います。「自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。」(コリント人への第一の手紙9:15)。

(※翌14日夜鑑三翁は心臓発作起こします。)

3月12日(水) 晴

大先生(注:鑑三翁自身を指す)が病気になった時の苦痛は、多分天皇陛下が病気にかかられた時の如くに、淋しくて辛いものでしょう。信者の人々は、大先生は人生の事はことごとくご存じであるから、我々のごとき者が精神上の慰籍などを提供するのは無礼の極みであると思うらしく、誰一人として、友達となって、喜びの福音を話してくれる者がいません。

ただ看護、物資の提供、その他この世の人の為し得る援助を与えてくれる事に止まって、人生で最も尊いとされる所の精神上の力を与えてくれない。過去五十日間はこの点において、実に耐えられない寂寥を感じました。

ところが今日は、ある老姉妹が訪問してくれて、重病に罹った時の信仰維持の道を教えてくれて、本当にありがたかったのでした。人間はいかに大先生であろうとも、自分が通過したことのない道の様子は知らないものです。自分が人間の教師であるが故に、死に至るまでの道を知り尽くしていると思い、誰一人このように慰めてくれる者がいないことを思い、本当に人生の情けなさを感じました。しかし今日は始めてこの喜びに接して、限りない感謝を覚えました。

 

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[12]うんこ・おしっこ・お化粧 

2021-06-14 17:27:49 | 闘病記

毎日三度の食事もトイレでの排泄も、健康な人間にとっては当たり前の事柄である。しかし一旦病気になると、何気なく行っていたこれらの所作が、とてつもない“大仕事”となる。これは健康なボクたちも経験するところだ。

若菜の場合もそうだった。今触れたように、彼女にとっての“食”は格別の意味をもっていたし、排泄も同様だった。病気の侵襲が激しくなるに従って、消化管は閉塞し始め便も出にくくなった。それでも当初は歩いてトイレに行くことができたが、衰弱も次第に激しくなってくると、嫌がりながらもベッド上での排泄を受け入れるようになって行った。

ベッド上でのトイレッティングについては、彼女はずいぶんと看護師と押し問答を繰り返していた。ボクも転倒のことが気になっていたし、その点では看護師と同意見だったが、本心は彼女が看護師とやり取りするのを聞いていて彼女の拒否する姿勢を応援していた。看護師のサイドではアセスメントとマニュアルが出来ていたのだろうが、彼女のなかにはそんなものは存在していなかった。それは彼女自身が作ればいいとボクも考えていた。結局彼女の“抵抗”も空しく現実を受け入れることになったのだが、何よりも自分でトイレに歩いていくという意志を固く持ち続けることが彼女の命綱にもなっていたことは確かだろう。

個室に入ってからは、トイレが部屋の中にあったことも幸いして、ベッド上でのトイレッティングを止め、再び自分から歩いてトイレに行ける日々が続いたのである。身体も辛かったのだろうが、その意志と態度は人間にとって大切なものだろう。

ところで病院では患者が化粧することをどのように考えているのだろうか。化粧品の匂いや顔の白粉は病状判定の妨げにはなることもあるだろう。しかし、である。患者にとっての化粧は、病状判定以上の意味をもつこともある。そのことを医療者は知るべきだろう。壁塗り様の厚化粧は論外として、特に難病の患者の場合などは配慮が欠かせないと思う。 

若菜はいくども鏡で自分の顔をのぞき込んだことだろう。顔色も悪く頬の骨が浮き出した自分の顔を、どんな思いで見たことだろう。こんなときに化粧をしたいとする彼女の心根は、全く健全なものだったと思う。化粧も自らタブーにするほど病に犯されてはならないのだ。彼女はだからよく化粧をした。ボクも勧めたし幾度も彼女の口紅を唇に塗ってあげた。彼女にとって化粧は大切な生の部分だったのである。

「ものを食う」「うんこ・おしっこ・化粧」それぞれの所作は、元気で生活している健常者には窺い知れない意味があることを、彼女の闘病の日々で知った。彼女の身体は絶望的に病んでいた。しかし彼女の精神は勢いを落とすことなく、山を駆け上っていたのだった。ボクらが気づかない何気ない所作を彼女は生の“仕事”とすることで「生の自由」を表現していたのだった。

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[11]尊厳とともに食する

2021-06-14 08:31:23 | 闘病記

  

若菜が通過障害と嘔気・嘔吐を繰り返す姿は痛々しかった。食べたいと思ってボクに頼んだものが、いざ目の前に置かれても食欲は失せていたことが多かったし、食べたかったものを何とか口に運んでも、食後しばらくすると嘔吐してしまうこともしばしばだった。それでもなお彼女は、最後の日まで口からの食事を望んでいたし、それを命綱のように考えてもいた。高エネルギー輸液や経管栄養の話も医師から何度か提案されたが、彼女はそれを拒否し続けた。亡くなる1週間ほど前、ほとんど食事が口からできないような日が数日あったので、仕方なく輸液に頼った日もあったが、彼女はこれをとても嫌っていた。

