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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[4] 喪のしごと

2021-06-10 17:33:36 | 闘病記

小此木啓吾さん(精神医学者)の『対象喪失』(中公新書)という本には、ボクのような症例や研究報告がたくさん出てくる。配偶者を喪った人が6か月以内に死亡する割合は、そうでない人に比べて40%も高いという研究や、近親者の死を経験した人の1年間の死亡率は対象群の7倍、配偶者のケースでは10倍にものぼるという報告もある。小此木さんの解説によれば、愛情や依存の対象を失うという事柄によってもたらされる心の反応には二つあるという。一つは対象を失ったことがストレスになって起こる急性の情緒反応であり、もう一つが持続的な悲哀の心理過程といわれるものである。この悲哀の心理過程とは、時間の経過のなかで失った対象との関わりを整理していくプロセスであって、この苦痛の過程をうまく通れない場合には、様々な精神の病が出現する場合があることを指摘している。

いずれにしても愛する者の死は衝撃の大きい体験であることに変わりはない。ボクのような実例を他にも見ることができる。リン・ケインという人の書いた『未亡人』(曽野綾子他訳)という本は、そんな経験のドキュメントである。リンは50歳の夫を癌で失う。二人の子どもが彼女に残された。夫の死後彼女は悲しみの第一段階を経験する。これはショックで感覚が麻痺するもので、身体も感情も固いまま機能の優れてはいないロボットのように振舞う時期であった。次の段階は本当の孤独を経験した時期で、その恐怖感から一度しか会ったことのない政治家に大金の無心をしたり、車もないのに郊外に引っ越してしまって後悔したりする気違いじみた時期であった。そしてその次に経験したのは、死んだ夫や自分自身、子どもたちにまで怒りを感ずる時期であり、そこからの脱出法は、重々しい沈黙を出て言葉を吐き出すこと、もって行き場のない感情を受け止めてくれる人の存在であったと述べている。

アルフォンス・デーケン氏については先に触れたが、誠に残念ながら2020年9月6日に亡くなった。イエズス会の宣教師として1959年日本に来日以来、上智大学で教鞭をとってきた人である。彼の日本での活動は60年近くにわたった。彼はわが国に死生学を根づかせたことで「菊池寛賞」を受賞したことでも知られている。彼とボクとは、彼の活動の端緒ともなった『叢書:死への準備教育(全三巻)』の共同編集をした。その初版の目次と執筆者を記録としてここに残しておく。この3冊の本は、デーケン氏の広範な活動もあって望外の反応を示し、初版の1986年春以来医療界を中心に広く読まれロングセラーともなり版を重ねて行った。25年以上にわたって再版が続いた。

実は、これはボク自身の喪の仕事とも言え、若菜を喪った喪失感からボク自身が立ち直るためにも、出版人として必須の仕事であったことは確かである。「死」をタブー視する周囲の無理解と猛反対を押し切っての孤独な編集出版活動でもあった。

第1巻「死を教える」 第一章・死への準備教育の意義(A.デーケン) 第二章・死への準備教育の場とそのあり方①幼児教育と両親の役割(宮本裕子)②小学校教育(稲村博)③中学校教育(平林進)④高等学校教育(河野博臣)⑤大学教育(上野矗)⑥教師教育(坂上正道)⑦医学教育(谷荘吉)⑧看護学教育(藤枝知子)⑨成人(中高年)期の教育(平山正実)⑩老年期の教育(山本俊一) 第三章・死への準備教育の方法―対象と場に応じた教材①教材としての文学―日本文学(平田邦夫)②教材としての文学―諸外国の文学(A.デーケン)③教材としての映画・テレビ―看護教育の体験をふまえて(藤腹明子)④授業の中の演習―小作文と別れの手紙(A.デーケン) 第四章・諸外国における死への準備教育①アメリカにおけるデス・エデュケーション(若林一美)②ドイツにおけるデス・エデュケーション(A.デーケン) 第五章・死への準備教育のワークショップ・プログラム(A.デーケン)

