先月吉野移民村(記事)に関する新聞報道がありましたので、花蓮市の隣町の吉安郷に出かけることにしたのですが、全行呈(往復)25km弱ですので中信大飯店で「我要叫計呈車」ということにしました。「片言程度日本語話せる運ちゃんがいいんですけどね。えっと、回りたいのは松園別館と吉安慶修院。それとこの吉野神社鎮座祈念碑と・・・・」と切り出しましたら、慶修院以降は「な、何すかそりゃ?」という反応で、そういうこともあろうかと地図のコピーを広げていたら(←直前にこういうことやっているから途中で時間切れ&見切り発車になる)フロント回りの人間がぞろぞろ集まってきました。TWD1000(≒JPY3500)で交渉してもらいましたが、待ち時間もあるので悪くない〝商談〟でした。
まずは(吉野村)拓地開村祈念碑&吉野神社鎮座祈念碑に向かったのですが、「慶豐市場後方」はどう見ても工事現場で・・・・
時の臺灣總督・中川健藏氏(1932-1936)が揮毫し、昭和8年2月に建立された拓地開村祈念碑は2m以上の結構な大きさです。「開村当初は61戸の集落だったんだねぇ・・・・」などとメモを取りつつ眺めていたのですが、やぶ蚊の攻撃が凄まじく、写真を撮って後日「解読」することに・・・・
まずは(吉野村)拓地開村祈念碑&吉野神社鎮座祈念碑に向かったのですが、「慶豐市場後方」はどう見ても工事現場で・・・・
時の臺灣總督・中川健藏氏(1932-1936)が揮毫し、昭和8年2月に建立された拓地開村祈念碑は2m以上の結構な大きさです。「開村当初は61戸の集落だったんだねぇ・・・・」などとメモを取りつつ眺めていたのですが、やぶ蚊の攻撃が凄まじく、写真を撮って後日「解読」することに・・・・
1899(明治32)年 賀田組が私営移民方式で招募を開始
1905(明治38)年 官営移民開始
1910(明治43)年 「荳蘭移民指導所」、吉野村役場設立
1937(昭和12)年 吉野庄役場に改名
1945(民國34)年 吉野郷に改名
1948(民國37)年 吉安郷に改名 現在に至る
賀田金三郎氏が私営方式で移民を募集したのが、日本が台湾を割譲されてからわずか4年後というのが注目されますが、領台最初期だけに、「蕃人」の抵抗等で頓挫したのでしょうね。1919年には軽便鉄道も開通し、道路、灌漑用水、学校、病院、宗教施設、郵便局、派出所といったインフラが一通り整備されたようですが、この「吉野移民村」に移住した人々は、内地に生活基盤を残している官吏や民間企業駐在員ではなく、一切の財産を処分し「退路を断った」農民らでした。吉野川の氾濫に悩まされて「新天地」を求めたという背景があったようですが、異郷の島に渡り、台湾人ですら未踏の荒野を開拓するというのは相当な労苦だったでしょう。しかも、敗戦で裸一貫再び内地に戻ることを余儀なくされたわけですしねぇ・・・・
「吉野神社鎮座祈念碑」の裏には明治四拾五年六月八日とあります。
(台灣老照片數位博物館)
吉野神社は移民には不可欠だったのでしょうが、彼らが引き上げた後の現地の人々には不要な存在だったのでしょう。何かの本で「天照大神と言われても意味がわからず拝んでいた」という元高砂義勇兵の証言を読んだことがあるのですが、戦後(台湾を不法占拠しに)やってきた国民党勢力が排斥したという事情以外にも、台湾を主体に「自然か不自然か」という見方をすれば、不自然な存在だったのかもしれません。
戻ったところ、運転手氏が私が持参した吉安郷公所のHPコピーを手に、「この日本人はこれ見てやってきたんだって!」といった塩梅で空き地の向かいの人と話していましたが、おっちゃんはやおら家の中に戻り、ミネラルウォーターのペットボトルを手渡してくださいました。挨拶程度の片言でも、「台湾語」を知っておいてよかったです。
〔備忘録〕・・・・吉安郷公所
「吉野神社鎮座祈念碑」の裏には明治四拾五年六月八日とあります。
(台灣老照片數位博物館)
吉野神社は移民には不可欠だったのでしょうが、彼らが引き上げた後の現地の人々には不要な存在だったのでしょう。何かの本で「天照大神と言われても意味がわからず拝んでいた」という元高砂義勇兵の証言を読んだことがあるのですが、戦後(台湾を不法占拠しに)やってきた国民党勢力が排斥したという事情以外にも、台湾を主体に「自然か不自然か」という見方をすれば、不自然な存在だったのかもしれません。
戻ったところ、運転手氏が私が持参した吉安郷公所のHPコピーを手に、「この日本人はこれ見てやってきたんだって!」といった塩梅で空き地の向かいの人と話していましたが、おっちゃんはやおら家の中に戻り、ミネラルウォーターのペットボトルを手渡してくださいました。挨拶程度の片言でも、「台湾語」を知っておいてよかったです。
〔備忘録〕・・・・吉安郷公所
知らない事が多いですね、勉強になります。
私も台湾語、ガムシャ、ドーシャ、チンホーチャくらいなら(笑)
終戦後も「吉野会」という同窓(?)組織が結成され、今に息づいているようですね。私も中南米とか満州位しか存じませんでした。
気に入った。
放浪中、人様に何かいただくたびに「台湾と国交を回復せねばいかんな」と思います。(爆)
当時は既に吉安郷になっていたと思うのですが、御本人は「吉野村」と言っておられますねぇ。
個人的には吉安郷といえば、蘇花公路でクラッシュしたときに修理で立ち寄ったのをきっかけに馴染みになった行きつけのバイク屋があるということと、冷やかしで入った餅屋で店員の小姐に各種大福を戴いたといった程度で、観光はしたことがありませんです。
次回通りかかるときには立ち寄って観光してみたいですな。
>50年くらい前に日本から台湾移住した際に住んだ土地が花蓮吉野村だそうで。
是非機会がありましたら「和民」で焼酎でも。(爆)
>次回通りかかるときには立ち寄って観光してみたいですな。
こういう話を知人にしましたところ「・・・・観光というより、夏休みのワークブックにそういうのなかったです?地元の石碑の由来を調べてみましょう」みたいな、と。あ、そんな感じだわ~。(汗)
しかし、土地の区画とか道が碁盤の目になっていることがよく判りますよね。開村~敗戦までの歩みと、戦後のそれを比べると進歩が鈍化している感もありますが。