小此木啓吾さん(精神医学者)の『対象喪失』(中公新書)という本には、ボクのような症例や研究報告がたくさん出てくる。配偶者を喪った人が6か月以内に死亡する割合は、そうでない人に比べて40%も高いという研究や、近親者の死を経験した人の1年間の死亡率は対象群の7倍、配偶者のケースでは10倍にものぼるという報告もある。小此木さんの解説によれば、愛情や依存の対象を失うという事柄によってもたらされる心の反応には二つあるという。一つは対象を失ったことがストレスになって起こる急性の情緒反応であり、もう一つが持続的な悲哀の心理過程といわれるものである。この悲哀の心理過程とは、時間の経過のなかで失った対象との関わりを整理していくプロセスであって、この苦痛の過程をうまく通れない場合には、様々な精神の病が出現する場合があることを指摘している。
いずれにしても愛する者の死は衝撃の大きい体験であることに変わりはない。ボクのような実例を他にも見ることができる。リン・ケインという人の書いた『未亡人』(曽野綾子他訳)という本は、そんな経験のドキュメントである。リンは50歳の夫を癌で失う。二人の子どもが彼女に残された。夫の死後彼女は悲しみの第一段階を経験する。これはショックで感覚が麻痺するもので、身体も感情も固いまま機能の優れてはいないロボットのように振舞う時期であった。次の段階は本当の孤独を経験した時期で、その恐怖感から一度しか会ったことのない政治家に大金の無心をしたり、車もないのに郊外に引っ越してしまって後悔したりする気違いじみた時期であった。そしてその次に経験したのは、死んだ夫や自分自身、子どもたちにまで怒りを感ずる時期であり、そこからの脱出法は、重々しい沈黙を出て言葉を吐き出すこと、もって行き場のない感情を受け止めてくれる人の存在であったと述べている。
アルフォンス・デーケン氏については先に触れたが、誠に残念ながら2020年9月6日に亡くなった。イエズス会の宣教師として1959年日本に来日以来、上智大学で教鞭をとってきた人である。彼の日本での活動は60年近くにわたった。彼はわが国に死生学を根づかせたことで「菊池寛賞」を受賞したことでも知られている。彼とボクとは、彼の活動の端緒ともなった『叢書:死への準備教育(全三巻)』の共同編集をした。その初版の目次と執筆者を記録としてここに残しておく。この3冊の本は、デーケン氏の広範な活動もあって望外の反応を示し、初版の1986年春以来医療界を中心に広く読まれロングセラーともなり版を重ねて行った。25年以上にわたって再版が続いた。
実は、これはボク自身の喪の仕事とも言え、若菜を喪った喪失感からボク自身が立ち直るためにも、出版人として必須の仕事であったことは確かである。「死」をタブー視する周囲の無理解と猛反対を押し切っての孤独な編集出版活動でもあった。
第1巻「死を教える」 第一章・死への準備教育の意義(A.デーケン) 第二章・死への準備教育の場とそのあり方①幼児教育と両親の役割(宮本裕子)②小学校教育(稲村博)③中学校教育(平林進)④高等学校教育(河野博臣)⑤大学教育(上野矗)⑥教師教育(坂上正道)⑦医学教育(谷荘吉)⑧看護学教育(藤枝知子)⑨成人(中高年)期の教育(平山正実)⑩老年期の教育(山本俊一) 第三章・死への準備教育の方法―対象と場に応じた教材①教材としての文学―日本文学(平田邦夫)②教材としての文学―諸外国の文学(A.デーケン)③教材としての映画・テレビ―看護教育の体験をふまえて(藤腹明子)④授業の中の演習―小作文と別れの手紙(A.デーケン) 第四章・諸外国における死への準備教育①アメリカにおけるデス・エデュケーション(若林一美)②ドイツにおけるデス・エデュケーション(A.デーケン) 第五章・死への準備教育のワークショップ・プログラム(A.デーケン)
第2巻「死を看取る」 第一章・死にゆく過程―死への準備教育のために(大山正博) 第二章・日本人の死―どこで誰に看取られて(深津要) 第三章・死にゆく人とそのケア―具体的ケアから考察まで①看護者として死を看取ることの意味(渡辺文子)②小児の死(善甫恭代)③母親の死―その一(圷保美)④母親の死―その二(内海イネ子)⑤父親の死(高橋利枝)⑥老人の死(水島幸子)⑦看護における死(渡辺文子) 第四章・死にゆく人へのカウンセリング(白井幸子) 第五章・「自分の死」を死ぬということ(近藤裕) 第六章・癌の人間学―いのちをいとおしむ(方波見康雄) 第七章・「告知」の考え方(河野友信) 第八章・ホスピスというもの(柏木哲夫) 第九章・悲嘆のプロセス―残された家族へのケア(A.デーケン) 第十章・アメリカにおける末期患者のカウンセリング(斉藤武)
第3巻「死を考える」 第一章・死の意義―人間にとって死を準備するとは(稲垣良典) 第二章・生命と死―生物学的死と人間の死(青木清) 第三章・死と倫理①バイオエシックスと死の臨床(河野友信)②安楽死(宮川俊之)③死の判定(竹内一夫) 第四章・死と法・法学(金沢文雄) 第五章・死と文化①キリスト教における死と永遠性(山本襄冶)②仏教における死と来世観(紀野一義)③民族の中の死(佐々木宏幹)④現代の日本人にとっての死(井上英治) 第六章・死への恐怖(A.デーケン) 第七章・小児と死の世界(西村昂三) 第八章・死とユーモア(A.デーケン) 第九章・死を超えて輝く生―堀辰雄「風立ちぬ」(鈴木秀子)
デーケン氏はこの本の中で、遺族のカウンセリングに携わってきた経験から、悲嘆のプロセスを詳細に分析して、次のようなモデルを明らかにしている。即ち、精神的打撃と麻痺状態/否認/パニック/怒りと不当感/敵意と恨み/罪意識/空想形成と幻想/孤独感と抑うつ/精神的混乱と無関心/あきらめ-受容/新しい希望-ユーモアと笑いの発見/立ち直りの段階/新しいアイデンティティの誕生、という12の段階である。もちろんこの段階をすべての人が通るわけではなく、重なったりして現れることもある。大体立ち直るまでには“最低1年くらいはかかる”とも述べている(叢書・死への準備教育/第3巻・第9章「悲嘆のプロセス」)。
このような喪失悲嘆というものは、それこそ身体も心もボロボロにしかねないことに、もっと注目しなければならないと思う。
一方では、親の臨死のベッドの傍らで、遺産相続の話に明け暮れていた家族の話を知人の看護師から聞いたこともある。また東京近郊のがんセンターで精神科の医師でありながらホスピス医を兼務していた友人の医師から、こんな話を聞いたこともある。ある日、夫婦が老女を連れて外来にやってきた。老女は右腕全体がパンパンに腫れあがっていたが、その治療の相談ではなかった。聞けばこの老女は男の母親で、彼の相談はこの母親が厄介なので何とかして欲しいの一点張りで、どうやら右腕の腫れは暴力つまり虐待によって脱臼して、そのままにしていたために起こったものらしいことがわかった。ではこの男に何をして欲しいのか尋ねると、バアサンを“処分”して欲しい、という驚愕の言葉を発したという。そのときの男の顔は「鬼の顔」のようだった、云々。
このような人たちには愛する者を喪うことから来る悲嘆の感情は程遠いものかもしれない。悲嘆の感情は、深い愛情でつながっていた者の死ほど深刻な様相を呈するものだろうと思う。そしてその心身への侵襲はあまりに深く鋭く長い。