第2巻「死を看取る」 第一章・死にゆく過程―死への準備教育のために(大山正博) 第二章・日本人の死―どこで誰に看取られて(深津要) 第三章・死にゆく人とそのケア―具体的ケアから考察まで①看護者として死を看取ることの意味(渡辺文子)②小児の死(善甫恭代)③母親の死―その一(圷保美)④母親の死―その二(内海イネ子)⑤父親の死(高橋利枝)⑥老人の死(水島幸子)⑦看護における死(渡辺文子) 第四章・死にゆく人へのカウンセリング(白井幸子) 第五章・「自分の死」を死ぬということ(近藤裕) 第六章・癌の人間学―いのちをいとおしむ(方波見康雄) 第七章・「告知」の考え方(河野友信) 第八章・ホスピスというもの(柏木哲夫) 第九章・悲嘆のプロセス―残された家族へのケア(A.デーケン) 第十章・アメリカにおける末期患者のカウンセリング(斉藤武)

第3巻「死を考える」 第一章・死の意義―人間にとって死を準備するとは(稲垣良典) 第二章・生命と死―生物学的死と人間の死(青木清) 第三章・死と倫理①バイオエシックスと死の臨床(河野友信)②安楽死(宮川俊之)③死の判定(竹内一夫) 第四章・死と法・法学(金沢文雄) 第五章・死と文化①キリスト教における死と永遠性(山本襄冶)②仏教における死と来世観(紀野一義)③民族の中の死(佐々木宏幹)④現代の日本人にとっての死(井上英治) 第六章・死への恐怖(A.デーケン) 第七章・小児と死の世界(西村昂三) 第八章・死とユーモア(A.デーケン) 第九章・死を超えて輝く生―堀辰雄「風立ちぬ」(鈴木秀子)

デーケン氏はこの本の中で、遺族のカウンセリングに携わってきた経験から、悲嘆のプロセスを詳細に分析して、次のようなモデルを明らかにしている。即ち、精神的打撃と麻痺状態/否認/パニック/怒りと不当感/敵意と恨み/罪意識/空想形成と幻想/孤独感と抑うつ/精神的混乱と無関心/あきらめ-受容/新しい希望-ユーモアと笑いの発見/立ち直りの段階/新しいアイデンティティの誕生、という12の段階である。もちろんこの段階をすべての人が通るわけではなく、重なったりして現れることもある。大体立ち直るまでには“最低1年くらいはかかる”とも述べている(叢書・死への準備教育/第3巻・第9章「悲嘆のプロセス」)。

このような喪失悲嘆というものは、それこそ身体も心もボロボロにしかねないことに、もっと注目しなければならないと思う。

一方では、親の臨死のベッドの傍らで、遺産相続の話に明け暮れていた家族の話を知人の看護師から聞いたこともある。また東京近郊のがんセンターで精神科の医師でありながらホスピス医を兼務していた友人の医師から、こんな話を聞いたこともある。ある日、夫婦が老女を連れて外来にやってきた。老女は右腕全体がパンパンに腫れあがっていたが、その治療の相談ではなかった。聞けばこの老女は男の母親で、彼の相談はこの母親が厄介なので何とかして欲しいの一点張りで、どうやら右腕の腫れは暴力つまり虐待によって脱臼して、そのままにしていたために起こったものらしいことがわかった。ではこの男に何をして欲しいのか尋ねると、バアサンを“処分”して欲しい、という驚愕の言葉を発したという。そのときの男の顔は「鬼の顔」のようだった、云々。

このような人たちには愛する者を喪うことから来る悲嘆の感情は程遠いものかもしれない。悲嘆の感情は、深い愛情でつながっていた者の死ほど深刻な様相を呈するものだろうと思う。そしてその心身への侵襲はあまりに深く鋭く長い。

