私の「認識台湾」

個人的な旅行(写真)の記録を主眼としつつも、実態は単なる「電子落書き帳」・・・・

「舞」ちゃん

2005年02月11日 | 台湾
夕刻になって街はすっかり静まりました。旧正月の風情など初体験ですから、何とも新鮮な感覚です。
ホテルのフロントも閑散としています。受け付けは変わって E 小姐、 22 歳。高校を卒業して 4 年働いているそうです。日本語も堪能で、しっかりとした感じです。高校で日本語を学んだそうですが、
「私、日本名を持っているのですよ!舞と言います」
「ちょっと、李登輝さんの岩里政男とかは戦前の話だし、はぁ、どういうこと??」
「みんな持っていましたよ … 」
何だかその間の事情は不明なのですが、「源氏名」みたいな感じなのでしょうか?日本が好きですという彼女から、聞かれるがまま、あれこれ話しましたが、芸能ネタなど彼女の方が詳しく、お手上げです。

日本が好きという彼女も、ただ狂信的な日本信者という訳ではありません。日本やアメリカは自由主義の社会、大陸は自由のない国と眉をひそめます。やっと自由を手に入れた台湾の若者が、自由主義社会の先達たる日本やアメリカに憧れるのは自然な感情なのでしょう。
「初めての台湾はどうですか?」
「いやぁ、想像以上に素晴らしい国ですよ!日本の九州位しかないのに、 2200 万の誇り高き人々が住む、麗しき島ですね!」
「日本人として学ぶべき点がたくさんありました。たとえば目の前にいる君だけど、高校卒業時点で 4 か国語話せている訳でしょう?日本じゃそんなの絶対あり得ない … 」
こうした若者の勤勉な姿勢を見ると、日本の学力低下が本当に懸念されます。日本の中高生何か台湾とどんどん相互交流すべきですね。
「これじゃ、いかん!」
と冷や水ぶっかけられたような思いになるでしょう。同時に日本の化けの皮もはがれてしまうでしょうけどね。

中国についても聞かれましたので、台湾は中国でないし、中台統一はどうかなぁと述べました。
「しかし、あれだねぇ。台湾人でも 10 人に 1 人くらい大陸と一緒になりたいという人がいるのかな?でも、“反攻大陸・復興中華”が不可能だからと言って、じゃあ、一緒になりましょうという理屈はないでしょう?そんなに大陸がよければ、荷物まとめて帰ればいいだけの話。清朝から日本統治になった時も、 2 年間時間あげるからどっちか選んでね、だったのだから … それで台湾に残った人たちが仲良く頑張ればいいんじゃない?」
「まったくその通りですよ!」
彼女と話しているうちに、私なりの、台湾を考えるヒントを得たような気がしました。
大晦日に勤務の彼女は 7 時上がりで、板橋の自宅に帰って家族と年越しだそうです。一年お疲れ様でした!

李登輝前総統は、「新台湾人」なる言葉を使っていましたが、世界の各地を見渡しても、民族紛争というのは望ましい事態をもたらしません。台湾に残り、台湾のために頑張る気概を持つ人たちはすべて台湾人。それが李登輝前総統の言う「新台湾人」であり、そうした意識を皆が共有することが、真の二、二八の和平なのではなかろうかと思いました。
清教徒革命でアメリカに移住した人たちも、当初は「自分は英国人だ」と言っていたでしょうが、今ではそういうことを言う人はいないでしょう。台湾もアメリカと似たような過程をたどりつつあるのではないでしょうか。

それにしても台湾のチャンネルの多さには圧倒されます。台湾版紅白をやっているのは興味深かったですが、別のチャンネルでは、何と日本の紅白の録画を放送しています!チャンネルをさらに回していると、李登輝前総統の姿が … 新年の祝辞のようです。
「先生、日本語で!」
叫んでもここは台湾、無駄でした。

小腹が空いたのでレトルトタイプの牛肉麺を買いにコンビニに行きました。作り方を聞こうと受け付けに寄ると、男子学生といった風情の青年に交替していました。
「あのね、これの作り方を … 」
「日本にもあるでしょう?同じですよ」
「中国語わからないのだよ。先に袋開けるとか、食べる直前に開けるとか、色々あるでしょう?」
「えぇとこれが先です。お湯を入れて 3 分後か 5 分後にこれを … 」
「ちょっと! 3 分と 5 分どっちな訳よ??」
「ええと … 」
憎めない感じの青年でしたが、随分アバウトです。この辺りが彼我の違いなのでしょうか?

深夜、爆竹を鳴らす音のようなものが聞こえました。もはや白色テロの時代ではないですから、「新年快楽!」ということなんだろうな、と思い、再び眠りに就きました。

※写真・・・・市政府付近の新光三越

左手に進むと台北101です。ブログ本文にも書きましたが、台湾らしからぬ日本的な光景です。

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