Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」余話④

2010-04-02 12:33:32 | 分水工を探る

 「分水を探る」において分水工の寸法を示しているが、当時の施工技術もあるのだろうが、測る場所によって計測値は微妙に異なる。平均的な数値を表しているというよりは、だいたいメートル法で計測してきりのよい数値に読み替えているのが実際である。ミリ単位で示したところで、場所によって違うともなれば、あまりの意味のないこと。現代人にとってイメージし易いということになれば、せいぜい10センチ単位くらいが描きやすいイメージといえる。だから測るときもそのあたりを意識して測っているのだが、せいぜいセンチ単位を計測値としている。ところが実際は例えば壁厚が9センチとしても計測値は常にそれ以上を示すときもある。そもそも出来上がっている施設がメートル法ではなく尺貫法で造られているということも十分にありえるわけだ。

 よくここで引用文献として利用させてもらっている『西天竜史』は、奥付きに発行年月日が印刷されていない。あとがきを読み解いていくと次のような文が見える。「昭和三十六年、多年の懸案であった発電事業も、県営で施工することになり、工事に着手したので、此の機会に完成(西天竜史を)することになり、(中略)委員自らが多年の資料に基き執筆することとなり、同年八月からかかった。委員は鋭意完成を急ぎ、昨年末には大体原稿が出来上がったので、今春になって伊那市の神田印刷に請負わせ、漸く出来上がったのである」というもので、ここから昭和36年に編集を始めたことが推測できる。年表の最後には昭和36年12月に完成した発電事業に伴う幹線水路の大改修工事のことが記されていることから、文脈にある「昨年末」が同年なのか、それとも遅れること数年の後のことかは定かではないが、昭和22年に編集委員会が生まれて開店休業状態だったというところから見ると、資料収集はそれまでにされていたともいえ、おそらく昭和37年に刊行されたものと思われる。そして同書のあとがきの最後にはこんな言葉が添えられている。


 尚設計から施工の大部分が尺貫法の時代であったから、現代の様なメートル法の世代となっては語呂が合わないが、一々換算する煩をはぶいて記述したので、此の点も諒としていただきたい」


というものだ。メートル法は明治時代にすでに利用されていたものであるが、大正10(1921)年に「メートル法のみ認めることに改められた」と言うように尺貫法をメートル法に変えていくという流れはあったものの、現実的には使い慣れたものを利用するというなかで継続していたようだ。昭和34年に尺貫法の廃止施行で測量の単位はメートル法に切り替えられ、尺貫法は取引・証明に使用出来なくなったというから、『西天竜史』が編纂されたころがちょうどその過渡期だったと言えるのかもしれない。

 ということでわたしはメートル法で示しているものの、尺貫法で測れば、読み替えている計測値は違ってくるのだろう。円筒分水工の堰窓の幅の多くが15センチである。これは尺貫法なら5寸ということになる。むしろ尺貫法で計測した方がすっきりした数値になるのだろうが、もはや尺貫法ですぐさまイメージできる人は少ないだろう。


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