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[3]死が痛む    

2021-06-10 08:41:30 | 闘病記

ただその日その日にボクは若菜とともに生きていたし、彼女の意識はボクの意識を毎日呼び覚ましていた。しかし、担当の医師がボクに、危険ですと告げた翌々日の夜中に、彼女は最後の一息を吐いて逝ってしまった。突然死にとらわれてしまった。それは分水嶺のようだった。水は嶺のたった一線を境にして突如向こうの側に流れていった。もう一度でいいから若菜の声を聞きたかった。しかしその懐かしい声は分水嶺の向こうからは二度とボクの耳には届かなかった。ボクの手から重量が消えた。音が失せ時間が絶えた。

死の瞬間とはこのようなものだった。

彼女の死の直後は、葬儀、挨拶回り、癌財団への寄付、会葬御礼の発送、様々の手続き等、忙しさで目の回るような日々が過ぎて行った。それから何よりも大切な大仕事として、6歳の敬一と1歳の静雄の二人を若菜の生まれ育った山形の父母と桜子に託すことも終え、ボクは東京で孤独な一人の生活を始めた。

仕事も責任者として数年携わってきた大きな辞典の刊行は若菜の死の1か月ほど前に終えたものの、未刊の刊行物は隙間なく続いていた。これらの出版物については、ボクがほとんど全ての企画提案者でもあり手抜きはボクの本意ではなかった。会社の経営や周囲の者も気を遣いこそすれ、口先で休養を取れとは言うものの仕事を代行する者とてなく、小出版社の貧しい現実は続いていた。

こうしてあれこれが全て終わりほっとした頃、ボクは体の不調に気がついた。身体が重く、身体のどことは特定できないのだけれども、痛みがそこここを走り、何事へも意欲が湧いてこない、そんな日々が続いていた。

子どもたちを山形に預けて以来、がらんとした家に帰ると食事をする気にもなれず、ぽつんと置かれた骨壷の前にへたりこんで、酒を酔いつぶれるまで飲んだ。それが日課だった。ボクは身体の不調はこの酒のためだと考えていたのだったが、どうにもおかしな痛みと不穏状態が続くので、思い切って病院を受診した。大学病院での受診は、通り一遍の問診と検査で終わった。一週間後の様々な検査結果は、どこにも異常はなし、というものだった。しかしボクの身体の痛みと不調は、それからも続いた。

この身体の痛みというのは不思議な感覚だった。腕や首、腹の皮膚を触ると痛みが走ったし、関節の鋭い痛みと背中や内臓の特定できない部分の痛みが特徴だった。それに身体の鈍重感を伴っていた。

庭に紫陽花の花が咲いても、雨に濡れた花の紫を、ああきれいだな、と感ずる心を遠くに置き忘れてしまっていた。テレビは意味を伴わない動画で、レコードもばらばらの音階が耳に届くだけだった。世間で起こっている事柄が秩序立てられておらず、煩わしさとか面白さといった感情も喪っていた。ごく親しい者たちにも親しみの感情が湧かなくなっていた。

このようなボクに対して、医師が生化学的な検査を行っても、何の異常なデータも出ないのは当たり前だったのだろう。若菜を喪ったいわば“喪失感”が、ボクを襲い続けていたのだった。その喪失感情が消褪しないかぎり、ボクの心身の症状も消えることのないものだったに違いない。ボクには仕事柄医学知識が程々にあるとはいえ、それは知識の問題とは別の、いわば実存に関わる事柄だった。こうした鬱症状は長いことボクを苛み続けた。

このような日々を過ごしていたボクにとって、何よりも救いだったのは週末に山形の父母と桜子のもとで生活を始めていた敬一と静雄のところへ帰ることだった。その当時新幹線はなく土曜日も休みではなかったけれども、ボクは欠かさず土曜日の最終の特急列車か、仕事が遅くなったときには夜行列車に飛び乗り、彼らのもとに向かった。