輸液や経管栄養による栄養補給はたしかにいい方法である。薬液を混入させることもできるし、手術直後や経口摂取できない患者には、この方法しかない場合もある。しかし彼女のように病勢が激しく肉体を侵していても、なおそれを望まない者もいることをボクは知った。

輸液のために何時間かはベッドに寝たままを強いられるし、子どもが来ても抱きしめることさえできない。「私が望んでいるのは、栄養の補給よりも、歩いてトイレ行くこと、子どもを抱くことのできる両の手の自由なのだ」と彼女は考えていた。

自分の腕に刺入された針から伸びていくラインはどこまでも伸びていって、こんなメッセージをいつも彼女に送っていたのだろう。”オマエは病人なのだ、病人なのだから病人らしく振舞え。いささかの不自由は我慢して文句は言うな”という暴君じみた声である。この声はまかり間違うと、ごく普通の医療者の声に置き換わってしまう場合もあったのだ。

最近は病院の食事も格段の進歩を示している。適時に適温の食事を提供するようになってきている。病院によっては、複数のメニューから選択もできるようになってきている。病院給食がビジネスとして成り立つようになってきたことと、病院がサービスという点に注目してきた結果だろうか。しかしいずれにしても病院の患者食というものは大きな限界のあることは事実で、画一性からは脱却することは不可能だ。一人ひとりの嗜好に合わせたサービスを提供できる場ではないからだ。

ただ嗜好や栄養学的な問題の解決はさほど困難なことではない。嫌いなら食べずともよいし、栄養だけなら輸液等で補うことができる。病院で常に残される問題は、ものを食うという人間にとっての根源的な行為を、病気や障害によって奪われた人たちにどう確保するかという一点である。

彼女の場合、入院してしばらく経った頃から、毎日三度配られる病院の食事を大方受け付けなくなっていた。それでもなお彼女は口から“食”することを望んでいた。それは健常者の理解をはるかに超えて“ものを食う”ことへの執着と偏りを示していたが、ボクはそれに全て応えてあげようとした。食への強い意志が彼女の生への希望と自由につながっていたからだ。これは自らの人間としての尊厳を保ち続けることへの意志だった。

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[10]もの食う人間としての自由 

2021-06-13 17:06:04 | 闘病記

辺見庸の著作に『もの食う人びと』(角川文庫)がある。世界津々浦々人間は食わないでは生きていけないことを痛切に語って秀逸なドキュメントとなっている。哀しくも人間は食わないでは生きてはいけない、生きるために食うのか、食うために生きるのか、そんなことも考えさせる作品だ。同じように病者とて、ものを食いながら必死に生きている。

アイスクリーム!/フルーツゼリー!/茶巾寿司!/カニちらし寿司!/グラタン/サラダサンドイッチ!/くずもち/卵サンドイッチ/江戸前寿司/海苔巻き!/リンゴ!/シャケおむすび!/いなり寿司!/お芋サラダ!/ラーメン/パイナップル/スパゲティ/納豆/サクマドロップ!/鰻蒲焼!/ギョウザ!/氷アイス!/ワンタン/茶碗蒸し!/カルピス!/冷し中華!/ソーメン/練乳!/チェルシーキャラメル/ラッキョ/蒲鉾/鯛味噌/あれこれの菓子パン!/トマト/ココア!/みたらし団子/洋ナシ缶詰/卵おじや/‥‥

ボクの日記からひろったこれらの食べ物は、病床の若菜が食べたいと言ってボクに頼んだものである。(!)の付してあるものは何度か頼まれたもので、彼女の好物だった。便利なコンビニなぞない時代のことで、どのようにしてラーメンなぞ運んだのか、どのようにして暖めたのか、暖かい食べ物をどのようにしてベッドまで運んだのか、器をどのようにして調達したのかなど、細々としたことについては思い出せないこともあるが、若菜の入院以来、私たちの家に来てくれて二人の子どもたちの面倒を見てくれていた母に作ってもらったり、病院の周辺の商店やレストラン、病院に来る途中にデパートの食品売り場に足を伸ばして調達したものがほとんどだった。

ボクはどんなことをしてでも彼女の食の期待に応えようとした。病院には彼女の叔母・好子もほとんど毎日通っていたので、叔母が頼まれたものを加えれば、このメニューはもっと多くなるだろう。

彼女の病気はスキルス胃癌で、入院直後には手術が日程にのぼったこともあったが、内科と外科の教授も交えたカンファレンスが何度かもたれた結果、結局手術は不可能という結論が出た。手術による治癒は期待できず予測される手術後の生活不都合よりも、保存治療による生活を過ごさせたほうがいい、との医師たちの判断だった。

そして病勢は急で、入院後1か月足らずのうちに腹部は外からスキルス(硬癌)の凸凹が触れられるほどになっていた。消化管は通過障害を起こし始め、抗癌剤の副作用による嘔気は頻繁になってきた。しかしながら彼女は何とか口にできるものを食べようとしていた。上のメニューはその強い意志を物語っている。

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