Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」余話②

2009-12-29 20:23:23 | 分水工を探る

■箕輪町の水利施設跡

 岡谷市川岸の取水から下ること17.6キロにある分水は「木下号外」と看板がある。わたしの記憶では確か号外といわれているものに円筒分水工はない。正式な○号と記されているものの中にも円筒分水工などが設けられていないものもあるくらいだから、「号外」といういかにも規格外のような印象を受ける分水は基本的には幹線水路から出た直後に分水工らしきものはないものが多い。幹線水路が完成した際には分水箇所が100箇所以上あったと言うが、水争いが絶えなかったことから円筒分水工を設けて均等な配分を目論んだ。しかし、現地で見てみると解るように、分水工から分派した水路は東西方向は勾配があって流れは良いが、南北方向は勾配が緩くて流れは悪そう。ようは南北方向に流していった水も、東西方向に分水されていくとしだいに流れが悪くなっていって、南端とか北端に至ると乏しい用水量になってしまう。そうした乏しさを補うように「号外」と言われる分水が後に設けられたのではないだろうか。想像にたやすいほど、まさにそうした補足的な位置にそれら分水は設けられている。



 さて、木下17号と木下18号のほぼ中ほどに設けられたこの号外は17号系の南端に位置する。わたしが想定したような位置づけで「号外」が設けられたんだとなんとなく解る。その分水から100メートほど東に下ったところの水路際に写真のような「水神」碑が建つ。西天竜幹線水路は昭和初期の完成ということもあるのだろうが、あまり水神碑を見かけることはない。不思議に思って碑文を見てみると次のように記されている。

   氏子総代
    青木行次郎謹書
 明示三十九年十二月八日竣工
    起業人 小池留吉
        小池繁蔵建之

建立されたのは明治39年というのだから幹線水路が完成した昭和3年より20年以上前のこと。ようは西天竜のために建てられた「水神」ではないのである。とすると何がここにあったのかということになる(他所にあった碑をここに移転したということもある)。近くに川がないため、推定するに横井戸ではないだろうか。「水」思わせるとすれば居間でこそすぐそこに西天流幹線水路が流れているが、それがないとすればそのくらいしか想定できない。

 箕輪町全域ではないが、部分的に西天流の灌漑している区域を少し最近歩いてきた。この水神の存在も意外であったが、深沢川の北、大出集落の段丘崖で北大出の鎮守である高橋神社の旧跡を見つけた。すぐ下を国道153号線のバイパスが走っているが、その段丘崖に足を踏み入れる人は、よほどのことがなければいない。たまたま水路を下っていったら見つけた旧跡なのだが、その旧跡は少しばかり平らになっている。脇に古い水路の跡のようなものが残っていて、それは小段のように段丘崖を等高線に沿って南北につながっている。一瞬道とも思いがちであるが、窪んでいる形跡がところどころあるから水路跡である。まったく予備知識がない中、地形図で等高線を追っていくと、北は羽場中井に繋がっていく。『辰野町誌歴史編』によれば、新町村・羽場村・北大出村の三ケ村の相合井筋だったという。とくに現在箕輪町の大出まで灌漑していたという記録はない。そもそも大出と北大出の間には桑沢川があって、桑沢川の下流域にあたる沢と北大出の間で水争いが激しかったという。「争いの発端は沢村が勝手に新井筋を桑沢川から引いたという理由であったが、幕府の寺社奉行所で吟味を受けるまで争われ、最後は北大出村六分、沢村四分の分水割にさせられて涙をのんでいる。このような苦労から解放されたいという願いによって生まれた伝兵衛井開削であった」と同書には記載されている。伝兵衛井は諏訪藩領から取水するという計画の中、了解が得られず取水口が下げられて完成した。当初の計画が現在の西天竜幹線水路の開削位置に等しいとされており、そもそも当初の計画で実現していたら西天流幹線水路は辰野町分に関しては、ほぼ現在の西天竜幹線水路と等しく安政年間には完成していたともいえるのだ。

 高橋神社旧跡脇の水路が『辰野町誌』によるところの沢新井であったかは定かではない。たまたま手元に『箕輪町誌歴史編』があって紐解いてみたが記録はない。

 箕輪町を歩いていてもう一つ見つけたものがある。箕輪中部小学校の南西、帯無川の右岸の小さな段丘の裾に西天流幹線水路から下ってきた支線水路とは別に段丘から突如として水路が始まって支線水路と立体交差して帯無川に放たれている水路を発見した。南箕輪村によくみられる横井戸ではないだろうか。もちろん水田に水が溜まっていないこの季節では、そこから湧水の姿は見られない。いわゆるイラン式横井戸であるかはともかくとして、少なからず横井戸の形跡であったのではないかと推測する。


コメント    この記事についてブログを書く
« 結局、民俗学はどこへ⑤ | トップ | 手編み »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

分水工を探る」カテゴリの最新記事