彼らが起きているときには、玄関の前にボクの乗ったタクシーが着くと、その音を聞きつけて玄関に敬一が必ず出てきて、輝くような笑顔で迎えてくれた。1歳を迎えたばかりの静雄も歩き出てきてボクにまとわりついた。ボクは、その瞬間に身体全体が暖かくなり痛みも何も忘れていた。この子どもたちと父母、桜子がいることで、皆が抱く悲嘆の感情をお互いに少しずつ和らげ合うことができたのだった。

ボクは若菜の死の後、お見舞いや香典については、がん研究の財団法人に寄付することでお返しは一切しなかった。その旨を記した挨拶状には、胸から突いて出てきた次のような歌のような詩のような一文を添えた。この一文に心を動かされた桜子の在籍していた銀行嘱託のNさんが、実に流暢な筆遣いで美しい色紙を桜子に託してくれた。仏壇の上に掲げてある額にそれは入っている。

「君旅てる今 広漠の土地に 紫陽花のひたすらに咲き 然して君見るや 毅き陽また優しき花の如き君の思想の 君が子らの裡に輝くことを やがて明日雪割りて かぐわしき梅花 又萌えるらん」

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[2] 内村鑑三翁の遺した一つの思想memento mori(死を覚えよ)

2021-06-09 13:45:27 | 闘病記

内村鑑三(1861-1930)は、1891年第一高等中学校教員のときに、教育勅語奉読式典にて天皇晨筆の御名に対して最敬礼しなかったことが学内や周囲の者たちからの批難を受け社会問題となる。この事件の詳細は『内村鑑三不敬事件』(小沢三郎著、新教出版社、1961)に詳しい(注:なお小沢三郎氏は私の高等学校の恩師である)。彼の周囲や宗教界からの非難の激しさは内村翁の心身を痛めつけたばかりでなく、妻のかずの病気の悪化をも招いた。そして妻かずは同年死去する。鑑三翁の悲嘆は、かずの死の後何か月間も主への祈祷も廃したほどの深いものだった。かずの死の2年後に出版された『基督信徒の慰』 (警醒社書店、1893)の中で鑑三翁は「愛するものゝ失せし時」との主題で次のように記す。

「余は余の愛するものゝ失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも今は神なき人となり、恨を以て膳に向ひ、涙を以て寝所に就き、祈らぬ人となるに至れり。‥‥然れども余に一事忍ぶべからざるあり、彼何故に不幸にして短命なりしや、彼の如き純白なる心霊を有しながら、彼の如く全く自己を忘れて彼の愛するものゝ為めに尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、此世に眼開てより眼を閉しまで、不幸艱難打続き、而して後彼自身は非常の苦痛を以て終れり、此解すべからざる事実の中に如何なる深意の存するや余は知らんと欲するなり‥」と。

鑑三翁は「天道は是か非か」(司馬遷)と訴えたいほどの深い悲嘆を心の中で叫んだのだろうと思う。私自身も若くして二人の幼い子どもを遺して天に召された私の妻のことを思うにつけ、鑑三翁に深い共感を覚える。しかし鑑三翁には更なる試練が待っていた。妻かずを喪って1年後再婚したしずとの間に生まれた娘ルツを19歳の時に病気で喪うのである。時は下って1990年に、内村鑑三翁の膨大な著作の中からいわば「生老病死」に関する著作を編纂した鈴木範久氏は、鑑三翁のこの辺の心の裡について次のように記している。「内村の思想の著しい特徴は、自分の体験(実験)のなかから形成されることである。たとえば生と永生の問題は、その背後に、1891(明治24)年の妻かずの死や、1912(明治45)年の娘ルツの死があった。愛するものの早逝という悲痛な出来事をどう受けとめるか、という私的な体験に出発するが、私的な次元に終始せず、はるかな世界に引き上げ、そのなかで、いつのまにか、思いもよらなかった思想に到着するかたちをとっている。生老病死についての内村の考えは、‥「人は如何なる大先生であっても、自分の通過したことなき道の様子を知らない」という姿勢で語られている。深刻な苦難に直面した人がしばしばおちいる、狼狽や拒絶、事態の受容、それから切り開かれた再生の過程の率直な表白がみられるだろう。」(『内村鑑三選集8 生と死について』p.302、岩波書店、1990)

