
上伊那郡辰野町から伊那市にかけて、天竜川右岸を流れている西天竜用水路。幅4メートル近い水路で深さも2メートル以上ある。昭和3年に完成した用水路は1200ヘクタール近い水田を潤すという。実はこの用水路の開削構想は江戸時代より始まる。安政3年(1856)に高遠藩が現在の天竜川取水口付近より取水する水路を、伊藤伝兵衛に企画させた。取水口の位置が諏訪藩の領地だったということで実現しなかったというが、辰野町境から取水した水路は、伝兵衛用水として現在も使われている。その後明治時代後半に再び動き出して、米価の下落など紆余曲折を経て大正時代に工事が始まった。もともとの構想が高遠藩から始まっているということもあるのだろうか、高遠藩の領地を潤すことになる。中央アルプスの山際には幕府直轄領があったが、それらの地域は西天竜の構想にはかかわっていない。以前〝「水枡」という施設〟で触れたように、山を越えて導水している地域もある。
さて、この開発によって1200ヘクタール近い水田が開田された。今中央高速道路から東側に広がる水田地帯は、当たり前のように青々とした稲が植えられているが、昭和になってからの光景である。ということは、この地域の稲作はそれほど長い歴史ではない。昭和3年に完成したというものの、戦争を経て昭和40年代にはすでに生産調整に入る。期待されて造られた水路も、期待を込めてその恩恵を被った時代は半世紀にも満たない。
『伊那市史 現代編』に記載されている「西天竜開発事業」の項に次のように書かれている。「当初分水口を百五個設置したが水利の調整に困難し、五十七個の保坂式排水池を設けて公平な分水を行った。用水の問題は対外的にも対内的にも終始数々の問題に苦しめられている。特に渇水時には水量不足と漏水によって幹線水路後半の南箕輪・西箕輪・伊那町は水不足となった」とある。ようは、当初は水路から直接分水を行っていたのだろうが、上から好きなだけ取水していけば、下流にいけば水がなくなってしまうという現象が起きたのだろう。保坂式といっている分水工は、写真のようなもので、今は円筒分水工と言われている。幹線水路から分水された水は、この円筒の中央に湧き出て、周囲にある窓の数に応じて2本とか3本の水路に分けられて流される。昭和初期に完成したものだけに、痛みの激しいものが多い。道に隣接して設けられているものが多いが、道を拡幅する際には邪魔になるから、このように水路を若干またいで拡幅されている場所が多い。この施設、平成18年に社団法人土木学会の土木遺産に認定された。施設そのものはそれほど大きくなく、それほど珍しいものではないのだろうが、西天竜用水路に点在する数は30以上といわれ、まとまって残っている場所は少ないという。
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