goo blog サービス終了のお知らせ 

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

向方のお潔め祭りへ①

2017-01-03 23:59:07 | 民俗学

向方天照大神社下宮舞堂

下宮の上宮側を「舞堂」という。ここには宮人しか入れず、手をあげることも禁じられたという。

 

舞に加わる若者たち

 

花のようとめの舞の始まる午後6時ころから午後9時ころまで、公民館において食べ物が提供される。

 

向方天照大神社上宮受付

上宮は氏子総代が中心になって祭りが執行されるところ。いっぽう下宮は「小禰宜」と宮人によって祭りが行われるところ。ただし、現在は小禰宜と言われる人はいない。

 

 長野県民俗の会第203回例会は、県南端にある天龍村神原向方(むかがた)において「向方のお潔め祭り」を見学する例会であった。さすがに交通の便が悪いということもあろうが、昨年の野沢温泉道祖神祭りとは違って、県外からの参加者はなかった。とはいえ、12人の参加者を迎え、野沢温泉と同様に宿泊による交流が叶えられた例会だった。向方の祭りも含め天龍村の霜月神楽として国の重要無形民俗文化財に指定されている三つの祭りについては、平成27年に発行された『天龍村の霜月神楽』(天龍村霜月神楽等資産化実行委員会)が詳しい。言ってみればこれまでの過去の研究の集大成的なものと言える。「集大成的なもの」であることに違いないが、本書を元に祭りを見ない限りそう思うのだが、事実今回の例会では事前に該当部分を資料として参加者に渡して、できれば予習をしてきていただければより祭りがよく理解できるだろうという思いがあったので、まさに「本書を元に」祭りを見学できたはずなのだが、それを提供したわたしでさえすべて読めずに参加したため、祭りの場で本書と実際の違いについて確認することはできなかった。あらためて実際の祭りを回想し、そして本書を開いてみて思うのは、はっきりしない部分があるということ、あるいはこれほど詳細にまとめられていながら疑問が湧いてくる点がある。ふだんのわたしの性格ならいつも曖昧なところで理解していて、「こんなものかな」という程度で理解しているのだが、これだけ祭りを詳細に記録した資料を前にすると、比較対象があるため疑問点が見えてくるというわけだ。本書の記述を参考に、祭りで見、また聞いたことを、あくまでも短時間で感じたことであるがここに記録しておくことにする。

 「向方へ」で触れたように、今回の例会を開くにあたって事前に向方を訪れている。向方のお潔め祭りを見るのは平成2年以来となったわけであるが、ずいぶん昔なのと、当時ろくに記録をとっていないため当時の祭りと今回を比較するほどのことはできなかった。「お潔め祭り」は文化財指定の際に付された名称で、前掲書の中でもあえて「オキヨメマツリ」と片仮名で示しているものを臨時祭としている。ようは立願されたことに対して願果たしとして実施されたものがオキヨメマツリだったというわけである。この形式は天龍村の霜月祭りに共通しているもので、例祭とは別に開催されたものだった。とりわけ向方ではオキヨメマツリにより演目が多く、ひと演目でも長い時間を要すため、これを実施することは容易ではなかったようだ。前掲書を発行する際に記録映像を撮影したため、その際にオキヨメマツリが再現されたが、その前に本来のオキヨメマツリが実施されたのは昭和51年1月3日だったという。前述したように本来願果たしのために行われたとはいうものの、昭和51年は昭和49年に国の無形民俗文化財に選択されたために実施されたものといい、それ以前の履歴を紐解いても、

昭和43年1月22日 長澤藤太郎禰宜が交代するにあたり「お潔め祭り」を伝えるため。
昭和37年1月15日 伊勢湾台風で倒壊した拝殿を再建とき。
昭和29年4月 長澤藤太郎が禰宜に就任したとき。

という具合に願果たしとして実施された例は戦後には記録がないほど。前掲書ではこれら祭りを語るにあたって「立願の理解なくして」理解できないと述べている(前掲書406頁)が、現実的に過去の記録伝承として伝えられている部分はあるが、向方において現在の伝承にはほとんどその形跡が見られないのが実際と言える。もちろんこうした書物なり研究がそれらを補っているのも事実だが、現在祭りを実施されている方たちにはあまり意識されていないと言える。

 さて50戸ほどの向方においても過疎化、高齢化による祭りを担う人びとの減少が深刻な問題となっている。12月13日から1週間ほど行われた練習において、現在これら祭りを担われている「芸能部」の方たちが中心に行われているが、古老の方たちがそこに加わってくるというほどの場にはなりにくいという話をうかがった。途絶えさせないためにという思いが強くあるため、今は誰にも門戸を開いている。したがって今では東京から無縁の方がネットで知って練習に参加される方がおられるとか。また地区内にあるどんぐり向方学園という学校の先生が熱心に参加してもらえるため、彼らの力が大きいとも言われる。事実舞には若い人たちが何人も加わる。かつては宮人(みょうど)だけが祭りを仕切っていたと言われる祭りは、まったく様変わりしているのだろうが、そのおかげで祭りが継続しているのである。

続く


コメント    この記事についてブログを書く
« 津島信仰から見えるマチ | トップ | 人それぞれと、血液型 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事