鑑三翁が家族を喪った体験は、悲嘆に溺れ敗北するのではなく彼の思想を深化させていくことになり、同時に信仰も深化させていくこととなった。そして鑑三翁の多くの著作は、その後様々な形で出版されることになって行くのだが、直近では『内村鑑三全集』(全40巻、岩波書店)として1980年から1984年にかけて刊行された。これによって著作にとどまらず、書簡や日記を含めて内村鑑三翁の全貌を伺うことができることは幸いである。私自身も1年2か月をかけてこれを読破したが、あらためて鑑三翁という人間のスケールの大きさを日々感じながらの読書経験だった。

キリスト・イエスが生きた時から2000年以上が経った今、社会は成熟し人間を幸福にしてきたと考えるのは錯誤で、むしろ人間の精神も社会も衰退し後退しつつあるようにも思える。現今の世界では人間が「霊魂を喪失しつつある」(C.G.ユング)ことを強く意識せざるを得ない。このような時にあって「死を覚えよmement morir」は、生きている人間の生命を直射することにもなるだろうと私は考えた。私もデーケン氏や内村鑑三翁に導かれて「死への準備教育」のノートを纏めることとしよう。

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[1] アルフォンス・デーケンさんと「死への準備教育」

2021-06-09 13:03:09 | 闘病記

アルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授)が2020年9月6日に亡くなった。デーケン氏とは昨年(2019年)3月にロヨラハウスで数年ぶりにお会いした。車椅子だったが記憶もシャープで、2時間ほど話し込んだ。懐かしかった。このとき2018年に彼が出版した絵本『人生の選択;デーケン少年のナチへの抵抗』(藤原書店)をいただいた。絵本の中身は彼が常々話していた父親と一緒にナチに抵抗した少年時代の物語。別れ際に私のことを”毎朝の祈りのミサでお祈りしますよ”と言ってくれた。爽やかな人だった。コロナ禍のこととて葬儀は上智大学構内のイグナチオ教会からのyou-tubeの中継で淋しかった。

1986年私はデーケン氏と二人で編集した『叢書;死への準備教育(全3巻)』(メヂカルフレンド社)を出版した。デーケン氏と私の企画の骨子はDeath Educationの日本での普及にあった。当初シリーズタイトルは「死の教育」と何となく考えていたが、企画書を作成する段階になって「死への準備教育」というタイトルはどうだろうか、とデーケン氏は恐る恐る私に提案した。Death Educationの目的は、人間に死への準備をさせることであるから‥という趣旨だった。私は率直に「少しまどろっこしいし、日本人には馴染まないかもしれない」と言った。そしてしばらく二人で話をした。そしてようやくデーケン氏の”野心的な”狙いがようやく理解できたような気がしてきた。何しろ日本でも初めての企画である。そして私も了解点に達した。「日本人がびっくりするような革新的な企画内容だから「死への準備教育」で行きましょう」と話して私は決断した。デーケン氏はあの壊れそうな笑顔で私に握手を求めた。大きな温かい手だった。

私が当初何とはない企画書を持って上智大学で「死の哲学」を教えていたデーケン氏のもとを訪ねたのは1984年の春のことだった。デーケン氏は上智大学では「死の哲学」を教えていたので、親しみを込めて「シテツ(死哲)のデーケン」と呼ばれていた。

