私の「認識台湾」

個人的な旅行(写真)の記録を主眼としつつも、実態は単なる「電子落書き帳」・・・・

台湾に遺る日本の足跡(8)~吉野移民村(その二)

2008年05月29日 | 台湾

戦後慶修院と名を変えた「真言宗吉野布教所」は、駅と郷公所の中間辺りにありますが、この辺が村の中心だったのでしょうね。



国家三級古跡に指定され、1億円近くの予算を投じて5年ほど前に修復されたようですが、その立派過ぎる門構えに気圧されてしまうようです。

  

門を入った左手には手水舎があります。

    

「真言宗吉野布教所」は、移民である川端満二氏の手により1917(大正6)年に建立されたとのことですが、トタン屋根の質素な作りです。礎石には寄進者の名が連なっていますが、なけなしの浄財を集めたのだろうなという感じがします。

  

傍らの「解説」を読みながら境内を一巡してみると何気に勉強になりますね。

 

【弘法大師像 58年ぶり台湾へ 神石高原から里帰り】 
 敗戦のために台湾東部の花蓮県から日本人とともに引き揚げ、広島県神石高原町の寺に安置されている弘法大師像が、58年ぶりに台湾へ戻ることになった。2003年11月に修復された真言宗寺院「慶修院」の本尊として復帰する。 
 大師像を台湾に届けるのは、同町階見、長命密寺住職の佐伯憲秀さん(80)。木製、彩色座像の大師像はいすも含めて高さ47センチで、23日に福岡空港から空路台湾へ持参し、25日の慶修院修復1周年式典で開眼供養する。 
 明治~大正期、多数の日本人が移民として台湾に渡った。佐伯さんの父は、慶修院の前身の真言宗高野山布教所の住職で、佐伯さんも同所で生まれた。大師像は昭和初年ごろ日本で作られ、布教所の本尊として拝まれていたという。 
 終戦後の1946年、国内に引き揚げる日本人とともに大師像も海を渡った。55年ごろ香川県丸亀市から、佐伯さんが住職を務める長命密寺に移った。 
 終戦時、中国北部にいてシベリア抑留も経験した佐伯さんは30年前、台湾の生地を訪れ、荒廃ぶりを目の当たりにした。昨年、慶修院修復を知り再訪。「見事な修復で幼い日がよみがえるようだった」と、感動的だった再会を思い起こす。 
 1周年を控え、修復された大師像がひび割れ、新たな大師像を探していることを10月初旬、知り合いの旅行代理店関係者を通じて知った。「現地で亡くなった人々の心のよりどころでもあった本尊をお返ししよう。大師も喜ばれるだろうと決心しました」 
 佐伯さんは日本寺院を旧跡として復元した花蓮県に対する感謝の気持ちも込めて、自身と大師像のふるさとでの開眼供養に臨む。(2004年11月20日:中国新聞)
出国手続きを経てやってきた先で弘法大師にお目にかかるというのも得がたい感覚ですが、本殿の坐像は数奇な運命を経て再び海を渡り、「里帰り」を果たしたのですね・・・・







四国といえば八十八箇所の霊場。後年は「吉野米」が天皇へ献上されるほどの模範的な移民村へと発展したようですが、開村初期は風土病等で命を落とした移民も多かったのでしょう。〝異郷〟にある移民らの望郷の念も今日に甦ってくるようで、往時がしのばれます。

〔備忘録〕・・・・慶修院

    


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