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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」其の12

2010-09-13 19:49:44 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の11より

■円筒分水工が設置された理由

 既に稲刈りの時期に入り、この10日から西天竜の水田地帯の水路に水は流れなくなった。水音のあった水路は、見事にドライになり、打って変わって一帯も乾燥した雰囲気となった。不思議なことに水の流れているときは気がつかなかったものの、水の止まった水路にはよくぞ使っていたと思うような水路がある。目地は開いているし、傾いた水路はさぞ使いづらいだろうに。漏水はあってもそれに目を瞑ればそこそこ水路は機能を保つ。昔のように一滴でも水を大切にという意識はすでに消えて久しい。

 昭和9年にまとめられた「耕地整理組合ニ於ケル配水管理ニ関スル調査」(「農業水利慣行ニ関スル調査」農林省農務局)には、当時の配水にかかわる状況がつふざに記されている。ちなみにこの資料の存在は、先ごろ綴った「文献から読む歴史」で引用した西川治氏の「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化」(『地理学研究』1952)において引用されていた文献だったからのこと。この資料に「過去四年間ノ水利状況」というものがある。開田の始まった昭和3年には「分水設備ハ幹線水路第六十間ノ間隔ニ分水口ヲ設ケ幹線ヨリ各直角に小分水ヲ設ケ灌漑スルノ方法ニシテ損失水量大ニシテ、下流へ流下セザレ共第一期開田面積一六五町歩ニ過ギザレバ別ニ水不足ナカリキ。」というように、損失は大きかったものの開田面積がまだ少なかったため、水不足にはならなかったというのだ。

 翌昭和4年には開田面積が405町歩と増え、「山林部ノ開墾多カリシト工事幾分粗雑ナリシト更ニ工事遅延シ一時ニ本田整備ヲ為シタルトノ諸事情ノ為水利ノ圓滿ヲ缺キシヲ以テ、「番水」ヲ行ヘリ。番水ハ最初地区ヲ二分シ、八時間交代ニ分水シ、次ニハ地区ヲ三分シ、同ジク八時間交代ニ或ハ代掻期間中ハ特ニ五日交代ニ分水シ晝間八分水量、最大水量ヲ定メテ適宜分水スル等ノ方法ヲ採レリ。」という具合に方策を採ったものの、やはり損失は大きく、「配水ニ大混乱ヲ来シ遂ニ警官ヲ依頼シ配水ニ従事セシ程ニシテ成績思ハシカラザリキ」というような状況だった。一転して配水が思うように行かなかった昭和4年、いよいよ配水に関して何らかの対応を迫られていたに違いない。

 そして昭和5年である。「従来の分水設備ニテハ用水不足ヲ来シ、配水意ノ如クナラザルヲ以テ、前述ノ如ク分水口ノ改造ヲ断行シ、分水口ノ整理、分水槽ノ設置、支線水路ノ築造ニ依リ、或ハ整地時期ノ緩和をナシテ工事ヲ丁寧ナラシメ、且又整地ヲ丁寧ナラシムル等ノ方法ヲ採リシヲ以テ、配水圓滿ニ行ハレ、用水不足ヲ来サザリキ。」という状況だ。開田面積はここまで517町歩に上るが、昭和5年の開田面積は米価の影響なのか思ったほどは進まなかった。それにしてもたった1年で警官に依頼してまで配水に手を焼いた事態は解消されている。この年に行われた分水口の改造がいわゆる円筒分水工の設置なのである。西天竜土地改良区に残る古い分水工の図面には昭和5年ころのものが多い。その状況の好転がいかに印象深かったか、後の回顧談でもよく聞かれることである。

 続いて昭和6年には開田面積は734町歩まで伸びる。「続イテ分水ノ整理或ハ工事ノ完全、用水期ノ緩和、代掻ノ丁寧ヲ期スル等極力其ノ配給ニ努メタル為別ニ配給上困難ヲ来サザリキ。」という具合だ。年々の経験が確実に成果をあげ、開田が進んでも地区内での問題はさほど起きなかったというわけなのだ。これが円筒分水工神話につながったのである。ちなみにこのころになると、諏訪湖沿岸地域との確執が顕著になってくる。


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