私が深く愛していたは妻は1978年6月に天国に召された。スキルスがんで手術もできなかった。妻は私と同じ年32歳だった。私と5歳半の長男と1歳2か月の次男が遺された。私は妻に当時の最良最高の医療機関で医療を受けさせようと都内の大学病院に入院させた。大学の内科と外科の教授とのカンファレンスが何度も繰り返された結果、保存治療が決定した。それから4か月間妻はこの大学病院で療養生活を送ったのだが、その間に私と妻、私の家族も妻の実家の家族も、みんなどれほどの涙を流したことだろう。そのことを思い出すと、今でもカミソリで剥離されるような小さな鋭い痛みが胸を走り涙が流れる。私の妻も、内村鑑三翁が若くして亡くした妻・かずについて記すように” 純白なる心霊を有しながら全く自己を忘れて彼の愛するものゝ為めに尽し”てくれた女性だった。

当時の私は、懸命に妻の医療・看護にあたってくれた医師や看護師たちに深い感謝を抱く一方で、様々な医療現場の様々な問題点を体験することとなった。それは次のような事柄である。「医師・看護師は治癒困難になると為すべきことがなくなって次第に患者のもとをはなれていく」「ターミナルステージの患者に対して医療者は十分な言葉がけができない」「医師も看護師も疼痛ケアに対して腰が引けていて臆病である」「ターミナルステージの医療看護が試行錯誤の繰り返しである」「在宅での医療看護を患者も家族も願っているのにそれを支える医療のシステムがない」「医師看護師は対人的なケアの教育は受けているが、その他の医療職種にはそれが皆無」等々。医学看護学書の出版に携わっていただけに、「ターミナルステージの医療・看護」に関する矛盾と欠落、不都合、不具合等を強く意識することになった。私が「死」の医療に深く関心を抱くことになった所以である。

それ以来私は胸に出版企画の構想を温めてきたのだった。そして”死哲”のデーケン氏との出会いがあり、それが実現したというのが経緯である。「生を扱う医学出版社で死の問題を扱うとは何事か」といった出版社トップの陳腐さに呆れこれに従う幹部の反対を私は押し切った。デーケン氏と何度か企画の打ち合わせで企画書を練っていた頃、打ち合わせを終えて上智大学の前の四つ角で信号待ちをしていた際に、企画の骨格は「死を考える」「死を看取る」「死を教える」の三分冊の「叢書」タイトルが私の頭に閃いた。それから企画は一挙に進んでいった。

この叢書が出版された途端に、本は爆発的な売れ行きを示していった。20年以上にわたってこの叢書は増刷を繰り返した。デーケン氏は出版以来、毎日のように日本全国の医学部、看護学部、看護学校、病院、福祉施設・学校、一般大学、高等学校、市民講座等々で講演を頼まれた。評判が評判を呼んで行った。新聞等でもデーケン氏の講演が記事として報道されていった。講演会では地元書店の協力もあり、この叢書やデーケン氏の本の販売が行われサイン会も行われた。その後デーケン氏は、NHKの6か月連続講座の講師、多くの出版物の執筆、「東京生と死を考える会」の主宰等でも活躍し、「死への準備教育」を日本に普及した功績で菊池寛賞を受賞した。また何よりも日本にホスピス(緩和ケア病棟)を全国に普及させた端緒を作ったデーケン氏の功績は小さくはないだろう。その後私はデーケン氏との共著で『死への準備教育のための120冊』(吾妻書房)を出版した。死への準備教育に欠かせない当時日本で流通していた「死」に関する出版物の紹介が主なもので、日本で絶版になった書籍のリストも掲載した。私はこの執筆の為に上智大学図書館に休日のたびに通った。

デーケン氏も天国に召され私も歳をとり老境を迎えた。いざ自分自身の「死への準備」を始めたいと考え、ここで妻の死から私が戴いた「恩寵」を記録として残しておきたいと考えた。私にとっては遅きに失した感があるものの、いざ私の「喪の仕事」を始めようと思う。(なお文中《若菜》は若くして亡くした私の妻、《敬一》は長男で妻が天国に召された当時は5歳半、《静雄》は二男で1歳の誕生日の2か月後に妻は天国に召された。)

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