茅野氏の持つ三階菱の旗を先頭に「オフリョウの儀」(2019.9.27 PM3:57)
そもそも三田村佳子氏の『風流としてのオフネ』(信濃毎日新聞社 2009年)に掲載された26項目の事例をそのまま読んでも「オフリョウ」とは何か不明瞭なものがある。例えば3.は「境内でオフリョウを渡した」とあり、具体的な説明はない。そして何といっても多くが「オフリョウを渡す」と表現されていて、何かを具体的に「渡す」と受け止められる。このあたりについて三田村氏は前掲書の中で、「オフネの作法-オフリョウの意味するもの-」という項を立てて記述している。その中で「オフリョウというのは、灯籠や旗を持って神楽殿を三周することであり、そこで持つ灯籠をフリョウドウロウ(布令灯籠)、旗をフリョウバタ(布令旗)と呼ぶのは、これらがオフリョウのための灯籠や旗であることを示している」と述べている。なぜ3周することで「オフリョウを渡す」ことになるのか、見るものと言葉の不整合を感じないか。
そう思ってこのところ関わっているお船祭りの調査での資料からオフリョウを紐解くと、例えば穂高町矢原神明宮では、オフネを「アオルことを年配者はオフリョウワタシというが、4、50代以下の人々は知らない」、あるいは同じ穂高町牧諏訪神社では「オフネは、拝殿前のご神木の周りを3周する。オフリョウといい、1周するごとにオフネをアオル」といった報告がある。そもそもオフリョウを具体的にどのようなものか説明されていないケースが多い。おそらくオフリョウ、あるいはオフリョウワタシをどういうものかわかっているのを前提に記述しているような気がしてならない。ここで紹介した矢原の例なら、オフネを煽ることがオフリョウワタシだと言っている。いっぽうで4、50代の人は知らないと言っているように、おそらく「オフリョウとは何ですか」とお祭りに来ている地元の人に聞いても、はっきりしない答えは多いのではないだろうか。実はオフリョウなるものを知らなかったわたしは、重柳八幡宮のオフネを見ていて、てっきり煽るのをオフリョウだと思い込んでいたのだが、重柳の場合煽りは千度石の周りを3周廻った後、神事終了後に行われる。したがって重柳の場合はすでにオフリョウは終わったあとの煽りということになる。本当のところオフリョウとはどの部分なのか、すっかりわからなくなってしまったので、「オフリョウとは何か」となったわけである。
あらためて三田村氏の説を紹介しよう。「穂高神社では旗などが三周することをオフリョウと呼んでいるが、周辺地域の大半のところではオフネが三周することを指す語となっている。」としており、ここに註が付記されており、その註には次のようにある。「近世の記録では、鼠穴他六か村から参集した人々が白州で神酒をいただき、神主から指図があって小旗を立てて「振穂を渡し」、引き続き四か村が「御神を済ませる」といって、白州で神酒をいただき法螺貝の音に導かれて杖突を先頭に船を渡して神楽殿を廻るとある(宮地直一『穂高神社史』113頁)。これによると「オフリョウ渡し」は現在と同じ神事であり、その後のオフネ三周を「御神を済ませる」と称していたことがわかる。」と。こうなると、具体的には「オフリョウを渡す」は小旗を立てて廻ることを言い、同様に船が廻ることを「フネを渡す」と捉えて良いだろうか。その通り、27日の穂高神社お船祭りでは、「オフリョウの儀」と称し三階菱の旗を持った鼠穴茅野氏を先頭に、周辺各社の旗を連ねて、さらに氏子内の等々力子供船など5艘のフネが場内放送で読み上げられた。これらが神楽殿を3周するわけで、三階菱の旗以下フネまでを一連として「オフリョウの儀」の行列としていた。穂高神社でいうオフリョウとは、これら行列が拝殿に相対して建つ神楽殿の周囲を、3周する行為を指すのである。正確には拝殿前に茅野氏が先頭に並んでからの始まりである。最後を穂高区の大人船が締める。旗も含め、すべて拝殿前から始まって3周し、神楽殿東側にある鳥居をくぐる、境内を出る格好で行列は終いとなる。もともと境内に造り置かれた穂高区のフネは、鳥居をくぐると、そのまま右折して元の位置に戻っていく。ようは鳥居をくぐればオフリョウは終わりと捉えて良いのだろう。やはり「渡す」ものはないから、旗やフネが拝殿側から鳥居側に「渡る」、ようは行為をもって「渡す」という意味と考えられる。
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