私の「認識台湾」

個人的な旅行(写真)の記録を主眼としつつも、実態は単なる「電子落書き帳」・・・・

烏來へ

2005年02月11日 | 台湾
新店でバスに乗り換え、烏来へ赴きました。川の辺りは、京都嵐山の渡月橋のような風情が漂っています。トロッコに乗り、風景区に向かう予定でしたが、動いている気配はありません。
「大晦日はやっていないのかねぇ … 」
と、きびすを返し、途中の洒落たカフェで一休みすることにしました。店主に尋ねてみるとよく判らないといった感じで、父親らしき人を奥から呼んできました。
「日本からですか?」
いわゆる「トオサン世代」のご老人の登場です!御年 81 歳の D 老人は、とてもそんなお歳には見えませんでした。簡単に自己紹介をすると、ご老人は色々なことを話し手くださいました。ご先祖は福建省から清朝末期頃渡来し、当初は桃園にいらしたようです。ご老人自身は日本企業に勤められていたようでした。戦争中のこと、そして将経国総統時代に中正国際機場が建設され、中座した発電所建設もあることなどを教えてくださいました。
やはり「白色テロ」が吹き荒れた頃は忌まわしき過去なのでしょうか … その時代だけが抜け落ちています。さりげなく、二、二八和平公園を訪れたことを伝えると、
「だいぶ殺された … 」
と穏やかな口調でそう答えられました。
「基隆の話も本で読みましたが … 」
「あぁ、鎖でつないでね。そのまま港へぽぃ、よ … 」
語り口が穏やかなだけに、より戦慄を覚えました。基隆港での大虐殺は本当だったのです。

「原爆さえ落ちなかったら、日本は港湾をもっと整備しとったのじゃないかなぁ … 」
日本は台湾を南方の資源補給拠点として位置付けていたでしょうから、有り得る話です。それにしても、印象的だったのは、「原爆さえなかったら」というフレーズと、「中国には負けていない」というフレーズが何度か語られたことでした。悔しさという表現が適切かどうかは何ですけど、この辺りは、楊素秋先生の 『 日本人はとても素敵だった 』 と共通する思いを感じました。少なくとも、日本統治時代とその後の国民党独裁による白色テロの時代を比べると、まだ前者の方がマシだったということなのかもしれません。
何れにせよ、台湾には長く苦しい時代があった訳で、その長いトンネルを抜け出たからこそこうしたお話も聞けるのでしょう。

「日本は敗戦後も朝鮮ばかり優遇してきたようで、台湾の皆様には大変申し訳ないように思います。もっとも、日本と韓国の関係が今日良好とは言い難いのですが・・・・」
「朝鮮は頭が固いからね。戦前の教育も中途半端だったろうし、だから今も日本とはしっくりいかない。台湾は、まぁよく働いた。でもそれは日本の教育、日本人が教えてくれたのだよ。日本も原爆の焼け野原から頑張った。同じだよ … 」
台湾人としてのプライドを見た思いで、大変感銘を受けました。
国民党独裁下で何かと迫害されていた台湾人は、その知力と反骨精神で専ら経済活動に従事し、今日の経済的地位を確立させたのでしょう。
「自分達は被支配者だが、大陸からやってきた中国人より民度は高いのだ」
という台湾人魂が底流にあったのだろうと思います。
考えてみたら、敗戦時に最も条件がよかったのは南北朝鮮です。しかし彼らは戦前日本が残していったインフラを活かせませんでした。いくらハードがよくても、活用する人間次第なのだというよい例かも知れません。
それにしても、是々非々の姿勢とでも言うべき台湾人のバランスの取れた歴史認識には感心させられることしきりです。日本統治時代に負の側面があったのは間違いないところで、一方的にその「好意」に甘えるのはどうかとも思うのですが、李登輝前総統や楊素秋先生といった「旧同胞」が、
「日本人よ、しっかりしろ。自信を持て!」
とエールを送ってくださるのは文字通り有難いことという気がいたします。
私は 2 月前まで、嘉南平野の父と呼ばれた八田與一氏や、貧しい農民の税金減免を総督府にかけあい、抗議の自殺をして今も「義愛公」と祭られている森川巡査の存在など全く知りませんでした。
何れにせよ、日本人と台湾人が共に歩んだ濃密な時代があったのです。

D 老人とは 1 時間程話したでしょうか。謝意を述べ、一緒に写真を撮影し、タクシー乗り場まで送っていただきました。トロッコが運休なので、風景区迄はタクシーを利用する以外ありません。往復 400NT$ は少々割高ですけど、ちょっと歩くには難しい距離でした。
風景区の主目的は「台湾高砂義勇隊」の慰霊碑への参拝でした。高砂義勇隊の慰霊碑が撤去の危機に瀕していることが昨年産経新聞で報じられ、保存のための募金が台湾側に贈られたとのことです。
インターネットで見る画像では、「霊安故郷」の文字が刻まれた慰霊碑の左右に、日章旗と中華民国旗が風に揺れています。
戦犯として処刑された総督府の上官は、
「かくありて許されべきや 密林の彼方に消えし 戦友(とも)を思えば」
と、高砂義勇兵への感謝の思いを辞世の句に詠んだそうです。
日本は、旧同胞の皇軍兵士や、その遺族に対する戦後補償を満足に行ってきたとは言い難いように思います。台湾に関しては、国民党が接収した日本統治時代の資産の問題等はありますが、彼らがその当時日本人であり、日本のために犠牲となり、その貴い犠牲の上に今日の日本の繁栄があるのは紛れもない事実であり、我々はこのことをしかと銘記しておかねばならないでしょう。

さて、慰霊碑の場所に行ってみますと、台座の辺りを崩した後があり、肝心の慰霊碑は見当たりません。近くの人に聞くと、上の方に移転したとのことでしたので、階段を駆け上がり、坂道を歩きかなり捜し回りましたがついぞ発見できませんでした。後で茶店の女主人が好意で聞いてくださったところ、「移転工事中」とのことみたいでした。立派なものが出来るのを期待して、白糸の滝を眺め、烏来を後にしました。風景区のロープウェイと温泉は次回の楽しみに取っておくことにします。

※写真・・・・白糸の滝

烏來は温泉街です。台北から小1時間でこんな風景が眺められます。

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